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「今昔マップ on the web」の引き継ぎ先が決まりました

昨年9月に「今昔マップ on the web」(以下「今昔マップ」)などの開発者である谷謙二さんがお亡くなりになったことを記事にしました。また、その後開発者のご遺族の方々と「今昔マップ」の存続に向けて動いていらっしゃる方々がいるとの情報を追記しました。それから半年ほどの間続報が出て来なかったため私も正直なところ気を揉んでいたのですが、3月26日に新たな動きがありました。

同日に東京都立大学南大沢キャンパスで催された「2023年日本地理学会春季学術大会」の場で、東京大学・空間情報科学研究センター(東大CSIS)が「今昔マップ」をはじめとする谷さんが開発されたソフトウェアの稼働するサーバの運営を受け持つ旨、同センター教授の小口 高さんから報告されました。






実際、現在「今昔マップ on the web」を見ると、谷謙二さんの名前の隣に生没年が追記されており(各ページのタイトル等、谷さんの名前の記されている多くの箇所にも同様の追記が見られます)、更に「研究室」のページには

本サイトの管理人であった谷謙二埼玉大学教授は2022年8月に逝去しました

と記載されています。東大CSISが維持管理していることを示すものは今のところ見られませんが、谷さん逝去後に初めて追記がなされたことで、後継の管理者がWebを更新できていることが確認できます。

追加の開発等は行われないとのことですので、「今昔マップ on the web」に更に過去の地形図が追加されたりする様な更新も行われないことになります。その点は特に「今昔マップ on the web」の対象になっていない地域には残念なことではありますが、現状でも過去の地形図相互の比較を行う上で大きな力となっている点は変わらないと思います。

まずは「今昔マップ on the web」の将来が担保されたことに感謝の意を表したいと思います。
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「国立国会図書館デジタルコレクション」のリニューアルを受けて(その3:「箱根の蕎麦」補遺)

昨年12月21日にリニューアルされた「国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「デジタルコレクション」)の全文検索で新たにヒットする資料をもとに、何か新たな発見があるかどうかを試す記事を、「その1」及び「その2」で公開しました。その記事を公開した頃には、「その3」はすぐにアップできるだろうと考えていました。ところが、その予定で調べ始めた題材では予想外に多くの資料が「デジタルコレクション」上でヒットし、その検証作業にかなりの時間を要する状況に陥ってしまいました。

そこで今回は予定を変更して、別の題材で「デジタルコレクション」上を探索して新たな発見がないかを探ることにしました。今回は、以前こちらの記事で検討した箱根地域の「蕎麦」について、明治以降の動きについて記された資料が更に見出せないかを検討します。


まず、以前の記事では明治時代の中頃から「宮城野蕎麦」の名で呼ばれる様になったことを示す資料を何点か紹介しました。これを踏まえて、「デジタルコレクション」上で「宮城野蕎麦」で全文検索を試みたところ、全部で61件の資料がヒットしました。うち2件が「国立国会図書館内限定」資料ということでネット経由でのアクセスが難しいため、残りの59件について何か新たな知見が得られる資料がないかを確認しました。

この61件を出版日の古い順に並べると、以前の記事でも紹介した「箱根温泉志」(明治26年・1893年 学齢館刊)と「箱根温泉案内」(全文検索でヒットするのは明治29年・1896年の増補訂正2版だが一部漢字や送り仮名の変更を除き実質的に明治27年の初版と同一文章、森田富太郎 著 森田商店刊)が最初に並びます。国立国会図書館未蔵の更に古い資料に出現する例があるのかも知れませんが、この明治26年頃が「宮城野蕎麦」の呼称が現れ始めた時期ということになりそうです。

以下、ヒットした資料には当然ながら旅行案内書が多く、一部に紀行文の類が混ざるといった傾向になっています。こうした旅行案内書が「宮城野蕎麦」の名称の流布に一役買った可能性が考えられます。

何点かの紀行文のうち、実際に蕎麦を注文した際の様子を記しているものとしては、「矢立之墨 : 探勝紀文」(下巻、微笑小史 著 明治39年・1906年 大橋義三刊)が挙げられます。注文をしてから蕎麦を打ち始めるので時間がかかるため、その間を散策する様に案内されているのに、それを知らずに小一時間待たされた、という経験が綴られています。この頃はまだ蕎麦打ちの間を繋ぐための別の料理などを供してはいなかったのかも知れません。

木賀(きが)(うへ)數丁(すてう)宮城野(みやぎの)あり、淸流(せいりう)(のぞ)みて(もう)けし一(てい)名物(めいぶつ)宮城野蕎麥(みやぎのそば)()(しか)して(その)家法(かはふ)たるや(卜は(すこ)仰山(げうさん)なれど)(かく)のあつらへを()きたる(のち)(はじ)めて製造(せいざう)()りかゝると()ふなれば、(これ)(あぢ)はゝんと(おも)(ひと)は、()(いく)つばかりと(めい)じおき、其邊(そのへん)時間(じかん)(あまり)(あそ)びし(のち)立寄(たちよ)るべき都合(つがふ)なるに、一(かう)(これ)()らざりし()め、正直(せうじき)()たさるゝ一時間(じかん)(あま)り、(その)(なが)(こと)打立(うちた)ての蕎麥(そば)よりも()ほど(なが)かりし、


一方、前回の記事では大正年間に入って小田原電気鉄道(現:箱根登山鉄道)の強羅乗り入れやケーブルカーの敷設、更には路線バスの開業に伴い、箱根地域の交通事情が様変わりしていくに連れて、宮城野蕎麦も影響を受けた可能性について示唆しました。この点について、まず「東京近郊写真の一日」(松川二郎 著 大正11年・1922年 アルス刊)に次の様な記述があるのに気付きました。

大涌谷(おほわくだに)から早雲山(さううんざん)山腹(さんぷく)(とほ)つて、二十(ちやう)ばかりで上强羅(かみがうら)()る。この上强羅(かみがうら)下强羅(しもがうら)との(あひだ)斜面(しやめん)に、强羅公園(がうらこうゑん)がある。小田原電氣會社(をだはらでんきぐわいしや)遊客(いうかく)誘引(いうひん)目的(もくてき)で、()なりな費用(ひよう)勞力(らうりよく)(とう)じて(つく)つた高山公園(かうざんこうゑん)である。…

入口(いりぐち)(まへ)宮城野蕎麥(みやぎのそば)出張店(しゆつちやうてん)や、汁粉屋(しるこや)などもある。


これに従えば、強羅一帯が新たに開発されて観光客の流れがそちらへと向かうのに合わせ、宮城野蕎麦もその流れに合わせて支店を出したことになります。但し、この強羅の店舗については他に記している資料を見出すことが今回は出来ませんでした。著者の松川二郎はこの様な旅行案内書の著述が多数あり、「その2」でも何冊かの旅行案内書の著者として名前が出ましたが、「宮城野蕎麦」でヒットした資料の中でも複数の著書が見つかりました。それにも拘らず強羅の宮城野蕎麦については他に記述を見出せないことから、あるいはこの強羅の店舗については短期間の営業に留まったのかも知れません。

箱根名所圖繪-4版(吉田初三郎-妹尾春太郎)4ページ部分
「箱根名所圖繪」4版中、強羅〜宮城野付近拡大
(「デジタルコレクション」)
箱根名所圖繪-4版(吉田初三郎-妹尾春太郎)6ページ部分
同左小田原駅周辺拡大
(「デジタルコレクション」)

また、「デジタルコレクション」で公開されている「箱根名所圖繪」(四版、吉田初三郎 製圖, 妹尾春太郎 著 大正11年・1922年 箱根印刷刊)では、絵図中に「宮城野そば」が営まれていた場所が「宮城野橋」の袂であったことが示されているほか、裏面の解説では「木賀温泉」の項の中で

宮城野は木賀から四丁餘で、名物宮城野蕎麥がある。「宮城野のそばのうまさやほとゝぎす」とは初三郎君の一句である。

と絵図を製作した吉田初三郎の俳句を添えて紹介しています。

「デジタルコレクション」で公開されているのはこの「四版」のみでしたが、ネットを検索してみたところ、「国際日本文化研究センター」の「所蔵地図データベース」で公開されている「七版」(昭和2年・1927年)と「日本民営鉄道協会」の広報誌「みんてつ Vol.52(2015年冬号、リンク先はPDF)」の「八版」(昭和5年・1930年)が見つかりました。この3つの版を比較して確認したところ、3版何れにも「宮城野そば」が地図中に記されていることがわかりました。一方、絵図の左下には後に東海道線になる「熱海線」が描かれていますが、「四版」では小田原駅から先の線が未開通であることを示す斜線を含んだ線で描かれているのに対し、「七版」と「八版」では開通後であることを示すゼブラ模様に描き替えられています。また、図中の「宮城野」から「板里温泉」に向かう道に「七版」以降にバスの絵が描かれており、この道に新たに路線バスが開通したことを示していると考えられます。これらの更新箇所から、「箱根名所圖繪」は箱根地域の観光案内情報をかなり適時的に更新していたものと考えることが出来ます。地元の出版社が数年おきに更新を加えて刊行を続けていた絵図の各版に共通して「宮城野そば」が記されていることから、「宮城野蕎麦」は「八版」が刊行された昭和5年頃には引き続き宮城野の地で健在だったと解釈できます。

以前の記事では箱根の交通事情の変化で宮城野蕎麦が衰退している可能性を考えていましたが、これらの資料の存在から見ればそれは正しくなく、単純にその頃の資料を見つけ損ねていただけということになりそうです。


但し、今回見つかった資料から宮城野蕎麦の存続した時期を特定可能であるかと考えた際には、今回ヒットした結果のみで判断できない問題があります。明治から大正の頃の資料では、先行する資料と明らかに酷似した文章が掲載されているケースが少なくありません。他の文献をそのまま引き写して終えている資料の場合は、果たして実地の取材を経ているのか疑わしいことになるため、その時期まで存続したことを示す史料としては採用しにくい側面があります。最低でも凡例や序文などに編集方針がどの様に記されているかを確認しながら取捨選択し、他の史料との矛盾が出て来る場合は年代特定のための史料としては採用しない判断が必要です。

今回ヒットした資料中、最も年代が新しかったものは「鄙びた湯・古い湯治場※」(渡辺寛 著 昭和31年・1956年 万記書房刊)で、

宮城野蕎麦がおいしかつたが今はつくつてくれない。

と宮城野蕎麦がこの頃までに廃止されたことを伝えています。廃止されたことを伝える資料は今のところ他に見つかっていませんが、これを最後に「宮城野蕎麦」の名を記す資料が見当たらないため、遅くともこの頃には作られなくなっていた可能性が高いと考えられます。

それに対し、この次に年代が新しい「温泉案内※」(運輸省観光部 編 昭和25年・1950年 毎日新聞社刊)では木賀温泉の名物として「宮城野蕎麦」の名が挙げられていますが、その「例言※」を見ると、

一、本書は大正九年の初版以來版を重ねた、鉄道省編纂「溫泉案内」を改版したもので、これによつて日本の重要な観光資源の一つである全國の溫泉をあまねく紹介するものである。

一、改版に当つては、昭和十五年の最終版をもとゝしたが、その後全國的に大きな変動があつたので、内容は殆ど全面的に書き改め、挿入の地図、カットも新規に描き直し、写眞は最近撮影のものを掲げた。

一、改版の資料は、当該地方からの報告を主とし、一部実地調査によつてこれを補つたが、なお遺漏なきを保し難い。これは資料收集後の変動等と共に、大方の示教を得て、他日の完璧を期したい。

と、必ずしも実地の取材を主としていないこと、元にした版が10年前のものであることを書いています。こうなると、この「温泉案内」に記されている事実が全て出版年の昭和25年のものと言い切れるか疑わしくなってしまい、「宮城野蕎麦」もこの頃まだ存続していた裏付けとしては使えないことになってしまいます。その前の資料は昭和14年(1939年)まで遡るため、この辺りの年代の資料の点数は必ずしも多いとは言えません。これらのことから、今回の検索結果からでは「宮城野蕎麦」の廃止された時期の特定は出来ないと判断せざるを得ませんでした。



一方、箱根の蕎麦については必ずしも「宮城野蕎麦」の名前が使われているとは限らないので、他のキーワードでも検索を試みることにしました。しかし、「箱根」にしても「蕎麦」にしてもあまりにも一般的な単語過ぎて、全文検索では膨大な件数の資料がヒットしてしまいます。もう少し件数を絞り込むために使えそうなキーワードとして、蕎麦を供する店の名前として登場した「洗心亭」を含め、「洗心亭 箱根 宮城野」で全文検索を試みたところ、全部で269件の資料がヒットしました(うち「国立国会図書館内限定」資料が48件)。

もっとも、「洗心亭」はかつての赤坂離宮の庭園に存在した四阿の1つにも名付けられていたのをはじめ、全国各地に旅館や庭園の四阿などの同名の施設が存在しました。江の島とその対岸の片瀬「すばな通り」沿いにもかつて「洗心亭」という名の旅館があり、ヒットした資料の中にもこの旅館の記事が複数見つかりました。一方の「宮城野」は仙台方面の地名や相撲部屋とも重なる名称です。このため、この269件には箱根の蕎麦店に関する記述がないものが大半を占めました。この様に、指定しようとするキーワードがこれから調べようとする対象物を必ずしも一義的に指すものではない場合は、それらを複数組み合わせても関連のない資料が多数ヒットしてしまいます。検索するキーワードをどの様に選定するかは、ある程度意に沿った検索結果を得る上でのテクニックということになりますが、今回は多少多めにノイズを拾う結果になっても広めに検索結果を得る方を選択しました。

三府及近郊名所名物案内 3版(日本名所案内社)洗心亭広告
「三府及近郊名所名物案内 3版」
(大正10年・1921年 日本名所案内社)
に掲載された広告
(「デジタルコレクション」)
それでも、以前は「洗心亭」の名の登場する資料を1点しか見つけられませんでしたので、今回は以前よりは関連する資料を見つけ出すことが出来ました。右の「洗心亭」の広告もそのうちの1つで、「箱根宮城野/名物そばや/洗心亭」とごくシンプルなものになっています。同じページに木賀や宮ノ下の温泉宿の広告が掲載され、そちらには電話番号が掲載されているのに対し、洗心亭の広告には電話番号が掲載されていないことから、当時はまだ洗心亭が電話を引かず、専ら直接来店する客を相手に商いを行っていたことが窺えます。

もっとも、本文中ではそもそも近郊の温泉を含んだ名所の記述はごく僅かで、箱根の名物についての記述さえ見られません。今回の検索で「洗心亭」の広告をヒットしたのはこの1件のみで、特に積極的な広告戦略を採った様には見えないお店が、何故自分の店について特に何も書いてくれない書物に敢えて広告を出稿することを決めたのか、意図を掴みかねる1冊でもあります。

一方、「桂月全集 第12巻 詩歌俳句書簡雑篇※」(大町桂月 著 大正12年・1923年 桂月全集刊行会)に掲載された大正11年5月24日の書簡の中では、

御殿場より自働車を呼び長尾峠を越えて箱根山中に入り候。實は長尾峠より富士を望むが主眼なりしが、雲の爲に見えず失望いたし候。あとは附屬的也。ケーブルカーに乗り、歸路宮城野の洗心亭に小酌いたし候。同行は小笠原松次郎氏、長男芳文。

と記されています。

「小酌」と書くことから、この席では当然お酒が出て来たものと考えられますし、蕎麦だけではなく酒に合う料理も出されたものと考えられます。この頃には洗心亭が必ずしも蕎麦だけを商う店ではなくなっていたことが窺い知れます。


また、「靑年敎育研究 第2卷第9號※」(靑年敎育研究會編 昭和8年・1933年9月)所収の「文部省主催兒童生徒校外生活指導講習會に就いて(靑年敎育課)」では、同年の8月10〜19日に、宮城野小学校を会場、対岸の洗心亭を宿舎として講習会を催したことが記されています。後方のページでは「夜間の研究協議會(洗心亭にて)※」 とキャプションを付した写真が掲載されており、洗心亭内のかなり大きな広間で会合を催している様子が写っています。この写真から、当時の洗心亭がかなり大人数を収容できる広間を擁していたこと、更に「宿舎」という表現から宿泊施設を備えた料亭の様な営業形態へと変化していたことが窺えます。宮城野の地で商いを継続するための経営努力の結果と見るべきでしょうか。

箱根の宮城野にあった「洗心亭」についての記述が見られる資料は、今回の検索で見つけることが出来たのは以上の3点でした。上記の通り、検索に指定するキーワードで充分に資料を絞りきれていない中での結果ですので、引き続き他のキーワードなどで検索を試みる価値はありそうです。

因みに、箱根の蕎麦の存続期間を探るために別のキーワードで検索を試みてヒットした資料の中に、「日本山岳案内 第6集※」(鐵道省山岳部 編 昭和16年・1941年 博文館)があり、その「木賀温泉」の項に

宮内旅館があり蕎麥が名物である。

と、「洗心亭」以外に箱根で蕎麦を供していた旅館の名前が登場します。「宮内旅館」自体は明治初期の資料から木賀温泉の旅館として名前がしばしば登場していることが確認できましたが、この旅館が蕎麦を出していたことを記しているのはこの資料のみです。一方でこの資料の「宮城野より明星ケ嶽を經て明神ケ嶽※」の項でも

宮城野は裏街道の宿場で蕎麥が名物である。

とやはり蕎麦を名物として取り上げています。これも、太平洋戦争開戦直前頃の事情を適時的に反映したものと言えるかは、更に他の資料と照合して確認する必要があります。



今回の「デジタルコレクション」の検索で新たに見つかった一連の資料からは、箱根の蕎麦がこれまで私が想定していたよりも長きにわたって存続していたことがわかりましたが、具体的に何時頃まで存続したのか、またどの様な事情で消失へと向かったのかを理解するのに繋がる資料は見つかりませんでした。無論、今回の限られた検索の試みだけではまだ見つけ損ねている資料があるかも知れませんし、そもそも郷土史の史料に関する記述が国立国会図書館の蔵書だけで網羅される訳でもありません。寧ろ、今回の結果を更なる史料の探索の手掛かりとして考えるべきなのでしょう。

なお、今回取り上げる予定だった題材については、次回こそ記事にまとめられればと思っていますが、まだ作業量が多く、もうしばらく時間が必要かも知れません…。
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マップルラボ「MAPPLE法務局地図ビューア」の公開を受けて

2月14日に、マップルから「MAPPLE法務局地図ビューア」(以下「地図ビューア」)を公開した旨のプレスリリースが出されました。


この地図ビューアに最初にアクセスした時に表示されるダイアログでは次の様に説明されています。

「MAPPLE法務局地図ビューア」はG空間情報センターで公開されている登記所備付地図データを「MAPPLEのベクトルタイル」に重ねた地図です。MAPPLEの地図と重ねることにより、不動産鑑定や土地家屋調査などの不動産関連業務、公共サービス、農業、林業、災害対応など街づくりに関する業務のDXや効率化につながります。詳しくはプレスリリースをご覧ください。


現状では地籍調査は全国的に見てもあまり進んではおらず、地図データ化出来ている地域は更に少ないのが実情の様で、神奈川県下では地籍調査の進捗率が10%に満たない市町村も数多く存在しています。このため、残念ながら神奈川県下ではこの地図ビューアでも「ベクトルタイル」が全く表示されない地域の方がかなり多くなってしまっています。とりわけ、新旧の東海道筋で地籍調査が進んでいない地域が多く、こうした地域ではこのビューアで得られる新たな情報は期待できません。

但し、比較的早い時期に地籍調査を完了して地図データが存在する地域では、その後の開発前の状況を現在の地図と重ねて見ることが出来ます。それによって、古い時代の街道や河道の位置関係をより高い精度で把握することが可能な箇所が存在しているのも事実です。

今回はそうした地域の中から、中原街道の地図データを見てみたいと思います。横浜市緑区の鶴見川に架かる落合橋から瀬谷区の新道大橋手前までの区間では地図データが揃っており、現在の様に片側2車線の道路へ拡幅される前の街道の位置関係がかなり見て取れます。

「MAPPLE法務局地図ビューア」中「道-33」
八王子バイパス下川井インター付近の地図データ
マーカーの指し示す先が旧中原街道の区画「道-33」(「MAPPLE法務局地図ビューア」をスクリーンキャプチャ)

八王子バイパス下川井インター付近の1960年代の空中写真と地形図との合成(「地理院地図」より)

とりわけ興味深いのが、現在は八王子バイパスの下川井インターの建設に際して大きく台地を削ったために消滅してしまった区間が、地図データ上に残っていることです。「道-33」という名称になっている区画がかつての中原街道で、現在の下川井インター交差点のやや南側を登る坂道であったことがわかります。

「地理院地図」の1960年代の写真でも、かつての中原街道の道筋を現在の地形図と重ねて見ることが可能ですが、写真では周辺の建物や生垣の樹木の影になって判別が難しかったり、現在の地形図との測地のズレもあって精度という点では課題が残ります。今回の地図ビューアの持つ精度については更に検証は必要ですが、基本的には公図としての精度は保っていると考えられますので、空中写真と比較すると現在の道路等との位置関係が明確になりやすい特徴はあると思います。

「MAPPLE法務局地図ビューア」中「道-537」
「梛の木石碑前」バス停付近の地図データ
マーカーの指し示す先が旧中原街道の区画「道-537」(「MAPPLE法務局地図ビューア」をスクリーンキャプチャ)


上記箇所付近の1960年代の空中写真と地形図との合成(「地理院地図」)

下川井インターから中原街道をもう少し西へ進んだ辺りでは、現在の県道の脇の細い路地と、「道-537」と名付けられた区画が重なっていることがわかります。この路地が旧中原街道の名残です。1960年代の空中写真では、南側の林の陰が街道に被ってしまっているため、道筋を判読するのが困難になってしまっています。

中原街道は江戸へほぼ直線的に向かう道であると、江戸時代の文書などに記されていることが多いのですが、実際の街道は僅かながらS字状のうねりがあったことが、地図データに残る街道の区画から読み取れます。その大半は道路の拡幅によって消滅しているのですが、ごく一部にこの様な旧道の「名残」が残った箇所があります。この地点については、街道の北側が崖になっていたことによって道路拡幅後に旧道を残して崖の上からの道筋との接続を確保する必要があったのでしょう。結果的に旧道と拡幅後の県道との間にごく細長い敷地が残りました。

また、地籍調査時点での中原街道の道幅が、後の拡幅工事によって獲得した道幅と比較して、数分の1程度の幅しかなかったことも見て取れます。但し残念ながら、この記事執筆時点では地図ビューアに縮尺が表示されていないため、「道-33」で示される「道幅」がどの程度のものであったかを地図上で計測することが困難です。現在の地形図で計測できる道幅との比較で類推するしかありません。

更に、地籍調査もそこまで時代を遡るものではありませんので、これを元に該当する公図を取り寄せて計測を行ったとしても、その道幅が何処まで時代を遡って適用可能なものと言えるか、特に江戸時代当時の記録との比較に耐え得るものであるかは、他の史料などと照らして考える必要があります。

「MAPPLE法務局地図ビューア」中「道-12」
「動物園入口」交差点付近の地図データ
マーカーの指し示す先が旧中原街道の区画「道-12」

「MAPPLE法務局地図ビューア」中「1449-110」
同じ位置の地図データに旧中原街道の区画と考えられる「1449-110」も見える
(どちらも「MAPPLE法務局地図ビューア」をスクリーンキャプチャ)


同じ位置の「今昔マップ on the web

実際、下川井インターの北東側の「動物園入口」交差点付近には、「道-12」という区画が見えています。この区画がかつての中原街道の位置にあることは確かですが、道としての幅はかなり拡がっていることがわかります。1960年代の空中写真と比較すると、必ずしもこの区画全体が道として使われていた様には見えていませんが、地籍調査の時点で既に拡幅のための用地が取得されていたのかも知れません。実際、この交差点の南西側でかつての中原街道は小高い丘を迂回する道筋が付けられていましたが、その道筋は「1449-110」と名付けられた区画として存在するものの、現在の県道に位置する区画も既に複数に分かれて存在しており、拡幅に向けての動きが地籍調査の結果に反映していることが窺えます。

上で記した通り、神奈川県下では地籍調査の実施率が低いことから、今回の様な検討を行い得る地域は限られています。しかし、古い時代に調査が実施された地域では、この様な区画の変遷を辿れる可能性が秘められており、その点では今回の地図ビューアはこうした変遷を捉えやすく表示してくれるツールとなり得る存在であると言えます。まだ実験的な公開という段階ですが、今後の展開を見守りたいと思います。
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「【動画】多摩川台公園〜古墳と多摩川遊覧と浄水場〜」補足

これも先日来の「国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「デジタルコレクション」)のリニューアルによって実現したことの一環ではあるのですが、当初アップする予定だった「その3」がまだ仕上がっていないため、こちらの短い記事を先に出します。

かなり前の記事で、現在の多摩川台公園内に位置する古墳群を、将軍就任前の徳川家定がそれとは知らずに訪れていたことを動画にして公開しました。その際に典拠とした史料について、その名前はわかっていたものの、それが収録されている史料集の名前を書き留めそこねていることを記しましたが、それから10年以上そのままになってしまっていました。

「デジタルコレクション」のリニューアルで全文検索が可能になったこと、また対象となった資料が大幅に増えたことから、あるいはこの資料も検索できるかも知れないと思い立ち、試しに史料の名称「玉川辺亀ノ甲山江右大将様御成記録」で全文検索してみました。

その結果、該当する資料集が1件ヒットし、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」資料として登録さえ出来ればインターネット経由でも閲覧できることがわかりました。件の資料は

大田区史 資料編 北川家文書 1」(大田区史編さん委員会 編 1984年 東京都大田区刊)

でした。当該の史料は312ページから325ページにかけて掲載されており、かなり長大なものになっています。

この史料中の「御成御場所()絵図」は318ページ〜319ページの見開きに掲載されています。複数の小さな古墳が連なる様子が現在の地形とも大筋で合致するものとなっており、その上にどの様に道などを配置したのかがこの絵図によって良く理解できます。

なお、「玉川辺亀ノ甲山江右大将様御成記録」の後続に掲載されている
  • 18 御成御用人足幷諸雑用取調帳
  • 19 亀ノ甲山御成諸人馬諸入用記録
も家貞の御成に関連する資料で、御成に際して働いた人や馬の動きが事細かく記録されているのがわかります。

何れにせよ、こうした市町村などの資料集も全文検索で探し出せる可能性が拡がった点は、郷土資料の使い勝手を飛躍的に向上させるものになったと言えそうです。勿論、これまで繰り返し書いてきたことですが、現状ではOCRの精度に制約がある以上、検索結果のみに頼った調査は慎むべきではあります。しかしそれでも、「デジタルコレクション」に収められている資料集であれば、居住地の最寄りの図書館では閲覧できない遠隔地の資料もこの様に探し出して閲覧できる可能性が拡がったのは大きいものがあります。
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「国立国会図書館デジタルコレクション」のリニューアルを受けて(その2)

前回の記事に引き続いて、先月21日にリニューアルされた「国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「デジタルコレクション」)の全文検索で新たにヒットする資料をもとに、何か新たな発見があるかどうかを試してみます。

今回は前回の「馬入橋」を受けて、「酒匂橋」を取り上げることにしました。酒匂橋につては馬入橋ほどに落橋を繰り返した記録は残っていないものの、明治から大正にかけての経緯については更に探すべき史料が存在する可能性も感じているからです。


酒匂橋酒勾橋馬入橋
明治1〜10年
(1868~77年)
0件0件0件
明治11〜20年
(1878~87年)
0件0件4件
明治21〜30年
(1888~97年)
5件5件7件
明治31〜40年
(1898~1907年)
19件7件23件
明治41〜大正6年
(1908~1917年)
29件7件9件
大正7〜昭和2年
(1918~1927年)
42件23件37件
ひとまず「デジタルコレクション」上で「酒匂橋」と入力して検索すると441件の資料がヒットします。結果を絞り込むため、明治元年から10年区切りで分類すると、右の表の様になります。比較のために馬入橋のヒット件数も併せて表にしてみます。更に、「新編相模国風土記稿」で「酒匂」の表記は「酒勾」の誤りであるとするなど、「酒勾橋」の表記に拘った資料も存在するため(全体で91件)、こちらについても同様にヒット件数を一覧化しました。

ヒットした資料の出版年が早いのは馬入橋の方ですが、その後の件数の伸びという点では、「酒匂橋」と「酒勾橋」を足した件数の方が多くなっています。OCR精度の課題はありますので、この件数も多少の誤差はあると考えられますが、それぞれの検索キーワードに対して誤差が同じ様に出ると考えると、件数の分布の傾向については大筋でその通りに読み取って良いのではないかと思います。

ヒットした資料を点検して見えた傾向からは、「酒匂橋」や「酒勾橋」のヒット件数が「馬入橋」より増えた最大の要因は、文芸作品での登場回数が意外に多いという点にある様です。中には単に酒匂橋を通過したことを記す程度のものもあります(「千歳之鉢(ちとせのはち)」泉鏡花著 「柳筥」所収 明治42年 春陽堂、「箱根撮影記」田山花袋著 「花袋紀行集 第1輯」所収 大正11年 博文館 など)。しかし、酒匂橋周辺の景観を愛でるものも少なからず見つかります。こうした事例から数点引用してみます。

電車(でんしや)(うご)()した。停車場(すていしょん)(わき)から大迂廻(おほまはり)して國府津(こふづ)(くわん)(まへ)()ると、それからは(のき)(ひく)(ちひ)さな(いへ)ばかり(なら)むだ狹苦(せまくる)しい(まち)(とほ)ッて、二條(にでう)軌道(れいる)(はし)ッて()く。酒匂橋(さかはばし)(ところ)まで()ると、(きふ)四邊(あたり)(ひら)けた。(ひだり)には相模(さがみ)(うみ)眞近(まぢか)(たゞよ)ふて()る、(みぎ)には箱根(はこね)連山(れんざん)畑田(はたけ)(へだ)てゝ(そび)えて()る。(さむ)(はず)だ、孖山(ふたごやま)(いたゞき)には(ゆき)化粧(けはひ)して、それより(たか)山々(やまやま)凍雲(とううん)(つゝ)まれて()る。

(「唯一人」柴田流星 著 明治42年 左久良書房 243ページ)

春月や歩めば長き酒匂橋  ルイ笑

(「春月(募集俳句其一)※」から 「ホトトギス」第12巻第7号 明治42年 ホトトギス社 所収 74ページ上段後ろから4行目。なお、「袖珍新俳句※」(有田風蕩之 (利雄) 編 明治44年 博文館)に同じ句が掲載されている(52ページ後ろから8行目)。)

酒匂橋(さかはばし)(ちか)くなりて、相模(さがみ)の山々に(ゆき)(しろ)(つも)りたるを

酒匂橋(さかはばし)わたるたもとにかゝりけり

さがみの山のゆきのしらゆふ

(「()めぐみの(あめ)※」弘田由己子著 「わか竹」第8巻第4号 1915年4月 大日本歌道奨励会  所収 50ページ)

國府津(こふづ)から小田原(おだはら)への一里半(りはん)は、三四の部落(ぶらく)半農半漁(はんのうはんぎょ))と松並木(まつなみき)とが交錯(かうさく)して、(また)(かは)つた(おもむき)()せてゐる。酒匂橋(さかはばし)(うへ)眺望(てうばう)は、すでに定評(ていひやう)があるから()かぬ、月明(げつめい)(まつ)葉越(はご)しに富士(ふじ)(なが)めて、(ほし)漁火(ぎよくわ)との文目(あやめ)もないなどは、興趣油然(きやうしゆいうぜん)たるを(きん)ずることができぬ。(しか)しカメラマンとしては橋上(けうじやう)眺望(てうばう)よりも、()(はし)主人公(しゆじんこう)としての(こうづ) (ママ・「図」欠か)手腕(しゆわん)(ふる)ふべきであらう。それは左岸(さがん)(すなは)酒匂(さかは)(はう)からするが()い、海岸(ルビ判読不能)に三(きやく)()てゝ(やま)背景(バツク)とし、(ある)ひは土手(どて)から(うみ)背景(バツク)として白帆(しらほ)添景(てんけい)する、(いづ)れにしても對岸(むかふぎし)(はし)(すそ)(おほ)きな(まつ)東海道(とうかいだう)並木(なみき))があつて、構圖(こうづ)引立(ひきた)てゝくれる。

(「東京近郊寫眞の一日」松川二郎 著 大正11年 アルス 94〜95ページ、強調及び傍注はブログ主)



松濤園跡地。現在は社会福祉法人施設になっている。
ストリートビュー
また「酒勾の一日※」(菜花野人著 「むさしの」第2巻第9号 1903年 古今文学会 所収 11〜14ページ)や「新婚旅行日記※」(靄霞女史著 「性」第2巻第5号 1921年 天下堂書房 所収 480〜483ページ)では、酒匂橋近くにあった「松濤園」に数日間滞在しながら酒匂周辺や小田原・箱根へ足を伸ばした旅行の様子が描かれています。松濤園は現在は営業は行っていませんが、当時は貸別荘として営業していました。

これらの文芸作品での表現から、この頃には酒匂橋近辺が観光の拠点として機能していた様子が見て取れます。また、「花(二)※」(眞下喜多郎著 「ホトトギス」第27巻第8号 大正13年 ホトトギス社 所収 26〜30ページ)では、松濤園に滞在しながら周辺を散策する中で、ちょうどコンクリート橋に架替工事中だった酒匂橋の様子が伝えられています。

Odawara Gyosho Tokaido.jpg
「行書版東海道」中の「小田原」
歌川広重 - ボストン美術館,
パブリック・ドメイン, Wikimedia Commonsによる)
東海道五十三次 小田原 酒匂川-Odawara MET DP122890.jpg
「隷書版東海道」中の「小田原」
歌川広重 - ウィキメディア・コモンズはこのファイルをメトロポリタン美術館プロジェクトの一環として受贈しました。「画像ならびにデータ情報源に関するオープンアクセス方針」Image and Data Resources Open Access Policyをご参照ください。,
CC0, Wikimedia Commonsによる)

酒匂の周辺が眺望スポットであることを記した江戸時代の紀行文などは、私が知る限りでは見ていません。大磯宿から小田原宿にかけては間が4里と他の区間に比べて距離が長い上に、渡し場で時間を取られる、小田原を箱根越えに備えて宿泊地とするケースが多いことから日没近くにこの区間を通行することが多いなどの要因が重なって、風景を愛でるほどの時間の余裕が乏しいことが理由として考えられそうです。

しかしながら、歌川広重が最初に保永堂版「東海道五十三次」で小田原を描く際には、酒匂川の渡しを俯瞰しながら遠方の箱根方面の山々を描く構図を採用しています。以後広重が東海道を繰り返し描く中で、「行書版」「隷書版」「双筆五十三次 (広重と三代豊国との合作)」「人物東海道」「東海道風景図会」の計6作品で、酒匂川の渡しと箱根の山々を描く構図を採用しています。広重が何故小田原の風景としてこれほどまでに酒匂川の渡し場に拘ったのか、その理由については詳らかにされてはいません。しかし、時代が下って酒匂橋付近からの眺望が愛でられる様になったことと併せて考えると、あるいは広重もこの眺望に惹かれて酒匂川の渡し場の風景を描き続けたのかも知れません。



「酒匂橋」や「酒勾橋」でヒットした資料の中には、「馬入橋」で見られた「官報」が含まれていないことが1つの特徴です。このことは、酒匂橋の損傷や落橋の報告が、馬入橋の様には中央政府に上がっていないことを意味しています。これまで私が調べた範囲でも、酒匂橋は馬入橋ほどの損傷を受けた記録があまり出て来ない傾向がありました。「デジタルコレクション」のヒット結果も、ある程度この傾向を裏付けていると見ることが出来ます。

その主要な要因と考えられるのが、明治20年頃からの箱根登山鉄道の前身に当たる「小田原馬車鉄道」の敷設、更に「小田原電気鉄道」への更新です。委細はこちらの記事で検討しました。継続的な収入を見込める鉄道事業が架橋や修繕の費用を応分に負担していたことが、酒匂橋の維持に少なからず貢献していたのではないかということです。

「日本写真帖」(田山宗尭 編・明治45年)より「酒勾橋」
「日本写真帖」(田山宗尭 編 明治45年刊)より
「酒勾橋」
撮影年は不明だが
小田原電気鉄道開業後の明治33〜44年に絞ることは出来る
写真帖では「勾」表記だが親柱は「匂」である様に見える
(「デジタルコレクション」より該当箇所切り抜き)
その見立てを補強してくれそうな資料が、「デジタルコレクション」上でヒットした中に1点確認できました。「工学会誌」第230巻(明治34年5月 工学会刊行)所収の「論說及報吿 小田原電氣鐵道工事槪要※」(武永 常太郞著)です(261〜297ページ)。それまでの馬車鉄道を電気鉄道に更新する際の工事の内容が仔細に記録されており、その中には酒匂橋を含む全ての橋梁の工事も含まれています。

ここではまず「◯橋梁ノ支持力計算※」(290〜291ページ)の項で10トンと想定されている電車の重量に耐えられる橋桁の太さが見積もられています。続く「◯橋梁の材料」(291ページ)では橋に使用する木として「槻、杉、栗、松」が使われた箇所が具体的に記述され、更に橋台に使用された石材の寸法などが仔細に記されています。そして、「◯橋梁ノ數及小橋架設法一斑※」及び「◯各橋の幅員」(292〜293ページ)で、酒匂川の川幅が「百九拾六間」(約356m)であること、酒匂橋は「長千百七拾六尺杭木三本建四十八枠高水中沼入共貳拾尺橋台鏡通上口拾貳尺高拾八尺敷拾六尺妻手上口四尺高拾八尺敷六尺砂利止石垣妻手共長拾九尺高一尺七寸」と大きさが仔細に記されています。

更に「◯其架設費」(293〜294ページ)で酒匂橋の架橋に「金七千貳百九拾四圓六拾一錢五厘」を要したことが記されていますが、全21橋の架橋に「金三萬貳千八百六拾五圓五拾三錢四厘」を要していますから、酒匂橋がその22%を占めていること、更に「◯增資確定、社名改稱、並ニ工事進行※」(264〜265ページ)で増資額が「四拾壹萬五千圓」とされていることから、橋梁工事全体で増資分の8%ほどを費やしていることになります。

当時はまだ自動車が走っていたのは東京や横浜のごく限られた地域のみでしたから、電車が橋梁に掛ける荷重は当時橋を渡っていく人馬などに比べて桁違いの重さを掛ける唯一の存在であったことになります。更に橋上に鉄路を敷設したり架線柱を設置する必要があるので、その分も橋に掛ける荷重に加わることになります。こうした状況への対処のために、小田原電気鉄道がその敷設に当たって酒匂橋をはじめとする各橋の架設にかなり重点的に労力を割いた実情が、この資料でかなり明らかになると思います。

もっとも、その後も度重なる水害で酒匂橋も損傷を受け、都度修繕に追われていたことはこのブログでも取り上げました。その様子の一端を伝える文章も、「デジタルコレクション」の全文検索で新たに見つかりました。

酒匂橋(さかはばし)の富士、足柄野、箱根(はこね)の山と、眺望は種々(いろいろ)に動く、橋は今夏の洪水(こうずゐ)で危く流失せんとしたのを丸太(まるた)や板で膏藥(つくろ)ひをしたままである。向岸は(なが)れたので架け()へたものの是れも()りに一時と云つた(ふう)である流は淸く石は(しろ)し。

(「東海道名所探訪記※」眞山靑果著 「学生文藝」第二巻第五号 1911年 聚精堂 所収 36ページ、くの字点は適宜展開)


こうしたこともあり、架橋の費用については次第に神奈川県が負担する方向に傾いていきます。こうした動向について記した資料も新たに1点見つけることが出来ました。

彼の酒匂橋も昨年十一月、通常縣會で改修が議决になりましたに付まして、土地の靑年が戌申詔書の御趣意に基き、本縣知事の告諭の下に成立しました、勤儉事業の手始めに河床確定の爲め、土砂を利用して護岸設備に着手するとのことで一千内外の靑年が新年匆々の大活動と申す譯でござりますから幾分の興味もあらうと存じまするし。

(「新譯觀音經㈡※」勿用杜多著 「六大新報」第334号(明治43年2月6日)六大新報社 所収 11ページ)


なお、大正12年(1923年)には関東大震災が起こり、同年7月にコンクリート橋に切り替えられたばかりの酒匂橋も全損してしまいます。「デジタルコレクション」でも、この時期以降には震災報告書の類が急増しています。その中から、次の旅行案内記は震災後も景色の魅力を喪っていないことを記している点を汲んで1点のみ引用します。著者は上記「東京近郊寫眞の一日」と同じ人物です。

酒匂橋(さかはばし)はコンクリート(つく)りの白色(はくしよく)立派(りつぱ)(はし)であつたが、震災(しんさい)(ため)木葉(こつぱ)みぢん破壊(はくわい)せられて、(いま)工兵隊(こうへいたい)()けた木橋(もくけう)()()わせてゐる、(しか)()橋上(けうじやう)風光(ふうくわう)(なほ)()てがたく、月明(つきあかり)(まつ)()()しに富士(ふじ)(なが)めて、海上(かいじやう)(ほし)漁火(ぎよくわ)との文目(あやめ)もないなどは、興趣油然(きやうしうゆぜん)たるを(きん)ずることができない。旅館(りよくわん)松濤園(せうたうゑん)別荘(べつそう)(ふう)()(かた)松風(まつかぜ)(なみ)のひゞきとが(まくら)(かよ)ふのがうれしい。

(「土曜から日曜 改版」松川二郎 著 大正14年 有精堂書店 27ページ、傍点は下線で代用)




ところで、上記で「酒匂橋」と「酒勾橋」のヒット件数を示しました。これだけを見ると、「デジタルコレクション」中ではそれぞれの漢字表記で個別に検索を行っているかの様に見えます。しかし、検索結果を追っていくと、実際は必ずしもその様にはなっていないことがわかります。
「酒匂橋」で検索
「箱根大観」がヒット
「酒匂橋」でヒットした中に「箱根大観」が含まれているが…
ヒットしたのは「酒勾橋」
該当箇所の表記は「酒勾橋」になっている。

その1つの例が「箱根大観」(佐藤善次郎、森丑太郎著 明治42年 林初三郎刊)の中に見られます。ここでは「酒匂橋」で検索を行っており、「箱根大観」の検索結果にはOCRテキストの一部も表示されていることから、確かに「酒匂橋」でヒットしたことがわかります。しかし、該当箇所(6ページ)を見てみると「酒勾橋」の表記が「酒匂橋」と置き換えられたものであることがわかります。

OCRテキスト中で「酒匂橋」「酒勾橋」の表記をそれぞれ堅持すべきなのか、それとも「酒匂橋」に統一すべきなのかは、使い勝手という点では一長一短あることですので、一概に決められることでは必ずしもありません。しかし、蔵書全体をOCRで処理する前にどちらを選択するかをポリシーとして決めておき、そのポリシーに一貫して準拠して処理を進めるべきではあります。他の検索結果を見ると基本的には「酒匂橋」「酒勾橋」それぞれの表記個別に検索が行われている様に見えるものの、一部にそれと異なるポリシーで処理されたものが混ざっている様です。

何故この様な状況が起きているのかはわかりませんが、別の事例では明らかに誤植と思しき箇所を何らかの方法でOCR結果を修正したと思しき箇所も見つかっていることから、あるいはOCR結果をレビューして修正する過程でこの様な事例が紛れ込む結果になったのかも知れません。今のところ要訂正箇所の報告を受け付ける専用の窓口は引き続き設けられていませんが、こうした事例については折を見てOCRの精度向上に努めて欲しいところです。

もっとも、中には資料自体に明らかに誤植があるものを「正しく」直したと思われる例も見つかっており(「大筥根山」井土経重著 明治42年 丸山舎書籍部、「匃」の様な字が使われている)、この様な例も含めてどの様なポリシーを設定すべきなのかは、なかなか悩ましいものがあります。

次回更にもう1回、別の検索事例を紹介したいと考えています。
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