十六年(一八八三)には六〇〇〇円余を投じて長さ二三〇間、幅三間の木橋が建設されたがこれも流失した。
(「茅ヶ崎市史 第四巻 通史編」1981年 414ページ)
この橋が問題と最後に書いた訳ですが、何が問題なのか。それは、この2代目の橋が木製トラス橋であったと書いている本が複数あることなのです。
相模川に再び橋が架けられたのは明治一一年のことで、有料橋であったと思われる。そして同一六年には木造のトラス橋が架けられた記録がある。橋長は一二〇間(二一八メートル)とされるから低水敷のみを渡る橋であったのであろう。この橋は八、九年後には流失してしまったようである。
「日本百名橋」松村 博著 鹿島出版社 1998年 67ページ 強調はブログ主)
探せば他にもあるかも知れません。明治十一年、昔からの東海道馬入の渡しに木橋が架けられた。明治に入り人力車、馬車の出現により橋が必要となったためである。明治十六年木造トラス橋に改築され、同四十四年には鋼げた橋に改造された。
(「かながわの橋」関野 昌丈著 かもめ文庫 1981年 70〜71ページ 強調はブログ主)
これらの記述の出典を探してみたところ、昭和4年の「明治工業史 土木篇」という書物が「土木学会附属土木図書館」上に全編PDFファイルとして公開されているのを見つけました。その中に次の様に書かれています。
ここで「構桁橋」と表現されているのが今で言う「トラス橋」のことです。恐らく、上記の複数の本は、何れもこの箇所を参照しているのだろうと思います。木造構桁橋の内、最も古きものは東京市内舊出雲橋(長十五間六分八厘)にして、明治十二年十二月の架設とす。之に次ぐものは神奈川縣の馬入橋(長百二十間)にして、十六年の架設なり。此の橋は架設後八九年にして流失したりと云ふ。
(「明治工業史 土木篇」工学会・啓明会編 1929年 42ページ「構桁橋及び構拱橋等」より)
しかし、「神奈川県史」にせよ、「平塚市史」や「茅ヶ崎市史」にせよ、あるいは地元の町内会がまとめた資料にも、この事実については全く触れられていません。これは些か奇妙なことではあります。
何しろトラス橋の技術は明治前半の日本ではまだ珍しいものでしたから、設計するにも施工するにも、その技術を習得した専門の技術者に依頼しなければなりません。これは県や地元の各村々にとっても初体験であることには変わりがないのですから、相応の記録が残っても良さそうな事業だった筈です。ましてや、「明治工業史」に従えば木造トラスとしては全国で2例目、しかも1例目よりも遥かに長いトラス橋を木で組んだことになり、これは全国的にも注目される架橋工事だったでしょう。
また、地元の住民にとっても、それまでとは違う姿の橋が架かることになる訳ですから、例えトラス橋についての知識が無かったとしても「珍しい橋が架かった」という印象は強く残るでしょう。六郷鉄橋が錦絵に描かれたり絵葉書になったりした様に、この橋も絵葉書になったりしてもおかしくない時代なのに、何故か関連する記録が「明治工業史」以外に出て来ないのです。
本当に2代目の木橋は木製トラス橋だったのか。何か他に出典がないか探してみました(「茅ヶ崎市史」の記述は橋の長さや費用まで書かれているので、何らかの資料を参照している筈と思いますが、この裏付けになる資料は見つかりませんでした。これは資料編に収録しておいて欲しかったところです)。内務省地理局が編纂していた「大日本国誌」には
と2代目の架橋の落成の期日が明記されていたため、これを頼りにマイクロフィルムの新聞にも当たってみました。その結果馬入橋
大住郡馬入村字中島界ヨリ字蔵邸ノ間ニアリ相模川ニ架シ東海道ニ属ス長百貳拾間幅三間木造明治十六年癸未五月廿九日落成ス…
(「大日本国誌 相模国 第1巻」ゆまに書房 1988年 415ページ)
◯馬入川 昨十五年二月中動工せられし東海道馬入川の木橋ハ漸く落成し本日晴なる渡り初式を擧行せらる橋の長さ百五十間幅三間の大橋梁なり
(「東京日日新聞」(現:毎日新聞)明治16年5月30日 ルビは省略)
◯東海道馬入川へ橋を架けんと昨年二月中より着手せしが巾三間長さ百五十間の木橋がいよいよ落成し今日渡り初めの式を行ふに付き神奈川縣廳よりも官吏が出席されます
(「読売新聞」明治16年5月30日 ルビは省略 変体仮名・踊り字は適宜置き換え)

何れにせよ、私の手元に集まった資料はこれだけです。結局明治16年の馬入橋が木造トラス橋であったと書いているのは事実上「明治工業史」のみで、それを裏付けるものが今のところありません。とは言え工学会が編纂した同書の性質を考えると、伝聞のみでこの様な記述をしているとは考え難いので、当時は何らかの裏付けがあったのでしょう。個人的には木造トラスであったとする説を採用したいところですが、では何故その事実は地元で埋もれてしまっているのでしょう。
橋の構造に拘っているのは、それによって2代目の橋の位置付けが変わってくるからです。これが従来からの伝統的な形式の橋であったのであれば、それは単なる架替えをしたに過ぎません。実際、平塚市などが明治44年に竣工した橋を「2代目」に位置付け(神奈川県の「かながわの橋100選」の記述もそれに倣っています)、それ以前の木橋を一緒くたに扱っていることから考えると、8〜9年で落橋したとされる明治16年の橋も明治11年以降何度再架橋を繰り返していようと「初代」のうち、という解釈なのかも知れません。
しかし、もしこれが木造トラスであったとすれば、これは明らかに最初の橋とは違う意図で架けられている筈です。何故なら、上記で触れた通り、まだ一般的ではなかった最新の技術を敢えて投入しようとしている以上、そこには仮初めの架橋で終わらせる意図はなかったと考えられるからです。
散々苦労して調整して最初の橋をやっと架けたと思いきや、ものの5年ともたずに落橋してしまったとなれば、流石に5年毎に架け替えなど村のか細い財政ではとても負担できよう筈もなく、改めて架橋するからには最新の技術を導入してより長持ちする橋を架けなければならない、と発想するのは当然のことでしょう。「茅ヶ崎市史」に見える「六〇〇〇円余」が当時の施工費としてどの程度高額なのかは不明ですが、多少割高になってもその分長持ちしてくれればお釣りが来る、と算盤を弾いたのではないでしょうか。とすれば、当然「8〜9年」などではなく、もっと長持ちして欲しいという「思い」はあった筈です。ならば、短命に終わったとは言えこの橋をその前後の架橋と同列に扱うのはおかしい気がします。明治16年の架橋が木造トラス橋であったならば、明治44年の架橋を「2代目」と数えるべきではないのではないか、ということです。
また、当時トラス橋を設計出来るだけの技術を持っていた技師が少なかったであろう中では、この橋の設計を担当する人間を馬入村だけで探してきたとはなかなか考え難い面があります。そういう技師が当時いたとすれば、やはり東京や横浜ということになるでしょうし、場合によっては中央官庁の抱える技師を頼らざるを得なかったかも知れません。六郷橋の事例でさえ、そういう技師を頼らずに自力で架橋できる範囲内で何とかしようとしていたことを考えると、地方の村の限られた情報収集能力の中で適切な技師を見つけてくるのは相当に難しかったでしょう。つまり、木製トラス橋であったとするならば、その架橋に際しては明治11年の架橋以上に神奈川県が関与した可能性が高いのではないかと考えられ、六郷橋の事例とは更に大きく異なってくるのではないか、と思います。
もっとも、この橋も結果的に10年とはもたなかったので、トラス橋でも相模川を越えるには足りないと考えたのかも知れません。その次の明治36年の橋をどの様な形式で架橋したかはわかりませんが、「明治工業史」でもその後の馬入橋を例として取り上げておらず、また明治42年の橋の竣工直後の写真を見ると、傍らに伝統的な形式の木橋が架かっているのが写っていますから、恐らくトラス橋は1代で諦めてしまったのではないかと思います。相模川を橋で越すためには、トラス橋とは別の技術が必要であることに、その時に気付いたのではないでしょうか。
では、期待の木造トラス橋は何故長くもたずに落ちてしまったのでしょうか。これも当時の様子がわからない以上は想像するより他ありません。一口に「トラス」と言っても、その具体的な姿は様々ですし、橋脚を何本、何処に立てたのか等、その姿の詳細がわからなければ裏付けのない想像になってしまいます。
ただ、この問題を考える上では同じ頃に架橋された東海道線の鉄橋工事のエピソードが参考になりそうです。そこで、次回はこの東海道線の鉄橋工事を見たいと思います。
それにしても、写真は難しいにしても(それでも当時の相模川を撮った写真は存在しているので、全く可能性が無い訳ではありませんが)当時の日記や紀行文、または文学作品などで、この木造トラス橋について書いた文章が出て来ないものかなぁ…と思います。引き続き今後も探してみて、何か新しいものを見つけたら書き足す予定です。
- あられ - 2013年02月02日 17:25:53
すごい調べてあるのですね。。。
・・・すごいなぁ・・・失礼いたしました・・