架橋の動きが全く無かったとは言え、やはりまずは江戸時代の渡し場の運営状況を確認する所から始めるべきでしょう。六郷の渡しとの比較で1つ着目しておきたいのは、六郷の渡しの場合は川崎宿が実質的に渡船場の運営権を独占しており、その収益を宿場の財政の柱に据えていたのに対し、馬入の渡しの場合はその様な気配が見えないことだろうと思います。

ここでも触れられている通り、背景には相模川を上下する水運が江戸時代に増大する傾向にあり、馬入の渡しは結果として両村の廻船業の権利の担保になっていたことが窺えます。こうした負担を背負ってでも、須賀村や柳島村にしてみれば、より大きな利益の元になる廻船業が担保される方が重要だったということでしょう。特に須賀村の方は、「ひらつか歴史紀行」の別の場所で触れられている通り、江戸時代以前から河口で相模川水運の拠点として栄えていたことが知られています。思えば鎌倉幕府が開かれた頃から、相模湾は武家政治の中心地に物資を供給する重要な役割を果たしていた筈で、その点では湾岸に沿って進めば程なく目的地に着けてしまう「地の利」は絶大だった筈です。それが江戸幕府に移ったということは、相模川の水運にとっては三浦半島を隔てた隣の湾まで「遠回り」せざるを得なくなったことになるのですが、条件が悪くなったのにも拘わらず水運が更に発達していったということは、江戸という一大消費地がそれまでとは比較にならないほど巨大であったこと、そして相模川の上流が江戸への物資の大きな供給源の1つとして機能していたことの現れでもあるだろうと思います。
また、相模川を上り下りする舟の側から見ると、渡船はその進路を横切る存在ということになります。将軍や朝鮮通信使などの大通行の際には相模川にも船橋を臨時に架設しましたが、架設中は相模川の流通が滞ってしまうことになります。大通行が終わると船橋は速やかに撤去されましたが、これは相模川の舟運を一刻も早く再開させる観点からは当然のことでした。更に、「ひらつか歴史紀行」の「その5」で舟運に使われていた高瀬舟について解説されている通り、この舟は帆船であると共に岸辺からの曳航も行われる舟でした。帆をかけるにしても、曳航するにしても、川に橋が架かっていると何かと邪魔になることには変わりありませんから、結果的にとは言え、相模川に架橋されていなかったのは水運にとっては都合が良かったと言えるでしょう。

何れにせよ、平塚宿がこの渡船場の運営には全く関わっていなかったことがわかります。渡船場から宿場までは意外に距離があり、後に宿場に加わった八幡村(現在の平塚駅前付近)まででも1km、元の宿場の東端に当たる見附町ですと2kmはありますので、関与しなかったのも当然ではあります。とは言え、川崎宿と六郷の渡しの事例と並べてみると、当時の渡船場の運営も案外地域によって様々に事情が異なっていたことが窺えます。
六郷の渡しの場合は川崎宿の独占状態に対して八幡塚村が度々渡船権を求めて訴えるという経緯が、明治時代になって名主鈴木左内の六郷橋架橋の動きに繋がっていった訳ですが、それとは異なる背景を持つ相模川の場合、明治時代以後の架橋の動きはどうなっていったのか、その辺りを次回追ってみたいと思っています。実はこの件に関する資料が思う様に見つかっていないので、どう纏めたものか考えあぐねている所ではありますが…。
追記:
- (2013/11/12):「歴史的農業環境閲覧システム」のリンク形式が変更されていたため、張り直しました。
- (2015/11/24):「歴史的農業環境閲覧システム」へのリンクを、「今昔マップ on the web」の埋め込み地図で置き換えました。
- (2020/10/20):「Yahoo!地図」を「Googleマップ」と差し替えました。
- (2021/11/08):「今昔マップ on the web」へのリンクを修正しました。
- (2023/02/07):「Googleマップ」を張り直しました。