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【旧東海道】その8 旧相模川橋脚と東海道(その2)

前回に引き続いて「旧相模川橋脚」を見ていきます。今回は、2008年に茅ヶ崎市教育委員会が編集した「史跡 旧相模川橋脚」という3分冊の報告書をベースに話を進めます。

正直な所を告白すると、前回の記事を書いている時には、基本的にここにかつて相模川が流れていた、という前提を疑わずに記述していましたし、今回もその前提で更に話を掘り下げる予定でした。しかし、今回の記事を書くために上記の資料を参照したところ、地質学的には相模川の本流が流れていたとする説に反するデータが出ていることを知りました。ムゥ…。これで当初考えていた記事の構想を根本から見直さなければならなくなりました。まぁ、違うデータが出て来た時に、それを取り入れてどう考え直すかが大事です。明らかにおかしなデータであれば排除するしかありませんが、今のところこれを覆すだけの根拠もないので、取り敢えずはこれを受け容れざるを得ません。


改めてネット上を検索し直してみましたが、この地点を相模川が流れていなかったという説に触れているものが見当たらなかったので、今回はまずこの点を上記報告書で確認するところから始めます。

この報告書は「第1分冊・確認調査報告」「第2分冊・保存整備報告」「第3分冊・資料編」の3分冊から成りますが、今回は専ら第1分冊を参照します。この中で、「第6章 小結」と題されたまとめの中に、次の一節があります。

ところで、架けられた川であるが、想定される橋の長さは約40m以上で、河口近くであり、相模川本流がこの川幅である可能性は少ないと思われる。むしろ、河口近くで多数に枝分かれする相模川支流の一本と考えたほうが素直であろう。

(同書163ページ)


更に、後半には各種の論考がまとめられているのですが、その中で「10. 国指定史跡「旧相模川橋脚」の液状化跡」(上本進二・林美佐・寒川旭)では2001年の発掘調査の過程で幅2m程度で深さ55cmの旧河道堆積物が2本見つかったことを受けて

相模川本流の流路とは考えられない。小出川や千ノ川などのような中小河川の流路跡と考えられる。

(255ページ)

としています。

また、続く「11.「旧相模川橋脚」の砂礫堆積環境とテフラ分析」(上本進二)では、橋脚周辺の地層から複数箇所のサンプルを取得し、そこに含まれるテフラ(火山降下物のこと)を分析して次のように結論付けています。

粒度分析結果からは、橋脚のある場所の流路上堆積物の礫は、現在の相模川本流の礫径に比べて礫径が半分以下であり、本流の礫ではないことを示している。

礫種分析結果からは、相模野礫層の礫を流している小出川に類似した礫種組成を示している。

テフラ分析結果からは、(中略)下位の粘土層の年代は14~15世紀、上位の粘土層は宝永スコリア降下以後の堆積と考えられる。

以上の分析結果から、「旧相模川橋脚」が建っている砂礫層は相模川本流の堆積物とは考えられず、小出川のような中小河川の堆積物と考えられる。

(264~265ページ なお、同書のページ番号がこの論文の掲載ページで間違っているため、ここでは正しいページ番号に改めました)

簡単に言うと、堆積物の特徴が相模川のものではなく、支流の小出川のものと似ているので、ここを流れていたのは相模川ではなくて小出川であろう、ということになりそうです。

私自身の知識の水準ではこれらの論文の妥当性を解釈することは出来ないので、差し当たりは「橋脚の下を流れていたのは小河川であり、相模川の本流ではない」という説を受け容れた上で、この遺構や東海道の道筋の変遷を考えてみましょう。

但し、念の為に付け加えておくと、この報告書では同時に中世前半の土留遺構なども確認されており、中世の遺構としての価値は引き続きあると思われます。中世の遺構が出て来ること自体が希少な事例ですし、出て来た遺構が示唆する事柄も引き続き多いと思います。その点では、この橋脚が相模川の本流に架されたものとは言えなくなったことによって史跡としての価値が失われたという主張をしたい訳では決してありませんので、その点は予めお断りしておきます。

旧東海道:旧相模川橋脚解説模型から-1
橋杭から想定される橋の形状
(橋脚傍らの解説模型から)
旧東海道:旧相模川橋脚を東側から見る
橋脚レプリカを東側から見る

まず問題になるのは、出土した橋脚の間隔です。今回確認された橋脚の杭は全て檜材で全部で10本、うち9本が3列縦隊に並んでおり、残りの1本も本来は同様に3列であったものの1本と思しき位置に出現しています。報告書には次の様にまとめられています。

確認された10本の橋杭は、地震により動いているものがあり原位置ではない可能性が高い。しかしながら、平面的な動きは少なくおおむねその位置を示しているという前提に立てば、規則的な配置をみることができ各橋杭が関係していることも窺える。配置からみる橋杭間の長さは、東西が短く南北が長い。すなわち、東西間の平均が4.35m、南北間が平均約10.55mである。こうしたことから橋杭の関係は、東西方向の3本が対となり南北方向に4列の配置をとるものと考えられる。ただし、南側の2本は検出されていない。この理由につては当初より無かったのであれば、橋としての構造は成り立たないことから、何らかの理由で無くなったものと思われる。

(161ページ)


これが一般的な多径間の桁橋だったと考えると、「橋幅は概ね9m、橋の長さが40m以上」(同ページ)の橋になると見込まれているのですが、そうすると、この橋の橋脚の間隔が10m以上に及んでいることになります。これは、江戸時代に平均的に架けられていた橋の橋脚の間隔と比較すると随分と広いことになります。

以前、川崎の六郷橋のことを取り上げた際には、橋脚の幅は精々3間(5.4m)程度、と書きました。それと比較すると、この鎌倉時代の橋はその倍近い間隔で橋脚を立てていたことになります。まぁ、この表現はちょっと言い過ぎの面はあって、実際は江戸時代の橋でも、特に河川を行き交う船のために部分的に間隔を拡げることはありました。ただ、その場合は当然その箇所を補強しておかないと、脆弱な部分が出来てそこから橋が壊れてしまいます。そういう丈夫な部材を橋の全区間にわたって揃えるとなると、当然コストに響いてきてしまいますから、桁下を船が行き交う橋は橋桁の間隔が不揃いになっていました。言い方を変えると、それだけ太い、つまり樹齢の高い橋材が逼迫していた訳ですね。

その伝で考えると、鎌倉時代の、さほど川幅が広くない川の架橋に、より太い部材が必要になる様な間隔でしか杭が打たれていないという事実は、少なくとも江戸時代に比べれば樹齢の高い、太い橋材の供給が逼迫してはいなかった可能性が出て来ます。この橋が東海道に架けられていたために「特別扱い」されていたことは考慮に入れなければいけないにしても、低水路が精々数mと見積もられた小河川を、高水敷も含めて渡り切る想定の橋の規模としては相当に高規格で、その様なことが可能であった説明を探すと、やはりより潤沢に橋材を使える環境を背景として考えなければ両立しないのではないかと思います。

因みに、報告書には脚注として

使用部材について「使用している材料が大径材のヒノキである。ヒノキは日本を代表する銘木であるが、6・7世紀の都城整備や寺院建設などに伴う乱伐で奈良時代には西日本では取り尽くされてしまう。したがって、平安時代以降は国家的事業あるいは中央にいる一握りの権力者しか使用できない稀少な材料となった。」とのことから、本橋の造営事業が中央の権力者によるものを示す可能性が高い。

(164ページ)

と記されています。橋幅9mという規模は、江戸時代の東海道が概ね5間であったことから考えても、ほぼそれに匹敵する幅の道を整備していたことに繋がり、この橋に接続される道が東海道の様な重要幹線であったと考えて良いと思いますが、そういう幹線道路であれば例え小河川の橋であったとしても檜材を奢って強固な橋を架した、という事例になるのでしょうか。

旧東海道:旧相模川橋脚を南側から見る
橋脚レプリカを南側から見る
次に、この橋の幅9mについて更に考えてみます。江戸時代の橋として記録されているもののサイズを良く見ると、何れも接続されている道路よりは若干細めの幅になっていることがわかります。「江戸東京博物館」の常設展示室に再現されている日本橋の幅は約4間半(約7.9m)ですが、それに対して接続される東海道の幅が5間(約9m)です。地方に向かうと大体道の幅から1間前後橋が狭くなっていることが普通でした。これは橋の上では多少狭くても譲り合う事で対面通行が可能と考えられたからでしょう。これも架橋に際してかかるコスト負担を考慮してのことであったと思われます。

今は接続される道路に対して橋の幅が狭いということはまずありません。これは多分に車が通行する様になったことで、その通行の妨げにならない様に配慮する必要が出たことが大きいと思います。でないと、踏切を渡る時の様に橋の前で一旦停止しなければならなくなってしまいます。

鎌倉時代の架橋の際には接続する道幅と同等に幅を取っていたのか、それとも江戸時代の様に若干狭めで許容していたのか、どちらであったかは不明ですが、少なくとも橋が接続する道路よりも広いということはまず考え難いでしょう。つまり、橋が9mもの幅を持っていたということは、接続する道路はそれと同じ幅かそれ以上に広かった可能性が高く、これは江戸時代の東海道の道幅と比べても更に広かったかも知れない、ということを意味します。

旧東海道:旧相模川橋脚
橋脚のサイズは概ね60cm以上(再掲)
最後に、旧相模川橋脚の橋杭は概ね60cm以上、というサイズの問題です。これを江戸時代の橋と比べると、隅田川に架かっていた橋では3尺(90cm)前後の太さがあるのでそれよりは細めだが、日本橋の橋脚に比べると(「江戸東京博物館」の復元では約40~50cm)若干太め、という辺りに落ち着く様です。鎌倉時代の橋がどの様に架かっていたかが全く不明なので、橋の上からどの様な力が掛かるかも不明ではあるのですが、単純に考えても橋脚の本数が少なければそれだけ橋脚1本当たりに上からのし掛かってくる重量の配分が増えてくることになります。江戸に架かっていた橋は通行量が鎌倉時代とは比べ物にならない程多かったと思われるので、逆に考えると「旧相模川橋脚」はそこまでの大通行を想定していないのかも知れません。鎌倉時代の将軍の上洛などの通行で、どの位の数の人馬が一度に渡河することになるのかわかりませんが、少なくとも江戸時代の橋ほどの荷重には耐えられない様に思えます。

なお、上記報告にある通り、南側の1本と対になる筈の2本の橋杭は出て来ませんでした。本来あった場所は大体範囲を特定できることから、上手く掘ればかつて橋脚があった形の「穴」の痕跡くらいは出て来ても良さそうな気がしますが、今回の報告書ではそこまで書かれていません。多分その痕跡も見つからなかったのだろうとは思うものの、出来ればそこまで突っ込んで表現できなかったかな、という気はします。

これに関連して、地元に在住の方が著した郷土史の本に興味深い記事を見つけました。旧相模川橋脚の考証を担当した沼田頼輔博士が地元に寄稿したものを引用した箇所です。

さて、この橋の杭がはたして七百年前の相模川にかけられたものであったかどうかという歴史的及び科学的研究にとりかかろうという、ちょうどその時に、その当時の土地の所有者をはじめ、地方の人はこの橋脚の木材が神代杉であるから、これを抜きとって売れば莫大な利益を獲得することができるといって、抜き取ろうとするのを伝え聞いたから、捨てておかれなくなって、私は早速、内務省へまいりまして、これを仮り指定の形式で、本県から史跡名勝天然記念物として指定するようにお願いしました。

と、以上のように、沼田頼輔文学博士が寒川村の青年団文芸部、昭和五年刊の『寒川の泉』創立五周年記念、第十号に掲載されたものを分かりやすく書いてみた。

(「郷土中島を語る」中島真平著 1986年 驢馬出版 43&49ページ、…は中略、強調はブログ主)


…そうか、そりゃそうだよなぁ、と思いました。単に水田に立ち現れた邪魔者扱いなのではなく、売れば高額になる可能性があることは見落としていました。ただでさえこの一帯の人たちも関東大震災の被災者で復興に多額の資金が必要になっている中での話ですから、そういう中で資金源になりそうなこれらの橋材は、もし史跡などに指定されていなければ大変に有難いものになったでしょう。

これは別にこの橋に限ったことではなく、江戸時代にも橋脚が破損してしまった場合は抜き出して再利用することが普通に行われていた様です。それは檜や欅、杉などの高級でしかも太い部材を用いているのですから、水に触れて腐食する部分が多少あったとしても心材は十分使えるだけの価値を保っているケースが多いでしょう。そう考えると、橋の遺構が残り難いのは単に水に流されたり朽ちてしまったりするからだけではなく、残った部材を再利用するために撤去してしまうから、という理由もありそうです。仮に流されて海上に出て行ったとしても、橋脚のように太い材は回収して板に加工すればまた使える、ということもあったでしょう。

逆にそれだけに、今回見つからなかった2本(だけではないかも知れませんが、「旧相模川橋脚」の延長線上の掘削調査でも橋杭は出土していない)も、もしかしたら廃橋後に一足先に地表に姿を見せたために再利用された可能性も少なくなく、それであれば橋杭「跡」の確認は出来なかったかなぁ、という気もするのです。

今回は橋脚そのものについて考えるだけで終わってしまいました。次回はこの橋に接続していた東海道について考えてみます。



追記:
  • (2013/01/12):写真を2点追加しました。
  • (2013/11/29):レイアウトを見直しました。
  • (2021/04/24):茅ヶ崎市の刊行物の案内のページが移動していましたので、リンクを張り替えました。なお、新しいページでは刊行物の一覧がいくつかに分割され、新しいリンク先はそれらのページへのリンクを集めたのみのページになりました。従って個別の出版物の情報へは更にこれらのリンクを辿って参照しに行く必要があります。

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