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(「地理院地図」に「ルートラボ」で作成したルートを取り込み加工したものをスクリーンキャプチャ)
今回取り上げるのは、藤沢宿から茅ヶ崎付近の地形です。この区間の特徴を見るのに、丁度良い場所が2箇所ありますので、まずはその2地点から話を始めます。

1箇所目は、旧東海道と小田急江ノ島線の交点です。ここは立体交差になっていて、小田急線の上を旧東海道が越えていきます。すぐ北側に藤沢本町駅がありますが、「本町」の駅名は東海道線の藤沢駅がかつての宿場町から離れた場所に開設されたのに対して、こちらは宿内に駅が出来たことに因んでいます。
東海道の跨線橋の脇から藤沢本町駅に降りる坂は40mほど。上の写真は広角寄りで撮っているために駅が遠目に写っていますが、この坂だけを見ていると東海道がわざわざ跨線橋で小田急江ノ島線を越えている様に見えます。因みに、「伊勢山橋」の名前はこの写真の奥に見えている伊勢山から採られています。


しかし、道路周辺の建物の様子を良く見ればわかる様に、これは自然地形の起伏の上を街道が通っているのであって、昭和4年(1929年)に小田急江ノ島線が敷設された際にここを掘割として伊勢山橋を架けたのです。地形のお陰で容易に立体交差化が実現できた訳ですね。
(「今昔マップ on the web」より)
伊勢山橋の南側には風早山真源寺が一段高い丘の上に立っていますが、迅速測図上で該当箇所の等高線を確認すると、その東側の旧神奈川県立藤沢高校等もほぼ同じ標高の敷地を持っています。更に旧高校の東側にはより等高線が複雑に入り組んだ地形が見られ、この一連の丘が東側で高まりを見せていることがわかります。
余談ですが、現在はこの丘に切通しが付けられ、その中を湘南新道が通過しています。もう松が取れたというのに今更三ヶ日の箱根駅伝の話も何ですが(汗)、3区のコースはこの湘南新道を経由して国道134号線へと向かうため、遊行寺の坂を降りて境川を渡ると、この丘のためにもう一回アップダウンを経ることになります。


写真は東海道沿いから北側に降りて、線路脇から街道方面を見たところです。線路の上から街道の路面までは5m少々といったところでしょうか。




「ふじさわの大地」より
因みに上本進二氏のこの原図は神奈川県南部一帯の遺跡発掘調査報告書などで良く引用されています。


最後の1文が意味不明ですが(まぁ、この絵図は旅行者向けのガイドなので洒落なのでしょう)、街道の両側に松並木が植えられていてもその程度では砂が舞い上がるのを防ぐのには大して役に立たなかったのでしょう。また、この茶店に立ち寄った公家が残した紀行文には此へんふかき砂地/風にて砂ふき上候ゆへ
時々道かハる/子供中がへりいたし/申候
などと書かれているとのことですから、よほど砂塵が酷かったのでしょう。「出された牡丹餅の餡の色は街道の砂よりも黒く、街道から舞い上がるほこりでむさくるしい」
(「神奈川の東海道(上)」神奈川東海道ルネッサンス推進協議会編 179ページ)

の様に、松露などが特産品であったことが記されていますので、典型的な「白砂青松」の地だったのでしょう。此邊松露初茸を産し、又漁獵の利多し
(卷之六十 茅ヶ崎村 雄山閣版より)

その様に考えていくと、江戸時代の東海道は、
- 海岸から吹き上げてくる砂塵を少しでも避けるために、なるべく海岸から離れながら
- 点在する池や沼を避けるためには砂丘を利用する
そして、東海道のこの先には相模川という、やはり地形に大きな変化をもたらす存在が横たわっており…という辺りから、次回に続きます。
今更ながらの付け足し:そう言えば「勝手にシンドバッド」の冒頭、「♪砂まじりの茅ヶ崎」でしたね。
追記:
- (2013/11/12):「歴史的農業環境閲覧システム」のリンク形式が変更されていたため、張り直しました。併せて一部レイアウトを見直しました。
- (2015/07/24):「ルートラボ」の地図を「地理院地図」に差し替えました。
- (2015/11/24):「歴史的農業環境閲覧システム」へのリンクを、「今昔マップ on the web」の埋め込み地図に差し替えました。
- (2018/03/31):「地理院地図」上で作図した地図を、「色別標高図」をカスタマイズして「陰翳起伏図」を追加したものと差し替えました。「色別標高図」は標高0〜24mを3m間隔で色を変える設定にしています。
- (2020/10/18):「Yahoo!地図」を「地理院地図」や「Googleマップ」と差し替えました。
- (2021/11/08):「今昔マップ on the web」へのリンクを修正しました。
- 松木剛 - 2013年10月05日 07:30:54
最近、ある本で「十軒酒屋上野宿」という場所を知りました。「十間坂」というからには「坂」つまり地形と由来を考えるが妥当と思いますが、この相模川近辺の上野宿というのが気になります。十軒酒屋が十間坂となった可能性はないのでしょうか。
ちなみに、国土交通省の表記もJRも「じゅっけんざか」とフリガナしていますが、日本語では「じっけんざか」が正しいと思います。
ご見解あればお尋ね致したく。
参考 【相模川の合戦】
http://books.google.co.jp/books?id=Xup94ksgGhwC&pg=PA102&lpg=PA102&dq=%E7%9B%B8%E6%A8%A1%E5%B7%9D%E3%81%AE%E5%90%88%E6%88%A6&source=bl&ots=-0Oz6hKMfD&sig=-wBAX47dC5HNWciCCkEaeKf5sMY&hl=ja&sa=X&ei=qzpPUoarIMb0lAWIvYDQDg&ved=0CGkQ6AEwCA#v=onepage&q=%E7%9B%B8%E6%A8%A1%E5%B7%9D%E3%81%AE%E5%90%88%E6%88%A6&f=false