ブログ主は旧東海道は日本橋から金谷まではひと通り歩いていますし、東京都や神奈川県内の区間は幾度か往復していますが、その先を歩く予定が今のところ立っていません。それを待ってから色々とまとめたいと思っていたのですが、それでは何時になるかわからなくなったので、取り敢えず調べのついたところから行きます。

大名行列らしき一行を描いている辺りに注目
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
今では広大に埋め立てられて跡形もなくなった品川の海ですが、江戸時代は一貫して街道のすぐ隣が海でした。江戸時代初期の「東海道分間絵図」を見ても、「三田八幡」(現在の「御田八幡神社」)の向かいの高札場から南は、街道下に組まれた石垣を隔ててすぐ海だったことが描かれています。
この、海沿いの石垣は後に発掘されて、国道15号沿いにその一部が保存されています。GoogleMapsのストリートビューで見るとこんな感じです。
自前で撮ったのがあった筈なんだけれど…どこ行ったかな。
この姿はその後も変わることがなかった様で、江戸時代末期の「東海道分間延絵図」でも同様に描かれています。「分間延絵図」では、街道の並木が松であったか杉であったか、はたまた別種の木であったかまで描き分けられていますので、そういう絵図でも並木が描かれていないのは本当に並木がなかったという判断で問題ないでしょう。本当は並木があったけれども絵図上では省略したのではない、ということです。
明治に入って作成された「迅速測図」が出来た頃には、既に新橋と横浜を結ぶ鉄道のために沖合の埋め立てが始まっていますが、それでも当時はまだ街道のすぐ隣が海であったことがこの地図からもわかります。「東海道」と大書されている上側の道がこれです。
そして、改めて東海道をひと通り見てみると、こんなに海に隣接して進む区間は他には品川宿を出て鮫洲から大森にかけて程度しかありません。江戸時代の五街道のうちでは唯一沿岸を進む区間のある東海道ですが、それでも大抵は海からは多少は距離を置いています。西国街道など脇往還まで手を広げても、恐らくこれほど海に近接して尚且つ海からの比高差の小さい所を延々と進む道は、恐らく他にないのではないでしょうか。
江戸時代初期に限れば、東海道には他に海沿いを進む区間がもう1箇所ありました。由比から興津にかけて、薩埵峠の下の海岸を進む道、いわゆる「下道」です。しかし、ここは「親知らず子知らず」と別称される程に波にさらわれるリスクのある難所で、結局薩埵峠の上を進む「中道」、更には「上道」が開発されて、下道は安政の大地震で海岸が隆起するまで使われなくなってしまいます。
この例に見られる様に、普通であれば海沿いはそれなりにリスクのある場所と認識される方が多いのです。他にも吉原宿が2度にわたって津波の被害を受けて内陸へと移転したことが良く知られている通り、海沿いはどうしても高潮や津波への対応を考えないといけない土地です。湊が海を離れることはあり得ませんので、そういう町を宿場にした場合は自ずと街道が海に近付くことになりますが、そういう場合でも街道は海沿いからは奥に入った場所を進むのが普通です。また、沼津から原をへて吉原に至る区間の海岸砂丘上に延々と植えられた防潮林の松が象徴する様に、潮風の被害への対応も必要です(この辺りの話は後日改めて詳しく取り上げたいと思っています)。
そういう区間が圧倒的に多い東海道において、高輪から品川を経て大森に至るまでの、このあっけらかんとしている程に海沿いを進むこの区間は一体何なのか。まずはこの区間について、私なりに読み解いてみたいと思います。
追記:
- (2013/11/12):「歴史的農業環境閲覧システム」のリンク形式が変更されていたため、張り直しました。
- (2015/07/25):ストリートビューを2013年時点のもので固定しました。また、「国立国会図書館デジタルコレクション」の「東海道分間絵図」の該当箇所を掲出しました。
- (2015/11/22):ストリートビューの構図を調整し直しました。また、「今昔マップ on the web」を使って「迅速測図」を埋め込む形に変更し、該当箇所の記述を一部変更しました。
- (2021/04/26):「国立国会図書館デジタルコレクション」へのリンクがhttp形式のままになっていたため、https形式に差し替えました。
- (2021/11/05):「今昔マップ on the web」へのリンクを修正しました。
- (2023/01/29):ストリートビューを再び張り直しました。