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「歴史をひもとく藤沢の資料 7 遠藤地区」(藤沢市文書館)から(その3:「白旗勘定」について)

当初の予定ではこの話題で複数回の記事を書く予定ではなかったのですが、藤沢市文書館の「歴史をひもとく藤沢の資料」の最新刊である「7 遠藤地区」(以下「藤沢の資料」)中で紹介された「遠藤民俗聞書(ききがき)」(1961年・昭和36年 藤沢市教育委員会刊、以下「聞書」、ルビは藤沢市図書館の資料情報に従う)や「遠藤の昔の生活」(1980年 藤沢市教育文化研究所 刊、以下「昔の生活」)の内容を検討するうちに、つい長くなってしまいました。既に「聞書」や「昔の生活」の方に入り込み過ぎて「藤沢の資料」から離れた内容になってしまっていますが、記事タイトルは基本的に前回を引き継ぎました。


前回引用した「聞書」の「三崎街道」の解説の中では、この街道が遠藤と藤沢の繋がりを深める役目を果たしていたことが窺える記述も見えています。その中に「白旗勘定」という言葉が出てきます。

米を売ったり、肥料を買い入れたりには、藤沢の白旗まで出かける。毎年七月の白旗神社の祭礼の時に勘定をする習慣が近年まであって、これを白旗勘定といった。

(「聞書」27ページ:再掲)


「昔の生活」では「白旗勘定」についてもう少し長く記しています。

金肥(カナゴエ)の購入先は多くは藤沢の白旗横町であった。白旗横町は(八王子街道の起点で)肥料問屋以外に農具商、種子屋が古くからあり、澱粉工場、精米所も出来ていた。

農家は肥料問屋から肥料を帳面につけておいて貰って来て、収穫した穀類(麦、豆等)を現物で肥料代として納入した。毎年七月二十一日が白旗神社の祭礼に当り、この日に支払をした。

これを白旗勘定といった。これは大正十年に廃止された。

(45ページ、ルビは直前の記述にある同一の単語に振られているものをブログ主が転記)



「白旗横町」と各街道の位置関係
「白旗横町」と各街道の位置関係(再掲)
1960年代の空中写真を合成
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)

現在の白旗横町と厚木道の分岐点
行く手に白旗神社の鳥居が見えている
ストリートビュー

上の地図で示した通り、「白旗横町」は東海道藤沢宿から白旗神社(源義経を祀る)に向かう横町やその付近の集落を指す名称です。かつて「白旗横町」で代々米穀肥料店を営んでいた山本 半峯(悦三)氏による「白旗横町の今昔」(昭和54年・1979年 私家本、以下「今昔」)によると、

元来は、現在の藤長パン店の角を左折し、諏訪神社(小田急本町駅前)から大庭坂下までを白旗横町といい、諏訪神社がその中心であった。つまり旧東海道から白旗神社に向って入り、さらに横へ曲った町であるので白旗横町と誰れいうともなく唱えたものである。

ところで、かっては白旗横町を一括して横町と称していたが、第二次大戦後になって、諏訪神社を中心にした附近は諏訪町と称し、白旗横町は藤沢町田県道沿いの二百メートル位の間をいうようになった。

(「今昔」5〜6ページ)

としていますので、「白旗横町」の範囲については時代による変遷が多少あった様です。

「藤長パン店」は2015年頃には閉店し、現在は跡地でコンビニエンスストアが営まれていますが、厚木道はこの角から西へ逸れる道筋でした。「今昔」に従うと以前は厚木道をかなり先まで進んだ辺り(現在「修道院下」バス停がある辺り、その先の坂道が「大庭坂」)までを「白旗横町」に含んでいたことになりますが、何れにしても厚木道を経て藤沢宿へ向かってくる遠藤地区の人々は、最初に「白旗横町」に入ることになります。


「白旗横町」の様子について、「今昔」では

白旗横町の商売が盛んになったのは、幕末以後、明治・大正時代の約六十年位である。現在の藤沢町田線は、かって八王子往還道と呼ばれ、道の両側には農家にとっての営農必需物資である肥料・飼料・種苗・農具など、さらに農家の生産物である米・麦・雑穀などを取扱いまた売買もした。なかでも麦類の取扱数量は県内一であった。しかもその取扱う米穀肥料商が軒を並べ競い合っていた。

大正末期に戸数僅か二十数軒の中で、米穀肥料商が十軒近くもあったことは特筆しておかねばならない。思い出すまゝに店名を記録してみることにする。小林商店、神保商店、江戸屋森商店、水谷鴻輔商店、高梨商店、山本商店、飯塚商店、種藤古川商店などの他に峯尾精麦、飯塚澱紛など十指を数えることができる。しかし今も営業継続している店は、一、二軒しかない、うたた荒涼淋しい限りである。

(「今昔」6〜7ページ)

と書いています。遠藤地区の人々も、そこで干鰯や豆粕、油粕の様な「金肥」を買い求めてもと来た厚木道を帰っていったことになるのでしょう。その売掛を白旗神社の夏の祭礼の日に農産物で支払う習慣があったので、それを「白旗勘定」と呼んでいたというのです。

因みに、「昔の生活」では厚木街道の発展について次の様に記しています。

遠藤における厚木道の沿線には昔は人家がなかった。二間巾の道であったが、厚木町道であったのが県道となって、後に道路が整備され、バスが藤沢・用田間に開通すると北部遠藤では藤沢との交渉が多くなった。六地蔵はじめ沿道に商店や人家ができるようになり、戸数が増加するのは関東大震災以後である。

遠藤停留所は、遠藤の東北端で藤沢・厚本線の県道と茅ケ崎・長後線の県道の交叉する所にある。はじめ六地蔵と共に人家はなかったが、藤沢・厚木間のバスの開通で停留所が設けられ、遠藤停留所が略されて遠藤となり人家もふえた。

(「昔の生活」167ページ)


かつての遠藤村、後の小出村から見れば、厚木街道は村境を進む道であり、水利に有利な谷戸底に比べれば人家がなかなか建たなかったのも理解は出来ます。そして、「昔の生活」では藤沢との往来が増えてくるのはバス開通後の時代のこととしています。

しかし、厚木道を往来する乗合自動車の記録を探してみると、「神奈川県自動車案内」(現代之車社 編 大正10年)に「美榮堂自動車」という事業者の名前があり、ここが藤沢から用田までの間で1日3往復の乗合自動車を運行していたことが記されています。この乗合自動車事業が何処まで時代を溯るのか、明確な裏付けが見出せていませんが、以前箱根の富士屋ホテルが自動車事業を始めた事情を検討した際に参照した「全国自動車所有者名鑑 大正4年4月1日現在」(東京輪界新聞社 大正4年)の「神奈川縣」の項に挙げられている全176台の自動車の所有者の中には、藤澤町を含む高座郡の在住者が皆無です。従って、藤沢〜用田間の乗合自動車運行を行う事業者が登場したのは、少なくとも大正4年よりは後のことということになります。


年度名称幅員
明治20年吉野三崎間往還
從厚木町至大町村
[最廣]3.0間
[最狭]2.0間
(この間変動なし)
明治44年度吉野三崎間往還
從有馬村至藤沢町
[最廣]3.0間
[最狭]2.0間
(この間変動なし)
大正3年度吉野三崎間往還
※区間別廃止される
[平均幅員]2.40間
大正4年度與瀨三崎縣道[平均幅員]2.33間
(この間変動なし)
大正9年度厚木藤澤縣道[一般幅員]2.5間
[最狭有効幅員]1.5間
大正10年度厚木藤澤縣道[平均幅員]2.5間
(大正11年度なし)
大正12年度厚木藤澤縣道[平均幅員]2.2間8厘
大正13年度厚木藤澤縣道[平均幅員]2.2間
(この間変動なし)
昭和6年厚木藤澤縣道[一般幅員]4.52m
昭和7年厚木藤澤縣道[一般幅員]4.50m
[最狭有効幅員]3.60m
(この間変動なし)
昭和12年※この年から府県道が主要なもののみとなり、番号による呼称に変わる。厚木藤沢線は含まれていない模様
※[ ]内は表見出しから、単位は適宜補充
「昔の生活」では厚木道の幅員の変遷についても触れられていますが、「吉野三崎間往還」や「与瀬三崎間県道」、あるいは「厚木藤沢県道」の幅員については、各年毎に作成された一連の「神奈川県統計書」にその幅員が記されてはいます。しかし、それらを追っても何時頃どの程度拡幅されたのか、意外に見え難くなっています。右の表にその変遷をまとめてみましたが、どちらかと言うと統計の集計方法の変更によると見られる数値の変動は目立つものの、大筋では拡幅工事が施工されたことによって幅員の数値が変動した様に見える箇所が現れていない様に見えます。唯一昭和6年(1931年)に「4.52m」に変更された箇所では、その前までの「2.2間(=約4m)」に比べて若干拡幅された影響が出ている様にも見えるものの、これだけでは明確に昭和6年に拡幅事業が行われたと断じるのは苦しいところです。ただ、大筋では目立った数値の変動が見えていない傾向から、県が厚木道を含む区間を県道として管理する様になってからも、拡幅事業にはなかなか着手されなかった様には見受けられます。

一方、昭和13年度の内務省土木局による「国道及重要府県道交通情勢調査表」では厚木道途上の海老名村河原口(現:海老名市河原口)と御所見村用田(現:藤沢市用田)で幅員4.5m、藤沢町内では同5.5mとされていますので、それまでにはある程度の拡幅が行われたことが窺えます。

何れにしても、「白旗勘定」が廃止されたのが大正10年頃ですから、「白旗勘定」という言葉が遠藤の地で言い伝えられている状況から考えて、物流量の問題はさておき、藤沢〜用田間を結ぶ厚木街道の上で乗合自動車が運行され、その通行量への対応が本格化するよりも前から、この厚木街道が遠藤と藤沢との物流で重要な役割を果たしていたと考える方が自然ではあります。

課題は厚木街道を流れる物流量がそれぞれの時代でどの程度であったかというところですが、「聞書」や「昔の生活」は民俗調査の成果ですから年代を示す証言が乏しく、語られている農作業や生活の実情が果たしてどの程度時代を溯るかは必ずしも明確ではありません。その点は農産物の統計など他の史料を探る必要があるのですが、残念ながら「デジタルコレクション」上で見られる当時の統計は精々郡単位に集計されているものばかりで、村単位で集計されているものを見つけることは出来ませんでした。その様なデータが残っていないかは今後機会があれば探してみたいと思います。

少なくとも、上記の「今昔」にある様に白旗横町に商家が集中する様になったのが幕末からということであれば、それよりも前に既に「白旗勘定」の風習があったと考えるのは難しいところです。「白旗横町」という地名そのものは、「新編相模国風土記稿」の高座郡坂戸町の項(卷之六十 高座郡卷之二)の小名の中に見えてはいるものの、明治初期には道幅が僅か1間であったということから考えても、その時分にはこの横町に人や物資が集中する様な状況は想定されていなかったと見るべきでしょう。それでも元は自給自足が主だったという遠藤地区にとっては、白旗横町まで往復する機会自体は当初は多くはなかったにしても、貨幣経済が浸透していない地域としては少量の取引でも売掛にしてもらう必要があった、と読み解くべきかも知れません。

「白旗勘定」の様な風習は他の地域では見られなかったものなのか、それとも「白旗横町」に全く独自のものであったのか、その点を考える上では、「聞書」や「昔の生活」よりやや後発の民俗調査である「神奈川県民俗調査報告 17 (境川流域の民俗)」(神奈川県立博物館 編 1989年)の以下の記述が参考になりそうです。「境川流域」を調査対象地域としていることから、その中に遠藤地区は含まれていないものの、文献目録に「聞書」や「昔の生活」が含まれていることから、この項を執筆する際に両書が参考にされている可能性は高いと思います。但し、それ以外の地域の事例に触れられていたり、「白旗勘定」廃止後の動向も垣間見える点が両書に見えない部分と言えるでしょう。

肥料屋 肥料は人糞・緑肥・推肥・米糠・鶏糞などの他に金肥を購入した。 干鰯・油粕・豆柏も使った。 また、昭和のはじめには硫酸アンモニア・カリなどの化学肥料を使うようになった。これらの肥料は主として藤沢市の白旗横町の肥料屋から購入した。 白旗横町とは、 白旗神社が祭祠されているところからよばれた通称で、 17~18軒の殻屋・種屋・苗物屋・肥料屋などがあつまっていた。ここでの買いものも、やはり後払いが多く、品物をつかったあとでツケ払いする。 このため養蚕や稲の収穫があったあとに白旗横町の商人たちが周辺の農村を歩く姿がみられた。 このような支払いを総じて 「白旗勘定」 といった。

また、長後や保土ヶ谷にも(ママ)屋があって、 米穀類を出荷していた。 これらの店々は種や肥料がおいてあって出荷したときに求めることができた。 ときには米や大豆と肥料をかえてもらう、物々交換の形をとることもあった。またこれら金肥の他に人糞のくみあげは、それぞれの農家で懇意な家などに頼んでくみにいった。 リヤカーで厚木・横浜などにくみにいく。 野菜を売りにいって知りあったトクイ先などに頼んでくませてもらった。 こうしたときにはお礼としてキュウリやナスの2〜3本程度の野菜もおいていった。

カイコバライ 養蚕が終えたあとには魚代・日用品代などさまざまなツケを支払うことがあり、これをカイコバライといった。 そのため昭和初期に養蚕の値の変動の激しかった1時期は死活問題でたいへんな苦労をした。 それまでは「カイコバライ」 というと絶大な信用があったが、昭和2年から5年にかけての没落により、 一気に信用がうしなわれた。 そのころからツケウリもきかなくなったという。

(88ページ、「デジタルコレクション※」より)


やはり白旗横町以外にも、農村との流通の拠点として機能していた町があったと見るのが妥当な様です。また、大正10年頃から売掛を認めなくなっていった最大の要因は、やはり生産物による後納では対価を確実に回収できないリスクが高まってきたからなのでしょう。養蚕が奮わなくなるのは1929年(昭和4年)の大恐慌や化繊の登場によるもので、「白旗勘定」の廃止よりはやや後のことにはなりますが、こうした貨幣経済の変調によってそれまで貨幣経済の十分に浸透していなかった農村地帯にも次第に影響が及び、農村もそれまでの様には貨幣に頼らなくても良いという訳には行かなくなっていった、という動きが垣間見える様に思います。

その点を念頭に置くと、藤沢町の昭和初期の地誌である「現在の藤澤」(加藤徳右衛門著 昭和8年・1933年)で「白旗勘定」の廃止を「惜しい」と書く意味が見えてくると思います。

美しき慣習「白旗勘定」 今は行れず

我藤澤町には古來「白旗勘定」と稱して肥料商人と農家の間に不文律な最も美しき慣習が行はれた。其れは毎年七月廿一日白旗神社の例祭に當り近在の農家は大小麥を今日を晴れと其取引店に搬出し多きを誇りとせば商店また其の俵を店頭に積み上げ恰も俵の富士山が各店頭に現出し農作を物語ると同時に各店共に其多數を以て取引の擴大さを示すものとし誇りとした。斯くして一ヶ年の取引勘定は必ず決濟されて互に重荷を下すので極めて美しき慣習であった。この日農家は其の荷を馬に車に一家擧つて付隨し來り取引店に於て酒食の馳走を受くるものたれば各商店共に共臺所は天手古舞の有様でこれ等の人々は今日一日を飽迄お祭り気分に浸されて享樂に耽けるのである。而してこの美風も漸次經濟思想の惡化によりて決濟に異算を生ずると共に商店また店員待遇上の缺陷たりとして大正十年頃より商店自からこの例を廃止したるは惜き次弟である。

上記書729ページ、リンク先は「デジタルコレクション」※)


それまでは「白旗勘定」という風習によって、まだ必ずしも十分には貨幣経済が浸透していない農村コミュニティとの結節点として白旗横町が機能していた構図が、その廃止によって崩れてしまったこと、そしてそれによって商業地として発展してきた白旗横町と農村との関係も次第に良好なものではなくなっていくことを評して、徳右衛門は「惜しい」と書いたたのでしょう。

その意味では「白旗勘定」という言葉は、農村コミュニティが貨幣経済とやり取りする際の言わば「インターフェース」としての風習を、見えやすい形で示してくれる一例と言えるのかも知れません。今のところ同様の風習を指す言葉を私は知りませんが、恐らくは「白旗勘定」が廃止される大正10年頃までの時期には、他の地域でも同様の風習があった筈でしょう。

それでも、厚木道(や旧滝山道)が「白旗横町」という農産物や農村の生活物資の流通拠点とを結び付けるルートとして重要な役割を果たしていたことは、「白旗勘定」廃止後も変わらなかった筈です。それだからこそ、第二次大戦中に藤沢飛行場の滑走路によって断ち切られてしまった厚木道が戦後に復活するということが起きたのでしょう。

そして勘繰れば、「聞書」に記録された「三崎街道」という呼称も、あるいはこの道の重要性を少しでも強調するべく、より遠方に向かう道として「箔付け」したいという思いを、遠藤地区の人も持っていた証なのかも知れません。
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