fc2ブログ

「歴史をひもとく藤沢の資料 7 遠藤地区」(藤沢市文書館)から(その2)

前回紹介した藤沢市文書館の「歴史をひもとく藤沢の資料」の最新刊である「7 遠藤地区」(以下「藤沢の資料」、別記ない場合は最新刊を指す)について、今回は同書で紹介された「遠藤民俗聞書(ききがき)」(1961年・昭和36年 藤沢市教育委員会刊、以下「聞書」、ルビは藤沢市図書館の資料情報に従う)や「遠藤の昔の生活」(1980年 藤沢市教育文化研究所 刊、以下「昔の生活」)に見られた少し意外な内容について検討してみたいと思います。


「遠藤民俗聞書」遠藤地区の地図
「聞書」中の遠藤地区の地図
意外な内容とは、江戸時代の遠藤村の東から北を経由する「厚木道」について、他では見ない別の名前が「聞書」や「昔の生活」に記録されていたことです。まず、右に掲げた「聞書」冒頭の最初の地図(ページ数表記なし:柳田国男の「序」の次のページ)中、「厚木道」として知られている道筋の脇に右の様に「三崎街道」という名称が記入されており、「厚木道」の名称が記されていません。

そして、「聞書」の本文中でも次の様に「三崎街道」の名称が記されている箇所が見つかります。ここでも「厚木道」の名称は出て来ません。

遠藤は山・畠・田がつりあっているので、ほとんど自給自足の生活で、日常の暮しは楽であったようである。炭焼は以前は今よりも多く数軒はあったときいた。醤油しぼりをする人も芹沢にいて、フネや袋を持ってしぼりに来たという。醤油は秋にしこむと春にしぼりに来る。しぼってから一年くらいおいてから使用するという。味噌も自作で、三年くらいしこむとおいしくなるという。油は菜種子や胡麻をしぼるところまで持って行ってたのんだ。酒・砂糖・菓子・煙草の類の店もあったので酢などは買ったそうである。行商としては金物屋、いかけ屋が来た。かご屋、桶屋、屋根屋も以前からあったという。盆暮の買物にはかつぎざるをかついで、藤沢・厚木間の三崎街道を、歩いて藤沢に出たということである。かつぎざるをかついだ男親にくっついて子供も行き、買物の時の番の役をした。米を売ったり、肥料を買い入れたりには、藤沢の白旗まで出かける。毎年七月の白旗神社の祭礼の時に勘定をする習慣が近年まであって、これを白旗勘定といった。平生でも麦などをのせた手車をひいて、藤沢まで急いで行って帰って午前中はかゝるが、日に二回は往復したという。藤沢間の道はほかにもあったというが名が明らかでない。茅ケ崎にも出たようだが、藤沢が主だったらしい。いまはバスも便利に走っているので、平塚に買い物に出る人が多いということである。

(「聞書」27〜28ページ)


一方、「昔の生活」でも次の様に「三崎街道」についての記述が見られます。

藤沢宿を起点として、白旗横丁から、大庭・石川村を経て遠藤の境界線をつくりながら、長後からの大山道と合流して用田村の辻では平塚からくる中原街道と交叉して進み、海老名から相模川を渡る厚木街道の終点は厚木宿である。厚木街道も厚木の人からみれば藤沢へ出る藤沢道であった。厚木は県央部の交通の要所で、藤沢道の他に矢倉沢往還が通り、北へは甲州街道と通じ甲府盆地へ出る。厚木街道を用田の辻からまつすぐ北上すれば座間・上溝を経て御殿峠、片倉を通り八王子ヘと通じる生糸の道である。厚木街道は甲州街道ともよんだというが、その理由はこうした道を通じての交渉があったことを語り、養蚕、製糸業の盛な地帯を横断する道であった。

厚木街道は又、三崎街道ともよぶ人があった。今回の調査ではその理由を聞き取ることはできなかったし、いまでは三崎道とよばれていた事を知る人も少くなった。昔、海老名に国分寺のおかれていた古い時代に、相模の内陸部の国府から、三浦半島の三崎に通じる道の開けていたであろうことが、日本武尊の東征の道からも考えられる。しかし古代まで溯ることをしなくても、江戸時代に山と海の生産物の交易路としての働きをしていた事を三崎道のよび名はうかがわせるものである。

三崎道は、東海道の藤沢宿、保土ケ谷、戸塚の三点から分岐して三崎港へ通じる道をいう。三崎に通じる道は浦賀港への道ともかさなる。三崎は江戸初期に海関奉行所のおかれていた所、浦賀港は一七二〇年海関奉行所となってから急激に発達した港で、米・塩・酒・煙草・干鰯(ほしか)の問屋が軒をならべて仲つぎ貿易港として繁盛したと県史六に記されている。

(「昔の生活」166〜167ページ)


こちらでは基本的には「厚木街道」と呼ばれていることを記した上で、「厚木街道」の別称として「三崎街道」の名前を挙げつつも、「昔の生活」の聞き取り調査ではその裏付けを十分に得ることは出来なかった様です。しかし、この記述の中では「三崎街道」の持つ意味合いについて何とか積極的に評価しようとする記述になっています。

遠藤村に伝わる「三崎街道」に該当する道筋
旧遠藤村に伝わる「三崎街道」に該当しそうな道筋
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
実際には「聞書」「昔の生活」以外にこの道筋を「三崎街道」または「三崎道」と呼称している事例はなかなかありません。「昔の生活」の編集に携わったメンバーが手掛けた「藤沢市史 第7巻 文化遺産・民俗編」(以下「藤沢市史」)でさえ、「厚木道」が「三崎道」「三崎街道」と呼ばれていたことへの言及は見られません。「藤沢の資料」でもこの道は「厚木道」と記されていて「三崎道」と記された箇所はありませんでした。その他、「藤沢の地名」(1987年 日本地名研究所編 藤沢市刊)や「地図に刻まれた歴史と景観Ⅰ―明治・大正・昭和 藤沢市」(1992年 児玉幸多・古島敏雄監修・高木勇夫編 新人物往来社)など、藤沢市関連の地名や歴史を取り上げた書物も当たってみましたが、この道筋を「厚木道」と記すものはあっても「三崎道」と称するものは見当たりませんでした。

「昔の生活」では「三崎道」の名称から、古代の東海道との関連や、藤沢以遠と遠藤地区の繋がりを見出そうと思いを巡らせています。また、「三崎道」が「浦賀道と重なる」と解していることから、遠藤から藤沢宿へと入った後、「江島道」か長谷への「継立道」を経て鎌倉へ向かい、そこから「浦賀道」を経由して浦賀に至り、更にここから三崎へ達する「三崎道」へと入る道筋が想定されているものと思われます。「藤沢町政要覧」(大正11年・1922年 藤沢町編集)では

町の中央を東北より西南に貫く東海道を幹線とし、左右に分岐線を出す、三崎街道、八王子街道、厚木街道、大山街道は其重なる道路にして、何れも県道に属せり、而して三崎街道は東海道より藤沢停車場に至る主たる道路にして、遠方貨物の本町に入るの関門たり。

(「藤沢市史資料 第38集」藤沢市教育委員会編 1994年 所収 26ページより、「デジタルコレクション」※より)

とあり、ここで言う「三崎街道」が「江島道」を指していることがわかりますので、「昔の生活」が「藤沢町政要覧」を参照していれば、あるいは藤沢から「江島道」を経て鎌倉へ向かう道筋を意識していたかも知れません。

しかし、「聞書」や「昔の生活」、更には「藤沢市史」や「藤沢の資料」で遠藤地区と三浦半島との交易に触れられている箇所はありません。「藤沢の資料」の「1御所見地区」では古代の街道の位置についての検討が試みられていますが(31〜33ページ)、その中で掲出されている地図上では古代の主要な街道が厚木道と重なったり近接したりする様な道筋は描かれていません。「藤沢市史ブックレット8 古代神奈川の道と交通」(田尾 誠敏・荒井 秀規 著 2017年 藤沢市文書館)でも遠藤地区が検討の対象になっていない点は同様です。こうした状況からは、「聞書」や「昔の生活」で採録されている「三崎道」という呼称が、検討されている様な裏付けを持ったものであるとは判断し難いものがあります。「聞書」「昔の生活」以外に古代の交通との関連に言及する書物が見当たらないのも、裏付けを得にくい現状を反映しているとも受け取れます。

遠藤地区とその周辺では直接「三崎街道」に繋がる記録をなかなか見つけられなかったので、もう少し範囲を広げて「国立国会デジタルコレクション」上の全文検索で「三崎街道」等の名称を探してみたところ、「吉野三崎間往還」や「与瀬三崎街道」「与瀬三崎県道」といった呼称を検出することが出来ました。

「吉野三崎間往還」については、明治34年(1901年)の「神奈川縣告示第百六十五號」の中で次の様に記されています。

明治三十四年三月神奈川縣告示第三十八號市郡連帶及市郡各部單獨ノ縣費ヲ以テ維持保存スル道路及河川海岸ノ名稱區域左ノ如シ

明治三十四年七月七日    神奈川縣知事 周布 公平

郡部縣費維持保存ノ道路線名及區域

一 吉野三崎間往還

相模國津久井郡吉野驛地内第拾六號國道ヨリ分岐シ同郡長竹村同國愛甲郡愛川村厚木町同國中郡相川村同國高座郡六會村藤澤大坂町同國鎌倉郡鎌倉町同國三浦郡田越村葉山村ヲ經テ同郡三崎町ニ至ル迄

(「神奈川県会史 第3巻神奈川県議会 編 1955年 所収 902〜903ページ、「デジタルコレクション」※から)


「白旗横町」と各街道の位置関係
「白旗横町」と各街道の位置関係
1960年代の空中写真を合成
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
甲州街道:津久井県の各村・宿場の位置
甲州街道:津久井県の各村・宿場の位置(再掲

ここで示されている経由地の中には遠藤地区を含む小出村の名前も、その西隣に位置する御所見村の名前も出て来ないため、これだけではこの往還が「厚木道」を含むものか判然としません。しかし、この告示中の街道一覧の他の場所に

一 藤澤大和間里道

相模國高座郡藤澤大坂町吉野三崎間往還ヨリ分岐シテ同郡澁谷村ヲ經テ同郡大和村地内東京府境迄

(「神奈川県会史 第3巻」904ページ、「デジタルコレクション」※から)

とあることから、この里道が「滝山道」の道筋に相当することに気付きます。そして、上の地図に見る通り「厚木道」はこの滝山道から分岐していることから、「吉野三崎間往還」の区間の中に「厚木道」が含まれていることがわかります。「吉野」はかつての甲州街道の宿場の1つであった「吉野宿」(現:相模原市緑区吉野)を指します。

「与瀬三崎県道」の呼称については、大正2年(1913年)の「神奈川縣告示第二百三十號」に次の様な記述が見えます。

明治三十四年七月神奈川縣告示第百六十五號中縣費ヲ以テ維持保存スル道路ノ名稱及其ノ區域左ノ通改定シ大正三年度ヨリ之ヲ施行ス

大正二年十一月二十三日  神奈川縣知事 大島久滿次

郡部縣費維持保存ノ道路線名及區域

一 與瀨三崎縣道

與瀨停車場ヨリ津久井郡日連村串川村愛甲郡愛川村厚木町高座郡海老名村御所見村藤澤町鎌倉郡鎌倉町三浦郡逗子町葉山村ヲ經テ同郡三崎町迄

(「神奈川県会史 第3巻」907〜908ページ、「デジタルコレクション」※から)


これによって、「厚木道」の区間は神奈川県庁ではそれまでの「吉野三崎間往還」に代わって「与瀬三崎県道」の名前で呼ばれることになった訳です。「与瀬」とは「吉野」と同様、甲州街道の宿場の1つであった「与瀬宿」(現:相模原市緑区与瀬)を指しています。

「吉野三崎間往還」の方は、後年の「横須賀市史」※(横須賀市史編纂委員会 編 1957年)の中で(274〜275ページ)、明治17年(1884年)には「吉野三崎間街道」の名前が「県統計書」の「道路ノ坪数及延長」の表中に現れること、更に明治20年(1887年)には神奈川県知事から郡役所に対して発せられた訓令の中で「吉野三崎間往還」の名が登場することが指摘されています。このことは、「神奈川縣告示第百六十五號」の明治34年以前からこの呼称が神奈川県庁の関連役所内では使用されていたことを示唆しています。しかし、「吉野三崎間往還」または「与瀬三崎県道」の様な呼称が神奈川県関連の資料(統計表など)以外で一般に用いられる例は、以下の「デジタルコレクション」の全文検索で見出される例を見る限り、やはり明治34年よりは後に出版された資料の中です。

  • 愛甲郡誌」(村瀬米之助 著 明治43年・1910年 竹村書店)

    吉野三崎間往還(靑山村より愛川村迄)二里十九町二十九間/(愛川村より荻野村迄)一里三十四丁四十四間/(厚木町より有馬村迄)一里九丁二十五間」(27ページ)

  • 帝國地名辭典 上卷」(太田爲三郎 編 明治45年・1912年[購求年] 三省堂)

    (「サガミ-ノ-クニ(相模国)」項中[交通]の中で)「…吉野三崎間街道(津久井郡吉野より厚木・藤澤を經て三崎に達す)…」(709ページ)(「カナガワ-ケン(神奈川縣)」の項中にもこれに近い記述あり)

  • 神奈川県誌」※(大正2年・1913年 神奈川県)

    (「第五節 交通及土木/三 橋梁」中)「其の他國縣道に沿へる、多摩川、中津川及び相模川の流域に於て、渡船に依り交通に便しつゝある者は左の五ヶ所とす。/…/岡田渡船|吉野三崎間往還|中郡相川村高座郡有馬村|同(相模川)|約一二〇(間)|仝(明治)十二年十一月許可/反田前渡船|同(吉野三崎間往還)」|津久井郡吉野町同郡日連村|同(相模川)|約五〇(間)|仝(明治)十二年四月許可(169ページ)

  • 三浦郡志」(神奈川県三浦郡教育会 編 大正7年・1918年 横須賀印刷)
    • 「葉山村」の[交通]の項)「與瀨三崎縣道は海岸に沿ひて南北を縱貫す。縣道より分岐して横須賀市及衣笠村に至る里道堀内及一色に在り。兩道は一色の中央に於て一致し、上山口を經て木古庭に入り、衣笠村及横須賀市に達す。」(94ページ)
    • 「逗子町」の[交通]の項)「與瀨三崎縣道は鎌倉より名越の隧道を過ぎて久木に入り、町の西部を貫きて葉山村に入る。逗子、金澤間の縣道、逗子、田浦間の縣道は本郡東西の海岸を連絡し、與瀨三崎縣道に合す。」(101ページ)
    • 「南下浦村」の[交通]の項)「三浦縣道は菊名の海岸に於て、西に折れて高臺に上り、三崎町引橋にて與瀨三崎縣道に合す。」(115ページ)
    • 「三崎町」の[交通]の項)「半󠄁島の東部海岸より來れる三浦縣道は町の東北部にて、西部海岸より來れる與瀨三崎縣道に合し、町の中央を貫通して三崎港に達す。」(120ページ)
    • 「初聲村」の[交通]の項)「與瀨三崎縣道は長井村より入り、天王坂を越えて南に過ぎ、三崎町に於て東部海岸の三浦縣道に合し三崎港に至る。」(140ページ)
    • 「長井村」の[交通]の項)「與瀨三崎縣道は武山村より入り、本村の東部を過ぎて初聲村に通ず。本村の主要街區は皆縣道より離れ、西部の海岸地方にあるが故に、縣道より此等海岸地方に至る里道を生ず。」(146ページ)
    • 「武山村」の[交通]の項)「與瀨三崎縣道は西浦村より來り、西部の海岸を通じて長井村に入る。横須賀市深田に起れる豐嶋武山縣道は衣笠村より村のほゞ中央を通じ、林に於て與瀨三崎縣道に合す。」(149ページ)
    • 「西浦村」の[交通]の項)「與瀨三崎縣道は葉山村より來り、長者崎の鞍部を通じ、海岸の絶壁に沿ひ、秋谷に入り、芦名、長坂を經て武山村に入る。平坦なり。」(154ページ)
  • 相模国分寺志」(中山毎吉・矢後駒吉 著 大正13年 海老名村)

    「今海老名耕地の條里につきて詳記すれば、此の耕地を眞直に東西に横ぎる四條の著明なる道路がある。北にあるものを東京厚木縣道(俗に一大繩といふ)と云ひ、次は中新田の村道(東半部は欠く)をなし、次は大谷今里の村道(一部用田(「藤澤」の書き込みあり)厚木縣道)をなし、南にあるものを元吉野三崎縣道(一部は今藤澤厚木縣道)をなして居る。」(203ページ)

  • 炉辺叢書 9 相州内鄕村話」※(鈴木 重光 編 大正13年・1924年 郷土研究社)

    (「相州内鄕村/位置」項中)「そのうち吉野三崎往還が村の中央を通ずる樣になり、道志川には鐵橋が架せられ、全く面目を一新し、大正五年(ママ)には此往還が與瀨三崎縣道と改稱せられ、與瀨に通ずる釣橋が相摸川に架けられてから、更に/\趣を改めたものである。」(2ページ)

  • 大島家史と其郷土誌」※(大島正徳 編 昭和8年・1933年)

    「…同年(注:大正二年)十一月二十三日假定縣道矢倉澤往還は武相縣道と改稱、厚木横濵間里道は愛甲縣道となり、鶴峯溝間里道、御所見座間間里道の縣費支辨を廢し、與瀨三崎縣道(從來厚木町、相川村經由、有馬村に通ぜしもの、)及び埼玉縣道(從來厚木町より依知を經由して麻溝村に通ぜしもの)を本村經由に變更された。/大正九年四月一日道路法に依り村内を經由する左記路線。/厚木東京線、(從來の武相縣道)、厚木横濵線、厚木藤澤線(從來の與瀨三崎縣道)座間戸塚線、厚木調布線、座間寒川線、厚木戸塚停車場線。/を縣道に認定され、同十二年四月一日更に座間茅ヶ崎線を縣道に認定された。」(294〜295ページ)

  • 郷土神奈川 第1巻第6号(6)」※(昭和17年・1942年6月 神奈川県郷土研究会)

    (「津久井郡に於ける信玄道」長谷川一郎 著 記事中)「明治時代に至りては甲州街道の分岐点吉野町を起點として三浦三崎に到る相模国を縱貫する道路を總稱して「吉野三崎往還」と云つてゐたが、中央線與瀨驛の設けられしよりは現在の名稱を「縣道與瀨愛川線」と云つてゐる。/以上は所謂「信玄道」に關する歷史上の變遷である。」(22ページ)

  • 藤沢志稿 : 市勢振興調査結果報告書」※(昭和30年・1955年 藤沢市総務部市民課)

    (第2図 藤沢大富町略図中)「吉野三崎間仮定県道/役場より村岡境まで8丁」(江島道ではなく長谷へ向かう鎌倉道に記されている)


「吉野三崎間往還」や「与瀬三崎県道」の具体的な道筋を示した地図などの情報は今回見つけることは叶いませんでした。しかし、上記の各資料から、与瀬から厚木へは「津久井道・信玄道」を経由すること、当初吉野起点であったものが与瀬へと移されたのは、明治34年(1901年)の官設鉄道(後の中央本線)開業に伴って与瀬駅(現在の相模湖駅)が設置されたことに伴うこと、厚木からは「岡田の渡し」を経て有馬村(現:海老名市有馬)から厚木道へと入るものの、その道筋は変遷があったことが窺えること、藤沢から鎌倉へは「江島道」ではなく長谷へ直接抜ける「鎌倉道」が選ばれていたこと、そして三浦半島内では葉山からそのまま三浦半島の西岸に沿って南下して三崎へ向かう道筋を経ていたこと、などが見えてきます。

この名称は大正9年(1920年)4月1日に発せられた「神奈川縣告示第百二十二號」(リンク先は「現行神奈川県令規全集 : 加除自在 第2綴 改版」昭和11年・1936年 帝国地方行政学会)によって「神奈川県道厚木藤沢線」と再び改称されますので、この時点で大正2年の県令で定められた一連の名称は廃止されたことになります。「吉野三崎間往還」は約12年間、「与瀬三崎県道」の名称は約7年間だけ有効だったことになるため、公的に「三崎」の名称が冠されていたのは都合20年足らずの期間だったことになります。

どの様な理由でこの様な呼称が使われていたのかを直接的に表明している資料には今回は行き当たりませんでした。個人的な見解ですが、あるいは道路の整備に県費を支出する法的な整備がまだ進まない時代には、これらの道筋の整備に県費の出動を少しでも促すためには、より遠方の拠点間を結ぶ主要な道筋であることを庁内に示す必要があったためではないか、と考えています。これらの呼称が大正9年に廃せられたのも、前年の大正8年の(旧)道路法制定によって県道の法的な裏付けが出来たことで、当時の道路交通の実情に合わない呼称を敢えて用いる必要が失われたためではないかと思われます。

こうした背景を鑑みるに、「聞書」の調査時には、あるいは話者にはこの「吉野三崎間往還」や「与瀬三崎県道」と呼ばれていた期間のことが念頭にあったのかも知れません。当時の調査カードが残っていれば、「三崎街道」の呼称がどの様な機会に聞き取られたのかを確認したいところです。ただ少なくとも、既に県道の呼称としても実質的に廃止された後にも、更に「三崎街道」の呼称を好んで使いたがる人が、その多寡はともかく遠藤地区に存在していたことの記録であることは揺るがないところなのでしょう。

とは言え、一般的にはこれらの呼称がその後も継続的に使用され続けている状況は確認出来ません。藤沢市のその後の各種資料でも取り上げられていない状況から見ても、「厚木道」について「三崎街道」という呼称を用いるのは、神奈川県の告示が有効だった期間の道路行政をはじめ当時のこの道の諸事情を指す場合以外では、適切ではないと言うべきでしょう。少なくとも、「昔の生活」に見られる様に「三崎街道」という呼称について古代からの交通を連携させて考察するのは、妥当ではないと言えます。

もっとも、「三崎街道」という呼称を挙げた話者の思いについては、もう少し考えてみる必要はありそうです。その点に関連して、更に検討したい記述が「聞書」や「昔の生活」に見えるのですが、今回も長くなりましたので「その3」に廻します。



  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

地誌のはざまに - にほんブログ村

記事タイトルとURLをコピーする

この記事へのコメント

トラックバック

URL :