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「歴史をひもとく藤沢の資料 7 遠藤地区」(藤沢市文書館)から(その1)

このところ毎年1冊のペースで藤沢市文書館から発刊されている「歴史をひもとく藤沢の資料」(以下「藤沢の資料」)のシリーズですが、昨年は長後地区が取り上げられ、私のブログではその中から長後を経由する滝山道について重点的に記事にしました。今年は7巻目として「遠藤地区」が刊行されましたので、早速中身を確認してみました。

今回の「藤沢の資料」も同シリーズのこれまでの巻と同様の構成になっています。遠藤地区の資料の目録を収録したCD-ROMが付属するのも一緒です。
  • 画像で見る遠藤
    • 遠藤地区とは
    • 遠藤村と寶泉寺
    • 「丘が招いた」もの
    • 空から見た遠藤地区
    • 旧小出村・御所見村の旧地形と史跡図
    • 遠藤村の字境と集落立地
    • カメラが捉えた遠藤地区
  • 遠藤の歴史をひもとく
    • 地誌に見る遠藤の寺社
    • 数値で見る遠藤
    • 地図・絵図目録
    • 遠藤村の成り立ちと藤元寺・寶泉寺
    • 江戸時代の寶泉寺とその役割
    • 遠藤民俗聞書―丸山久子と藤沢の民俗
    • 遠藤の暮らしと行事
    • 「丘が招いた」もの―北部・西部開発から「健康と文化の森」へ
  • 遠藤の歴史資料
    • 各資料群の概要
    • 藤沢市文書館資料目録(遠藤地区)」(CD-ROM収録)について
    • もっと詳しく知りたい人へ
    • 藤沢市行政区画変遷表
    • 藤沢市および周辺行政区画変遷図

(「藤沢の資料」5ページ目次より、以下引用明記ないものは何れも同書より)



藤沢市遠藤の位置
Googleマップ
「歴史をひもとく藤沢の資料 7 遠藤地区」遠藤地区変遷図(6ページ)
遠藤地区変遷図(「藤沢の資料」6ページ)

藤沢市の遠藤地区は現在は慶應義塾のSFCキャンパスが存在する地区と紹介するのが通りが良いでしょうか。東側は工業地帯として区画整理が施されましたが、SFCキャンパスを含む西側は藤沢市内では比較的農地や緑地が残っています。この地区について、「藤沢の資料」は次の様に記しています。

遠藤地区は1955(昭和30)年の北部合併時に、高座郡小出村大字遠藤を編入した地区である。近世村(旧村)である遠藤村を継承する地区であるが、しかし旧村の区域とは必ずしも同一の関係ではない。

近代の行政村は、複数の近世村(旧村)を統合することで成立したが、明治初頭の区番組制の時代の遠藤村は、亀井野村、石川村、西俣野村とともに「第18区10番組」、大区小区制の時代は「第18大区10小区」を構成するなど、現藤沢市域との関係が深かった。だが、1884(明治17)年の連合戸長役場制に際して芹沢村、行谷村、堤村、下寺尾村と五ヶ村連合を組織したことで、1889(明治22)年施行の町村制にあたって小出村の大字の一つになった経緯がある。

小出村は戦後の「昭和の大合併」にあたって、大字遠藤は藤沢市、それ以外は茅ケ崎市に分かれる分村合併を選択する。ただし、遠藤南部の字丸山については大字芹沢および堤と部落会(町内会)を構成していたことが考慮され、一部が遠藤から切り離されての合併になった(図中:紫)。

藤沢市はしばらくの間、本庁および遠藤をはじめとする合併町村から引き継いだ6つの支所(1968年9月に行政センター、1973年4月に市民センターに改称)の管轄単位を、広域の地区区分として用いていた。しかし、湘南台や善行など、開発によつて新たな生活圏が形成されたため、生活実態にあわせた新たな区割りが必要になった。そこで、1975(昭和50)年に現在の「13地区」の区割りが提示された。この「13地区」は、歴史的経緯や都市計画区域、河川などの自然条件をもとに、大字にとらわれない形で編成されたもので、支所時代の遠藤地区から湘南ライフタウンに含まれる字矢向・丸山・大平・滝ノ沢と南原・中原の南部、永山の西部(図中:緑)が湘南大庭地区へ、字田方の南部と永山の東部(図中:黄色)を六会地区に割譲する代わりに、北部第二土地区画整理事業で一体的に開発された、旧六会村を起源とする石川5丁目と石川6丁目、字大山・近藤山(図中:橙色)が編入される。こうして、現在の遠藤地区が成立した。

(7ページ、一部括弧内省略)


こうした経緯から、今回の「藤沢の資料」の内容でも、特に現代に入ってからの開発事業に関する部分では、新たな区割りに含まれる江戸時代の石川村に属する地域の記述も含んだものになっています。ただ、近世以前の記述ではその当時の村の範囲を基本とした記述になっている様です。

遠藤付近の藤沢厚木道
遠藤付近の藤沢厚木道
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
このブログでは江戸時代の相模国の街道の状況を「新編相模国風土記稿」(以下「風土記稿」)などを手掛かりに取り上げてきていますが、「風土記稿」の高座郡遠藤村の項(卷之六十一 高座郡卷之三)では、この村を経由する街道は挙げられていません。実際は遠藤村の東から北にかけての境には藤沢から厚木に抜ける厚木道が通っていたと考えられます。事実、遠藤村の「皇国地誌村誌」の残稿には

道路

厚木街道 東南東本郡石川村より本村字十四枚ニ来り東より北の村界を千弐百弐拾七間幅弐間半西北隅字西大平より本郡打戻村字慶蔵法印塚へ通す

(「藤沢市史料集(11) 村明細帳 皇国地誌村誌」藤沢市文書館編 100ページより)

と遠藤村の境を厚木街道が通っていたことを記しています。なお、私のブログではこの道については以前「藤沢飛行場」を貫通する道として紹介したことがあるものの、遠藤村周辺の区間は今のところ取り上げたことがありません。

「風土記稿」にこの道についての記述が見られないのは、村との関係が薄かったからでしょうか。「藤沢の資料」でも厚木道に関する記事は含まれておらず、付属のCD-ROMに収められている遠藤地区の資料の一覧でも厚木道に関係がありそうな資料の名称は含まれていませんでした。但し、後に旧遠藤村が小出村から分離して藤沢市と合併する選択をしたことが「藤沢の資料」に見えますが、その際には、この厚木道が藤沢と旧遠藤村の関係を繋ぐ存在であったとも考えられます。

この厚木道の道筋を地形図や(あざ)界図(「藤沢の資料」17ページ)上で見ると、遠藤村の北側の地域は「ヤト(谷戸)」と呼ばれる複雑な谷が幾筋も付いており、相模川水系に属する小出川の源流地となっています。またその南東側の「北原」と呼ばれる字の一帯は、村の中では比較的高台にありながら引地川水系の支流である小糸川の源流があり、一帯に湿地が多く耕作が困難であったため、その克服に排水目的で「悦堂堀」と称する用水路が慶長年間に掘られました。厚木道はこうした遠藤村内の谷筋や湿地を、尾根筋を伝いながら「く」の字状に迂回するルートを経ていたことがわかります。


悦堂堀の位置。マーカーの位置は以下の2枚の写真の撮影地点
現在はその大半が埋め立てられ中学校や体育館の敷地となっている
西側に小糸川の源流付近の河道が見えている(「今昔マップ on the web」より)

2000/09/15 藤沢・遠藤 悦堂堀の景観
遠藤・悦堂堀の景観(2000年ブログ主撮影)
2000/09/15 藤沢・遠藤 悦堂堀ガイド
遠藤・悦堂堀ガイド(2000年ブログ主撮影)

因みにこの「悦堂堀」を建設した悦堂和尚は、当地の曹洞宗普蔵院太源派直末寺院である寶泉寺の7代住職でしたが、「藤沢の資料」では江戸時代の記述はこの寶泉寺に関するもので占められました。これは同寺に残る資料の点数が900点と豊富で、遠藤地区の近世までの資料の大半を占めることを反映しているものと思われます。

その点では、この巻では私のブログの関心領域に関連しそうな記事がなかなか見当たりませんでした。その様な中で、「遠藤民俗聞書―丸山久子と藤沢の民俗」の項には藤沢市の民俗研究の推移が記されており、これが私のブログで取り上げた事柄に意外な接点が見出だせる内容になっていました。

私のブログで以前相模国の「炭」生産の諸実情を取り上げた際、「その8」で炭焼と関わりの深い信仰として挙げられるものがないかを調査しました。その際津久井郡と並んで「山の神」信仰の記録が見出せたのが「藤沢市史」の「第7巻 文化遺産・民俗編」(以下「民俗編」)で、遠藤地区の打越や神明谷の事例が挙げられていました。

この「民俗編」の成立に繋がる同地の民俗調査の経緯が、「遠藤民俗聞書」の項にまとめられていました。まず、「遠藤民俗聞書(ききがき)」(以下「聞書」、ルビは藤沢市図書館の資料情報に従う)については次の様に紹介しています。

『遠藤民俗聞書』(以下・『聞書』)は、純農村の姿をとどめていた遠藤の暮らしや慣わしを記録した民俗調査報告書である。1961(昭和36)年3月、藤沢市教育委員会から刊行された。企画から調査、執筆、編集を全て担当したのが、柳田國男のもとで民俗学を学んだ丸山久子(1909―1986)である。

『聞書』は、丸山にとって藤沢市での最初の仕事であった。

巻頭には、柳田が序文(口述・丸山久子)を寄せている。柳田は、相模の内陸部には未だ不明な点が多いことを指摘し、「神奈川県の中でも東京の中心からわずか二三時間の行程の区域に、戦後十数年経った今日、まだこんなところがあろうとは考えていなかったことであった。」と述懐する。そして、「これは遠藤の地にとってはよい記念となろうし、たまたまこの地を選んではじめた女の人たちの仕事が、地元に同情者をえて、このような形で世に残ることは、あながち小さい出来事とばかりは云えないと思う。」と結んで、丸山たちの功を讃えている。

当時の民俗学は村落を対象とすることが多く、東京に隣接する神奈川県は民俗調査が進まず、成果物も少なかった。藤沢では、1932(昭和7)年に江島神社に奉職した清野久雄が、島民から島の言い伝えや行事の間き書きをしている。その一部は、雑誌『旅と伝説』・『方言』などに発表されたが、『江の島民俗誌』として刊行されたのは『聞書』と同年の1961(昭和36)年である。それ以前に編まれた民俗誌は、1943(昭和18)年に山川菊栄が村岡を舞台に著した『わが住む村』の一冊にすぎない。無名の人々が伝えてきた生活文化は、ほとんど顧みられることはなかったのである。民俗調査の報告書が藤沢市の刊行物となるのも、『聞書』が初めてのことであつた。

(44ページ、「…」は中略)


この記述に従えば、遠藤は藤沢市域の民俗調査という点では初期に属する調査地であったことになります。この遠藤の地が民俗調査の対象となった理由については、調査員たちが日帰り出来る地であり、かつ主要な交通路から外れているために都会の文化の影響が比較的少ないと考えた旨、丸山が「聞書」のおわりに記しています。しかし、人手や時間の制約から充分な調査が行えず、遠藤の中でも僅かな調査地に限定されたこと、その後「聞書」の補充調査が丸山の下で郷土史や民俗学の連続講座を受講した受講生たちによって遠藤で再び行われ、「遠藤の昔の生活」(1980年 藤沢市教育文化研究所 刊、以下「昔の生活」)として結実したこと、そしてその際に調査に従事したメンバーで「民俗編」の執筆に取り組んだことが記されています。

そこで、「聞書」と「昔の生活」を取り寄せて内容を確認してみることにしました。炭焼と関連する信仰について、更なる情報が得られる可能性を感じたからです。その結果、以下の様な記述を見出すことが出来ました。

「聞書」:

  • 薪は昔は藤沢や茅ケ崎などに出荷したこともあり、炭焼業も四、五軒あってやはり藤沢、江ノ島方面に出した。現在では炭焼は上庭に二軒あるだけ、薪も炭もともに村内の需要を満たすこともできない状態である。(17ページ)
  • 山の神については、八日は山に入ると山の神がおこるといって入らない。また二月十七日は特に山の神のいかりを恐れて山に入ることはしないという話である。(51ページ)

「昔の生活」:

  • 山仕事をする人達は山講を行っていた。この時炭や薪の単価を決めた。今は山講は行われていない。(26ページ)
  • 山仕事

    農閑期の一月から二月頃にかけて副業として山の仕事をする人もありました。北部と西部の部落に十軒位あって、雑木を切って薪や炭を作り藤沢や茅ケ崎に出荷していました。(現在は無い)

    山仕事としては、木を切ったり枝をおろしたり根直しをしたりする先山(さきやま)と代採した木を山から搬出するダシと、木材を板や角材に晩く木挽(こびき)とありますが、遠藤ではほとんどが先山で、先山の仕手をする人を杣(そま)と呼びます。杣の人達で山講があり、頭をオヤダマと呼び月一七日、秋十月十七日に講を行っていました。毎月八日は山の神の命月だから山へ入ってはいけないといって山の仕事は休みました。

    炭焼き

    炭焼業も四、五軒あって藤沢の町場や江島方面に出荷しました。(昭和三十六、七年頃まで上庭にあった二軒の家では焼いていた)材料はくぬぎ、なら、かしの堅木や松、杉等で松炭は柔らかくはこりやすかったので鍛治屋に歓ばれました。養蚕や茶の製造には欠かせなかったので、養蚕の盛んな頃は冬の間だけでなく一年中焼きました。

    炭の焼け具合は、煙の臭や色で見分けて火を止めるのですが、なかなかむずかしいもので、下手な人が焼いた炭はくすぶってよくありません。

    賃焼きといって、木はお客さんの家の木でかまどを貸して焼く事もあります。代金は一かまいくらと決めて焼いた炭を代金として置いていく事が多かった様です。一かまで五俵か六俵位焼けます。(89〜90ページ)

  • 山講 一月十七日と十月十七日に行われていた。山の仕事をする人、山の木を扱う人、炭を焼く、薪切りなど山仕事をする職業の人の集まりが山講である。当番の宿(やど)は廻り持ちで、この日にお賽銭をもちよって集る。山講の日には、オヒ(ママ)ウゴを掛けて、皆で会食しながら、薪の一束は幾ら、など賃金やその他の仕事のことも決めて古くからある帳面に記録をする。それを連盟が承認する。

    山の神のオヒョウゴ(掛軸)は、神奈川県立博物館に寄贈されているが、この記録によれば、集まってくる講中の人の部落名は、笹久保、神明谷、中町(慶応三年)で遠藤全域にわたっている。

    山の神はうるさい神様だから、女の神様らしいといい、十七日は山の神の日だから、山に入るじゃない」と言って、どこの山でも入らなかった。(259ページ)

  • 屋敷神

    神明谷戸の長田光一氏宅内の山の神は、石の小祠で、天明五、十一月十七日と刻まれている。祭は二月十七日の山の神の日に行ない、以前は神明谷戸の稲荷社といっしょに山の神もまつられていたが、道路の幅を広くするとき、社を移すことになり、町内のものだから、山の神も移すようにいわれたが、古い言い伝えに「ちようま」という先祖がたてたからというので、個人の家の屋敷神として今はおまつりしている。祭の日には、「山の神の命日だからお茶をあがりに来てください」と近くのナカイ、ニイヤの家の人をよぶ。赤飯、煮〆、酒と菓子を供えてから、オタキアゲをして、御馳走を食べる。子供衆には、「山の神のセエトでゴックウ(御供)だから」と言って、菓子をくるんでやる。

    毎月八日の日は、「今日は八日だから、山へ行かない方がよい」といって山仕事はしなかった。正月四日のウナイゾメの時には、ダイノコンゴウを供え、山の神の祭りのとき、オタキアゲをして燃す。毎朝お詣りしないことはないという。(271ページ、273ページに写真あり)


これらを見ると、「聞書」が編集された昭和30年代初期には薪や炭の需要と供給が下火になっていく時期に重なっており、山仕事に関連する民俗も「過去のもの」になりつつあった状況が窺えます。その様な事情も相まって、遠藤地区で必ずしも主要な産業ではなかった山仕事についての記述も、それほど多くはならなかった様に見受けられます。

その一方で、「山講」が単なる宗教的な集いではなく、単価設定を取り決めるなど同業者組合的な側面も併せ持ったコミュニティであったこと、薪や炭の出荷先として遠藤村内の養蚕や製茶用途への供給の他に、藤沢や江の島での需要に応えていたことなど、新たな側面も浮かび上がってきました。基本的には農閑期の副次的な稼ぎという側面が強かったとは言え、「山講」に関与した地としてヤト地形を抱える遠藤北部の字が挙げられていることから、これらの地域では谷戸の尾根筋が山仕事の場として定着していたことが窺えます。

無論、飽くまでも民俗調査ですので、歴史的資料と照合する場合は調査時点で確認できた習慣が何処まで時代を遡るものか特定し難い点に注意する必要はあります。例えば養蚕や茶葉生産は明治以降に盛んになる傾向がありますので、それ以前の事情が変化ないものと言えるかどうかは、当時の事情と改めて照らし合わせて考えないといけません。それでも、時代による変動を受けにくい習慣、例えば上記で繰り返し登場する山仕事の禁忌日の習慣などは、かなり昔から続いていたものである可能性が考えられます。実際、屋敷神の祠や表具に記されている年代が江戸時代後期のものであることから、その頃には既にこうした信仰が定着していた可能性が高くなります。そして、衰退期の取材にも拘らず禁忌日がこれだけ繰り返して採集される慣習であったことから、相当に拘束力の強いものであったと見て良いでしょう。

遠藤笹久保谷戸内の様子
記事アップ時点では公園整備前の状態が写っている
ストリートビュー
近年、遠藤笹久保(やと)の内部が公園として整備されましたが、ここは元は谷戸田であった所が永年保全され、景観が維持されてきた地域です。周辺には林が残されていますが、遠藤の山仕事が行われていた頃はこうした林で薪や炭を生産していたことになるでしょう。

今回の遠藤地区の「藤沢の資料」は、このブログにとっては「聞書」や「昔の生活」の様な未見の資料の存在への「気付き」を用意してくれる存在になりました。実は「聞書」や「昔の生活」からは、遠藤の山仕事に関する民俗以外にも意外な記述を見つけたのですが、既にかなり記事が長くなっていますので、この続きは次回に廻します。


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