そこで今回は予定を変更して、別の題材で「デジタルコレクション」上を探索して新たな発見がないかを探ることにしました。今回は、以前こちらの記事で検討した箱根地域の「蕎麦」について、明治以降の動きについて記された資料が更に見出せないかを検討します。
まず、以前の記事では明治時代の中頃から「宮城野蕎麦」の名で呼ばれる様になったことを示す資料を何点か紹介しました。これを踏まえて、「デジタルコレクション」上で「宮城野蕎麦」で全文検索を試みたところ、全部で61件の資料がヒットしました。うち2件が「国立国会図書館内限定」資料ということでネット経由でのアクセスが難しいため、残りの59件について何か新たな知見が得られる資料がないかを確認しました。
この61件を出版日の古い順に並べると、以前の記事でも紹介した「箱根温泉志」(明治26年・1893年 学齢館刊)と「箱根温泉案内」(全文検索でヒットするのは明治29年・1896年の増補訂正2版だが一部漢字や送り仮名の変更を除き実質的に明治27年の初版と同一文章、森田富太郎 著 森田商店刊)が最初に並びます。国立国会図書館未蔵の更に古い資料に出現する例があるのかも知れませんが、この明治26年頃が「宮城野蕎麦」の呼称が現れ始めた時期ということになりそうです。
以下、ヒットした資料には当然ながら旅行案内書が多く、一部に紀行文の類が混ざるといった傾向になっています。こうした旅行案内書が「宮城野蕎麦」の名称の流布に一役買った可能性が考えられます。
何点かの紀行文のうち、実際に蕎麦を注文した際の様子を記しているものとしては、「矢立之墨 : 探勝紀文」(下巻、微笑小史 著 明治39年・1906年 大橋義三刊)が挙げられます。注文をしてから蕎麦を打ち始めるので時間がかかるため、その間を散策する様に案内されているのに、それを知らずに小一時間待たされた、という経験が綴られています。この頃はまだ蕎麦打ちの間を繋ぐための別の料理などを供してはいなかったのかも知れません。
木賀の上數丁に宮城野あり、淸流に臨みて設けし一亭、名物宮城野蕎麥を賣る然して其家法たるや(卜は少し仰山なれど)客のあつらへを聞きたる後、始めて製造に取りかゝると云ふなれば、是を味はゝんと思ふ人は、先づ幾つばかりと命じおき、其邊一時間餘遊びし後、立寄るべき都合なるに、一向是を知らざりし爲め、正直に待たさるゝ一時間餘り、其長き事打立ての蕎麥よりも餘ほど長かりし、
一方、前回の記事では大正年間に入って小田原電気鉄道(現:箱根登山鉄道)の強羅乗り入れやケーブルカーの敷設、更には路線バスの開業に伴い、箱根地域の交通事情が様変わりしていくに連れて、宮城野蕎麦も影響を受けた可能性について示唆しました。この点について、まず「東京近郊写真の一日」(松川二郎 著 大正11年・1922年 アルス刊)に次の様な記述があるのに気付きました。
大涌谷から早雲山の山腹を通つて、二十町ばかりで上强羅へ出る。この上强羅と下强羅との間の斜面に、强羅公園がある。小田原電氣會社が遊客誘引の目的で、可なりな費用と勞力を投じて造つた高山公園である。…
入口の前に宮城野蕎麥の出張店や、汁粉屋などもある。
これに従えば、強羅一帯が新たに開発されて観光客の流れがそちらへと向かうのに合わせ、宮城野蕎麦もその流れに合わせて支店を出したことになります。但し、この強羅の店舗については他に記している資料を見出すことが今回は出来ませんでした。著者の松川二郎はこの様な旅行案内書の著述が多数あり、「その2」でも何冊かの旅行案内書の著者として名前が出ましたが、「宮城野蕎麦」でヒットした資料の中でも複数の著書が見つかりました。それにも拘らず強羅の宮城野蕎麦については他に記述を見出せないことから、あるいはこの強羅の店舗については短期間の営業に留まったのかも知れません。

(「デジタルコレクション」)

(「デジタルコレクション」)
また、「デジタルコレクション」で公開されている「箱根名所圖繪」(四版、吉田初三郎 製圖, 妹尾春太郎 著 大正11年・1922年 箱根印刷刊)では、絵図中に「宮城野そば」が営まれていた場所が「宮城野橋」の袂であったことが示されているほか、裏面の解説では「木賀温泉」の項の中で
と絵図を製作した吉田初三郎の俳句を添えて紹介しています。宮城野は木賀から四丁餘で、名物宮城野蕎麥がある。「宮城野のそばのうまさやほとゝぎす」とは初三郎君の一句である。
「デジタルコレクション」で公開されているのはこの「四版」のみでしたが、ネットを検索してみたところ、「国際日本文化研究センター」の「所蔵地図データベース」で公開されている「七版」(昭和2年・1927年)と「日本民営鉄道協会」の広報誌「みんてつ Vol.52(2015年冬号、リンク先はPDF)」の「八版」(昭和5年・1930年)が見つかりました。この3つの版を比較して確認したところ、3版何れにも「宮城野そば」が地図中に記されていることがわかりました。一方、絵図の左下には後に東海道線になる「熱海線」が描かれていますが、「四版」では小田原駅から先の線が未開通であることを示す斜線を含んだ線で描かれているのに対し、「七版」と「八版」では開通後であることを示すゼブラ模様に描き替えられています。また、図中の「宮城野」から「板里温泉」に向かう道に「七版」以降にバスの絵が描かれており、この道に新たに路線バスが開通したことを示していると考えられます。これらの更新箇所から、「箱根名所圖繪」は箱根地域の観光案内情報をかなり適時的に更新していたものと考えることが出来ます。地元の出版社が数年おきに更新を加えて刊行を続けていた絵図の各版に共通して「宮城野そば」が記されていることから、「宮城野蕎麦」は「八版」が刊行された昭和5年頃には引き続き宮城野の地で健在だったと解釈できます。
以前の記事では箱根の交通事情の変化で宮城野蕎麦が衰退している可能性を考えていましたが、これらの資料の存在から見ればそれは正しくなく、単純にその頃の資料を見つけ損ねていただけということになりそうです。
但し、今回見つかった資料から宮城野蕎麦の存続した時期を特定可能であるかと考えた際には、今回ヒットした結果のみで判断できない問題があります。明治から大正の頃の資料では、先行する資料と明らかに酷似した文章が掲載されているケースが少なくありません。他の文献をそのまま引き写して終えている資料の場合は、果たして実地の取材を経ているのか疑わしいことになるため、その時期まで存続したことを示す史料としては採用しにくい側面があります。最低でも凡例や序文などに編集方針がどの様に記されているかを確認しながら取捨選択し、他の史料との矛盾が出て来る場合は年代特定のための史料としては採用しない判断が必要です。
今回ヒットした資料中、最も年代が新しかったものは「鄙びた湯・古い湯治場※」(渡辺寛 著 昭和31年・1956年 万記書房刊)で、
と宮城野蕎麦がこの頃までに廃止されたことを伝えています。廃止されたことを伝える資料は今のところ他に見つかっていませんが、これを最後に「宮城野蕎麦」の名を記す資料が見当たらないため、遅くともこの頃には作られなくなっていた可能性が高いと考えられます。宮城野蕎麦がおいしかつたが今はつくつてくれない。
それに対し、この次に年代が新しい「温泉案内※」(運輸省観光部 編 昭和25年・1950年 毎日新聞社刊)では木賀温泉の名物として「宮城野蕎麦」の名が挙げられていますが、その「例言※」を見ると、
と、必ずしも実地の取材を主としていないこと、元にした版が10年前のものであることを書いています。こうなると、この「温泉案内」に記されている事実が全て出版年の昭和25年のものと言い切れるか疑わしくなってしまい、「宮城野蕎麦」もこの頃まだ存続していた裏付けとしては使えないことになってしまいます。その前の資料は昭和14年(1939年)まで遡るため、この辺りの年代の資料の点数は必ずしも多いとは言えません。これらのことから、今回の検索結果からでは「宮城野蕎麦」の廃止された時期の特定は出来ないと判断せざるを得ませんでした。一、本書は大正九年の初版以來版を重ねた、鉄道省編纂「溫泉案内」を改版したもので、これによつて日本の重要な観光資源の一つである全國の溫泉をあまねく紹介するものである。
一、改版に当つては、昭和十五年の最終版をもとゝしたが、その後全國的に大きな変動があつたので、内容は殆ど全面的に書き改め、挿入の地図、カットも新規に描き直し、写眞は最近撮影のものを掲げた。
…
一、改版の資料は、当該地方からの報告を主とし、一部実地調査によつてこれを補つたが、なお遺漏なきを保し難い。これは資料收集後の変動等と共に、大方の示教を得て、他日の完璧を期したい。
一方、箱根の蕎麦については必ずしも「宮城野蕎麦」の名前が使われているとは限らないので、他のキーワードでも検索を試みることにしました。しかし、「箱根」にしても「蕎麦」にしてもあまりにも一般的な単語過ぎて、全文検索では膨大な件数の資料がヒットしてしまいます。もう少し件数を絞り込むために使えそうなキーワードとして、蕎麦を供する店の名前として登場した「洗心亭」を含め、「洗心亭 箱根 宮城野」で全文検索を試みたところ、全部で269件の資料がヒットしました(うち「国立国会図書館内限定」資料が48件)。
もっとも、「洗心亭」はかつての赤坂離宮の庭園に存在した四阿の1つにも名付けられていたのをはじめ、全国各地に旅館や庭園の四阿などの同名の施設が存在しました。江の島とその対岸の片瀬「すばな通り」沿いにもかつて「洗心亭」という名の旅館があり、ヒットした資料の中にもこの旅館の記事が複数見つかりました。一方の「宮城野」は仙台方面の地名や相撲部屋とも重なる名称です。このため、この269件には箱根の蕎麦店に関する記述がないものが大半を占めました。この様に、指定しようとするキーワードがこれから調べようとする対象物を必ずしも一義的に指すものではない場合は、それらを複数組み合わせても関連のない資料が多数ヒットしてしまいます。検索するキーワードをどの様に選定するかは、ある程度意に沿った検索結果を得る上でのテクニックということになりますが、今回は多少多めにノイズを拾う結果になっても広めに検索結果を得る方を選択しました。

(大正10年・1921年 日本名所案内社)
に掲載された広告
(「デジタルコレクション」)
もっとも、本文中ではそもそも近郊の温泉を含んだ名所の記述はごく僅かで、箱根の名物についての記述さえ見られません。今回の検索で「洗心亭」の広告をヒットしたのはこの1件のみで、特に積極的な広告戦略を採った様には見えないお店が、何故自分の店について特に何も書いてくれない書物に敢えて広告を出稿することを決めたのか、意図を掴みかねる1冊でもあります。
一方、「桂月全集 第12巻 詩歌俳句書簡雑篇※」(大町桂月 著 大正12年・1923年 桂月全集刊行会)に掲載された大正11年5月24日の書簡の中では、
と記されています。御殿場より自働車を呼び長尾峠を越えて箱根山中に入り候。實は長尾峠より富士を望むが主眼なりしが、雲の爲に見えず失望いたし候。あとは附屬的也。ケーブルカーに乗り、歸路宮城野の洗心亭に小酌いたし候。同行は小笠原松次郎氏、長男芳文。
「小酌」と書くことから、この席では当然お酒が出て来たものと考えられますし、蕎麦だけではなく酒に合う料理も出されたものと考えられます。この頃には洗心亭が必ずしも蕎麦だけを商う店ではなくなっていたことが窺い知れます。
また、「靑年敎育研究 第2卷第9號※」(靑年敎育研究會編 昭和8年・1933年9月)所収の「文部省主催兒童生徒校外生活指導講習會に就いて(靑年敎育課)」では、同年の8月10〜19日に、宮城野小学校を会場、対岸の洗心亭を宿舎として講習会を催したことが記されています。後方のページでは「夜間の研究協議會(洗心亭にて)※」 とキャプションを付した写真が掲載されており、洗心亭内のかなり大きな広間で会合を催している様子が写っています。この写真から、当時の洗心亭がかなり大人数を収容できる広間を擁していたこと、更に「宿舎」という表現から宿泊施設を備えた料亭の様な営業形態へと変化していたことが窺えます。宮城野の地で商いを継続するための経営努力の結果と見るべきでしょうか。
箱根の宮城野にあった「洗心亭」についての記述が見られる資料は、今回の検索で見つけることが出来たのは以上の3点でした。上記の通り、検索に指定するキーワードで充分に資料を絞りきれていない中での結果ですので、引き続き他のキーワードなどで検索を試みる価値はありそうです。
因みに、箱根の蕎麦の存続期間を探るために別のキーワードで検索を試みてヒットした資料の中に、「日本山岳案内 第6集※」(鐵道省山岳部 編 昭和16年・1941年 博文館)があり、その「木賀温泉」の項に
と、「洗心亭」以外に箱根で蕎麦を供していた旅館の名前が登場します。「宮内旅館」自体は明治初期の資料から木賀温泉の旅館として名前がしばしば登場していることが確認できましたが、この旅館が蕎麦を出していたことを記しているのはこの資料のみです。一方でこの資料の「宮城野より明星ケ嶽を經て明神ケ嶽※」の項でも宮内旅館があり蕎麥が名物である。
とやはり蕎麦を名物として取り上げています。これも、太平洋戦争開戦直前頃の事情を適時的に反映したものと言えるかは、更に他の資料と照合して確認する必要があります。宮城野は裏街道の宿場で蕎麥が名物である。
今回の「デジタルコレクション」の検索で新たに見つかった一連の資料からは、箱根の蕎麦がこれまで私が想定していたよりも長きにわたって存続していたことがわかりましたが、具体的に何時頃まで存続したのか、またどの様な事情で消失へと向かったのかを理解するのに繋がる資料は見つかりませんでした。無論、今回の限られた検索の試みだけではまだ見つけ損ねている資料があるかも知れませんし、そもそも郷土史の史料に関する記述が国立国会図書館の蔵書だけで網羅される訳でもありません。寧ろ、今回の結果を更なる史料の探索の手掛かりとして考えるべきなのでしょう。
なお、今回取り上げる予定だった題材については、次回こそ記事にまとめられればと思っていますが、まだ作業量が多く、もうしばらく時間が必要かも知れません…。