今回は前回の「馬入橋」を受けて、「酒匂橋」を取り上げることにしました。酒匂橋につては馬入橋ほどに落橋を繰り返した記録は残っていないものの、明治から大正にかけての経緯については更に探すべき史料が存在する可能性も感じているからです。
酒匂橋 | 酒勾橋 | 馬入橋 | |
---|---|---|---|
明治1〜10年 (1868~77年) | 0件 | 0件 | 0件 |
明治11〜20年 (1878~87年) | 0件 | 0件 | 4件 |
明治21〜30年 (1888~97年) | 5件 | 5件 | 7件 |
明治31〜40年 (1898~1907年) | 19件 | 7件 | 23件 |
明治41〜大正6年 (1908~1917年) | 29件 | 7件 | 9件 |
大正7〜昭和2年 (1918~1927年) | 42件 | 23件 | 37件 |
ヒットした資料の出版年が早いのは馬入橋の方ですが、その後の件数の伸びという点では、「酒匂橋」と「酒勾橋」を足した件数の方が多くなっています。OCR精度の課題はありますので、この件数も多少の誤差はあると考えられますが、それぞれの検索キーワードに対して誤差が同じ様に出ると考えると、件数の分布の傾向については大筋でその通りに読み取って良いのではないかと思います。
ヒットした資料を点検して見えた傾向からは、「酒匂橋」や「酒勾橋」のヒット件数が「馬入橋」より増えた最大の要因は、文芸作品での登場回数が意外に多いという点にある様です。中には単に酒匂橋を通過したことを記す程度のものもあります(「千歳之鉢」泉鏡花著 「柳筥」所収 明治42年 春陽堂、「箱根撮影記」田山花袋著 「花袋紀行集 第1輯」所収 大正11年 博文館 など)。しかし、酒匂橋周辺の景観を愛でるものも少なからず見つかります。こうした事例から数点引用してみます。
電車は動き出した。停車場の側から大迂廻して國府津館の前に出ると、それからは軒の低い小さな家ばかり並むだ狹苦しい町を通ッて、二條の軌道を走ッて行く。酒匂橋の處まで來ると、急に四邊が濶けた。左には相模の海が眞近に漂ふて居る、右には箱根の連山が畑田を隔てゝ峙えて居る。寒い筈だ、孖山の巓には雪が化粧して、それより高い山々は凍雲に藏まれて居る。
(「唯一人」柴田流星 著 明治42年 左久良書房 243ページ)
春月や歩めば長き酒匂橋 ルイ笑
(「春月(募集俳句其一)※」から 「ホトトギス」第12巻第7号 明治42年 ホトトギス社 所収 74ページ上段後ろから4行目。なお、「袖珍新俳句※」(有田風蕩之 (利雄) 編 明治44年 博文館)に同じ句が掲載されている(52ページ後ろから8行目)。)
酒匂橋近くなりて、相模の山々に雪白く積りたるを
酒匂橋わたるたもとにかゝりけり
さがみの山のゆきのしらゆふ
(「御めぐみの雨※」弘田由己子著 「わか竹」第8巻第4号 1915年4月 大日本歌道奨励会 所収 50ページ)
國府津から小田原への一里半は、三四の部落(半農半漁)と松並木とが交錯して、又異つた趣を見せてゐる。酒匂橋上の眺望は、すでに定評があるから說かぬ、月明の松の葉越しに富士を眺めて、星と漁火との文目もないなどは、興趣油然たるを禁ずることができぬ。然しカメラマンとしては橋上の眺望よりも、此の橋を主人公としての構 に手腕を揮ふべきであらう。それは左岸、乃ち酒匂の方からするが好い、海岸に三脚を立てゝ山を背景とし、或ひは土手から海を背景として白帆を添景する、何れにしても對岸の橋の裾に大きな松(東海道の並木)があつて、構圖を引立てゝくれる。
(「東京近郊寫眞の一日」松川二郎 著 大正11年 アルス 94〜95ページ、強調及び傍注はブログ主)
(ストリートビュー)
これらの文芸作品での表現から、この頃には酒匂橋近辺が観光の拠点として機能していた様子が見て取れます。また、「花(二)※」(眞下喜多郎著 「ホトトギス」第27巻第8号 大正13年 ホトトギス社 所収 26〜30ページ)では、松濤園に滞在しながら周辺を散策する中で、ちょうどコンクリート橋に架替工事中だった酒匂橋の様子が伝えられています。

(歌川広重 - ボストン美術館,
パブリック・ドメイン, Wikimedia Commonsによる)

(歌川広重 - ウィキメディア・コモンズはこのファイルをメトロポリタン美術館プロジェクトの一環として受贈しました。「画像ならびにデータ情報源に関するオープンアクセス方針」Image and Data Resources Open Access Policyをご参照ください。,
CC0, Wikimedia Commonsによる)
酒匂の周辺が眺望スポットであることを記した江戸時代の紀行文などは、私が知る限りでは見ていません。大磯宿から小田原宿にかけては間が4里と他の区間に比べて距離が長い上に、渡し場で時間を取られる、小田原を箱根越えに備えて宿泊地とするケースが多いことから日没近くにこの区間を通行することが多いなどの要因が重なって、風景を愛でるほどの時間の余裕が乏しいことが理由として考えられそうです。
しかしながら、歌川広重が最初に保永堂版「東海道五十三次」で小田原を描く際には、酒匂川の渡しを俯瞰しながら遠方の箱根方面の山々を描く構図を採用しています。以後広重が東海道を繰り返し描く中で、「行書版」「隷書版」「双筆五十三次 (広重と三代豊国との合作)」「人物東海道」「東海道風景図会」の計6作品で、酒匂川の渡しと箱根の山々を描く構図を採用しています。広重が何故小田原の風景としてこれほどまでに酒匂川の渡し場に拘ったのか、その理由については詳らかにされてはいません。しかし、時代が下って酒匂橋付近からの眺望が愛でられる様になったことと併せて考えると、あるいは広重もこの眺望に惹かれて酒匂川の渡し場の風景を描き続けたのかも知れません。
「酒匂橋」や「酒勾橋」でヒットした資料の中には、「馬入橋」で見られた「官報」が含まれていないことが1つの特徴です。このことは、酒匂橋の損傷や落橋の報告が、馬入橋の様には中央政府に上がっていないことを意味しています。これまで私が調べた範囲でも、酒匂橋は馬入橋ほどの損傷を受けた記録があまり出て来ない傾向がありました。「デジタルコレクション」のヒット結果も、ある程度この傾向を裏付けていると見ることが出来ます。
その主要な要因と考えられるのが、明治20年頃からの箱根登山鉄道の前身に当たる「小田原馬車鉄道」の敷設、更に「小田原電気鉄道」への更新です。委細はこちらの記事で検討しました。継続的な収入を見込める鉄道事業が架橋や修繕の費用を応分に負担していたことが、酒匂橋の維持に少なからず貢献していたのではないかということです。

「酒勾橋」
撮影年は不明だが
小田原電気鉄道開業後の明治33〜44年に絞ることは出来る
写真帖では「勾」表記だが親柱は「匂」である様に見える
(「デジタルコレクション」より該当箇所切り抜き)
ここではまず「◯橋梁ノ支持力計算※」(290〜291ページ)の項で10トンと想定されている電車の重量に耐えられる橋桁の太さが見積もられています。続く「◯橋梁の材料」(291ページ)では橋に使用する木として「
槻、杉、栗、松」が使われた箇所が具体的に記述され、更に橋台に使用された石材の寸法などが仔細に記されています。そして、「◯橋梁ノ數及小橋架設法一斑※」及び「◯各橋の幅員」(292〜293ページ)で、酒匂川の川幅が「
百九拾六間」(約356m)であること、酒匂橋は「
長千百七拾六尺杭木三本建四十八枠高水中沼入共貳拾尺橋台鏡通上口拾貳尺高拾八尺敷拾六尺妻手上口四尺高拾八尺敷六尺砂利止石垣妻手共長拾九尺高一尺七寸」と大きさが仔細に記されています。
更に「◯其架設費」(293〜294ページ)で酒匂橋の架橋に「
金七千貳百九拾四圓六拾一錢五厘」を要したことが記されていますが、全21橋の架橋に「
金三萬貳千八百六拾五圓五拾三錢四厘」を要していますから、酒匂橋がその22%を占めていること、更に「◯增資確定、社名改稱、並ニ工事進行※」(264〜265ページ)で増資額が「
四拾壹萬五千圓」とされていることから、橋梁工事全体で増資分の8%ほどを費やしていることになります。
当時はまだ自動車が走っていたのは東京や横浜のごく限られた地域のみでしたから、電車が橋梁に掛ける荷重は当時橋を渡っていく人馬などに比べて桁違いの重さを掛ける唯一の存在であったことになります。更に橋上に鉄路を敷設したり架線柱を設置する必要があるので、その分も橋に掛ける荷重に加わることになります。こうした状況への対処のために、小田原電気鉄道がその敷設に当たって酒匂橋をはじめとする各橋の架設にかなり重点的に労力を割いた実情が、この資料でかなり明らかになると思います。
もっとも、その後も度重なる水害で酒匂橋も損傷を受け、都度修繕に追われていたことはこのブログでも取り上げました。その様子の一端を伝える文章も、「デジタルコレクション」の全文検索で新たに見つかりました。
酒匂橋の富士、足柄野、箱根の山と、眺望は種々に動く、橋は今夏の洪水で危く流失せんとしたのを丸太や板で膏藥繕ひをしたままである。向岸は流れたので架け代へたものの是れも假りに一時と云つた風である流は淸く石は白し。
(「東海道名所探訪記※」眞山靑果著 「学生文藝」第二巻第五号 1911年 聚精堂 所収 36ページ、くの字点は適宜展開)
こうしたこともあり、架橋の費用については次第に神奈川県が負担する方向に傾いていきます。こうした動向について記した資料も新たに1点見つけることが出来ました。
彼の酒匂橋も昨年十一月、通常縣會で改修が議决になりましたに付まして、土地の靑年が戌申詔書の御趣意に基き、本縣知事の告諭の下に成立しました、勤儉事業の手始めに河床確定の爲め、土砂を利用して護岸設備に着手するとのことで一千内外の靑年が新年匆々の大活動と申す譯でござりますから幾分の興味もあらうと存じまするし。
(「新譯觀音經㈡※」勿用杜多著 「六大新報」第334号(明治43年2月6日)六大新報社 所収 11ページ)
なお、大正12年(1923年)には関東大震災が起こり、同年7月にコンクリート橋に切り替えられたばかりの酒匂橋も全損してしまいます。「デジタルコレクション」でも、この時期以降には震災報告書の類が急増しています。その中から、次の旅行案内記は震災後も景色の魅力を喪っていないことを記している点を汲んで1点のみ引用します。著者は上記「東京近郊寫眞の一日」と同じ人物です。
酒匂橋はコンクリート造りの白色の立派な橋であつたが、震災の爲に木葉みぢんに破壊せられて、今は工兵隊の架けた木橋で間に合わせてゐる、然し此の橋上の風光は尙捨てがたく、月明の松の葉越しに富士を眺めて、海上に星と漁火との文目もないなどは、興趣油然たるを禁ずることができない。旅館の松濤園は別荘風の建て方で松風と波のひゞきとが枕に通ふのがうれしい。
(「土曜から日曜 改版」松川二郎 著 大正14年 有精堂書店 27ページ、傍点は下線で代用)
ところで、上記で「酒匂橋」と「酒勾橋」のヒット件数を示しました。これだけを見ると、「デジタルコレクション」中ではそれぞれの漢字表記で個別に検索を行っているかの様に見えます。しかし、検索結果を追っていくと、実際は必ずしもその様にはなっていないことがわかります。



その1つの例が「箱根大観」(佐藤善次郎、森丑太郎著 明治42年 林初三郎刊)の中に見られます。ここでは「酒匂橋」で検索を行っており、「箱根大観」の検索結果にはOCRテキストの一部も表示されていることから、確かに「酒匂橋」でヒットしたことがわかります。しかし、該当箇所(6ページ)を見てみると「酒勾橋」の表記が「酒匂橋」と置き換えられたものであることがわかります。
OCRテキスト中で「酒匂橋」「酒勾橋」の表記をそれぞれ堅持すべきなのか、それとも「酒匂橋」に統一すべきなのかは、使い勝手という点では一長一短あることですので、一概に決められることでは必ずしもありません。しかし、蔵書全体をOCRで処理する前にどちらを選択するかをポリシーとして決めておき、そのポリシーに一貫して準拠して処理を進めるべきではあります。他の検索結果を見ると基本的には「酒匂橋」「酒勾橋」それぞれの表記個別に検索が行われている様に見えるものの、一部にそれと異なるポリシーで処理されたものが混ざっている様です。
何故この様な状況が起きているのかはわかりませんが、別の事例では明らかに誤植と思しき箇所を何らかの方法でOCR結果を修正したと思しき箇所も見つかっていることから、あるいはOCR結果をレビューして修正する過程でこの様な事例が紛れ込む結果になったのかも知れません。今のところ要訂正箇所の報告を受け付ける専用の窓口は引き続き設けられていませんが、こうした事例については折を見てOCRの精度向上に努めて欲しいところです。
もっとも、中には資料自体に明らかに誤植があるものを「正しく」直したと思われる例も見つかっており(「大筥根山」井土経重著 明治42年 丸山舎書籍部、「匃」の様な字が使われている)、この様な例も含めてどの様なポリシーを設定すべきなのかは、なかなか悩ましいものがあります。
次回更にもう1回、別の検索事例を紹介したいと考えています。
管理人のみ閲覧できます - - 2023年01月16日 09:40:54