この史料の「南足柄市史」上での表題は「219 慶応四年八月 関本村を関本宿と改称の願書」となっています。
(表紙欠)
乍レ恐以二書付一奉二申上一候
一当村人馬御継場之義ハ、先年駿・甲・信右三ケ国江之往来ニ而、登り者駿州竹之下村迄、箱根山続足柄山打越、四里拾六丁之大難所、下り者小田原宿迄、弐里弐拾八町之御継立仕候、 御朱印・御証文御方様并ニ諸家・御藩御荷物継立仕候程之義ニ付而者、中古格別之御通行茂無レ之、尤是迄諸御役方御通行之節ハ、隣村江相雇、助合人馬被二差出一、村名を以御伝馬御継立仕候、然ル処当今之御時勢ニ至り、日々御通行弥増罷在、東海道筋往還同様始末、村方人足ニ而ハ御継立不ニ相成一節ハ、前願申上候通り隣村相雇、御用人馬相勤メ、御定メ賃銭被二下置一候上ハ、聊道中筋ニ茂相振れ居り候義与申、往々夥敷御通上有レ之候上者、人馬御賄ニ付、近村助合雇立候ニ付而茂、宿名有レ之候ハヽ、猶亦近村へ之聞江茂宜敷、尤雇賃銀不足等之分ハ、是迄当村方減ニ罷在候程之義ニ付、御伝馬御用御差支不二相成一様仕度、既ニ重キ 御高札ヲも御建置被レ為レ遊候程之義ニ御座候間、何卒格別之以二 御憐愍ヲ一当村江宿名御歎伺申上候通り、 御聞召被レ為レ分、宿名 御免被二 仰付一被二下置一候様、御歎願奉二申上一候、右願之通り達二 御聞一被二下置一候ハヽ、小前一同私共迄難レ有仕合二奉レ存候、以上、
慶応四戊辰年八月
関本村
(「南足柄市史2 資料編 近世⑴」547ページより、返り点、傍注、変体仮名の扱いも同書に従う、巻末の用語解説への指示は省略)

大雄山最乗寺は関本の南西方向約4kmの山中
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
(ストリートビュー)
関本村(現:南足柄市関本・大雄町)はこれまで幾度かこのブログでも登場しましたが、矢倉沢往還が小田原からの甲州道と和田河原村で合流した先の台地の上に位置し、両往還の継立場となっていました。また、大雄山最乗寺への入り口に当たっており、参拝客の拠点となっていました。
この願書が書かれた慶応4年(1868年)という年は幕末も大詰めの時期に当たっていて、同年の4月には江戸開城に伴って徳川慶喜は謹慎となり、その後の会津戦争も8月には大詰めを迎えていました。そして、翌月8日には明治に改元することになります(以上何れも旧暦)。以下で示す様に関本村も次々と官軍関係者が通行する状況を目の当たりにしていますから、これまで長年培われてきた社会が大きく変動しようとしている様子を肌身で感じている最中に、この願書が書かれたことになります。
関本村にはこの様な状況下で、東海道に匹敵するほどの継立の負荷が発生したこと、そしてその過大な負荷に対応するべく、周辺の村々から助郷を調達して必要な人足を充足したことが、この願書には記されています。実際、慶応4年には足柄峠を越えてくる戊辰戦争の官軍関連の通行が急激に増えたことが、関本村の隣の継立場である苅野一色村(現:南足柄市苅野の一部)が翌明治2年にまとめた「継立人馬日締め帳」に見えています。
辰三月廿七日
一人足四人 御下り 関本村迄但壱人ニ付百三拾壱文五分
此賃銭五百三拾文/増賃銭五百六拾六文/御先触持人足壱人/増賃銭弐百文
御総督御内/雀部八郎様
右同断
一人足四人 御下り 関本村迄但壱人ニ付百三拾壱文五分
此賃銭五百三拾文/増賃銭五百六拾六文
肥後御藩中/岩男内蔵允様
右同断 御下り
一人足拾弐人 右同断
此賃銭壱貫五百九拾文/増賃銭壱貫七百六文/御先触持人足壱人/増賃銭弐百文
肥後御藩中/近藤左助様/仁保達三郎様
辰三月廿七日 御下り
一人足六人 関本村迄但壱人ニ付百三拾壱文五分
此賃銭七百九拾三文/増賃銭八百五拾壱文/御先触持人足壱人/増賃銭弐百文
御官軍御用/名倉千之様/川村周八様
…
辰三月廿九日 御下り
一人足九人 関本村迄但壱人ニ付百三拾壱文五分
此賃銭壱貫百九拾弐文/増賃銭壱貫弐百七拾六文/御先触持人足壱人/増賃銭弐百文
御官軍御賄御用/柴田権次郎様
御手代/須田宇助様
(「南足柄市史3 資料編 近世⑵」482〜484ページ、以下の同書からの引用も含め返り点、傍注、変体仮名の扱いも同書に従う、「辰」は慶応4年を指す、一部改行を「/」に置き換え、「…」は中略、強調はブログ主)
これを受けて、東海道の宿場同然に関本も「村」ではなく「宿」を名乗り、高札などの施設を宿場に相応しいものに整備することを許可して欲しいというのが、この願書の趣旨です。
考えようによっては、関本村は一時的とは言えこの負荷を捌くために必要な人足の手配を「村」を名乗ったままでも行い得ている訳ですから、宿場を名乗れないことが継立を運営する上での制約となったとは必ずしも言えません。その点では、この願書はいささか行き過ぎたことを願い出ている様にも見えます。それでも関本村がこの機に乗じて「宿」への格上げを願い出ようと考えた背景として、ある近隣の村々とのトラブルが思い当たります。

(「南足柄市史6 通史編Ⅰ」ページより)
流石にその様なトラブルがあることを願書に直接書く訳にはいかなかったと思いますが、この機に「関本宿」を名乗ることが出来れば、あるいは「峰通り」を続けている近隣の村々に対しても、それなりに牽制となるのではと考えたのかも知れません。無論これは推測の域を出ないことではありますが、あるいは宿場という「箔が付く」ことで、近隣の継立場も勝手な判断をしにくくなるかも知れない、あわよくば罰則を課して歯止めをかけられるかも知れないという思惑が、「願書」の端に見え隠れする様にも思われます。
しかしながら、この「願書」には日付はあってもその「宛先」が記されていません。何しろ幕府が倒れてしまった直後ですし、まだどの様な政治体制が採られるのかもわからない中では、これまでの様に小田原藩に送り届けてももはや意味はなかったかも知れません。と言って、1つの村の願書を受け付けてくれる役所の様な組織がどうなるのかも不明な時期とあっては、これを何処に提出したものか、わからなかったのではないかと思われます。従って、この願書は何処にも提出されることなく、下書きのまま手許に措かれていた可能性も考えられます。表紙がない状態というのが本来あった表紙の跡が見えているのかどうかは不明ですが、下書きであったとすれば元からその様なものがなかったのかも知れません。
実際のところ、関本「村」がその後関本「宿」となったことを示す史料はありません。上記の苅野一色村の締め帳は願書の翌年に書かれたものですが、この中でも「関本村」と記されています。一方で、関本村の積年の悩みの種だった「峰通り」の問題は、明治5年(1872年)になって5年前には思いもよらない形で決着を見ることになります。「南足柄市史」上で「陸運会社設立に伴う峰通りの通行公認書」と表題を付けられた次の史料が、その結末を現在に伝えています。
為二取替一申一札之事
一今般郵便陸運枝道御開ニ相成候ニ付、私共村々江御開御免許願立候処、字嶺道与唱候間道通路いたし候より彼是差縫、然ル処平塚駅周旋人立入取扱ヲ以、両村示談行届合村いたし候、然上者双方共故障無レ之御願通被二 仰付一、双方共聊申分無二御座一候、依レ之後年ニ至り異論無レ之証書与して和熟対談左之通、
郵便陸運 関本村江被二 仰付一候、
陸運会社 矢倉沢村江被二 仰付一候、
陸運会社 神山村江被二 仰付一候、
一矢倉沢村より神山村合村町屋江通路間道往復之儀者、全便利之地故、旅人之頼ニ依而継立方取急候節者、則間道附通し、刎銭与して荷物壱駄ニ付銭五拾文充、両村より関本村江差出可レ申候事、
一間道筋旅人歩行立ヲ以通行致候者者、矢倉沢村より手心ヲ以、関本村江之往来通路之儀心附いたし可レ申事、
一関本村より曽屋村通、継通し之節、神山村合村町屋継場之廉ヲ以、往返共口銭差出可レ申、尤荷物壱駄ニ付何程与相定メ候義者、駅々議定通差出可レ申事、
一此度示談行届合村いたし候上者、両村境界内人馬口銭相互ニ取遣いたし申間鋪候事、
右之通取極仕為二後証一為二取替一一札差出申処、仍而如レ件、
明治五申年六月
足柄上郡/矢倉沢村/百姓代/桜井善左衛門(印)/組頭/桜井小左衛門(印)/名主/田代五郎左衛門(印)
神山村/百姓代/北村六右衛門(印)/組頭/北村源左衛門(印)/名主/田中六左衛門(印)
神山村合村/組頭/竹内半七(印)/同/竹内四郎左衛門(印)
前書之通立入取扱申候ニ付、依レ之奥印いたし候、以上、
東海道平塚駅/枝道周旋方取扱人/加藤新兵衛(印)
関本村/御役人中
(「南足柄市史3 資料編 近世⑵」487〜488ページより、署名の改行は一部「/」にて置き換え、日付との位置を調整、強調はブログ主)
この史料の中でも引き続き「関本村」と書かれていることからも、5年前の願書に記された「昇格」はついに果たされることはなかったことがわかります。一方で、江戸時代以前から長距離の陸運を担ってきた「継立」の制度が新政府の下で「陸運会社」として改組されることになり、関本村も周辺の継立村共々新たな会社制度の免許を出願して無事認められています。そして、平塚駅の執り成しの下で「峰通り」問題の解決が図られ、この近道を使った場合には刎銭として荷物1駄(馬1頭分の荷物)に対して50文づつを関本村に支払うことなどの条件で合意を得ることが出来ました。
慶応4年時点で願書の草案を練っている際には、5年後に継立制度そのものが無くなってしまう未来など、草案の主はもちろん、「峰通り」問題に関与する村々の誰も全く予想だにしなかったでしょう。その様な中で作成されたこの願書は、江戸幕府から明治政府へと社会全体が変わっていこうとする中で、村の措かれた役割がどの様になっていくのか見えにくくなりつつも、その地歩を少しでも確保しようという動きが垣間見える史料であると言えるでしょう。