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「七湯の枝折」の「産物」:神習文庫本とつたや本の比較

今回は前回公開した「七湯の枝折」(以下「枝折」)の「神習(かんならい)文庫本」の産物一覧を受けて、「つたや本」との比較で気付いたことを挙げてみます。

その前にまず、「神習文庫本」についてもう少し掘り下げてみます。「枝折」の草稿とされるものがどうして無窮会神習文庫に収められることになったのでしょうか。「七湯の枝折」(沢田秀三郎釈註 1975年 箱根町教育委員会)の解説では「神習文庫本」について次の様に触れています。

従って研究というものも更になく、ようやく昭和年代に故金沢支庫長関靖博士が曙光を投ぜられたにすぎない(箱根七湯の枝折を訪ねて、神奈川文化箱根特輯号昭和十五年)。

箱根町は関博士が認定した著者浄書本を同町重要文化財に指定した、所謂「つたや本なな湯の枝折」がこれである。当時の私の解説を同町長沢教育長の許可を得て引用すると(箱根の文化財第二号昭和四十二年)―今より一五〇余年前の昔、文化八年(一八一一年)に成った「七湯の枝折」は江戸期箱根七湯の案内書中の自眉とも言うべきもので、書写本も少くない。故金沢文庫長関博士が発見された無窮会神習文庫本所蔵の一本は、これが草稿本と目されるもので、現在でも健在の由である。

(上記書3ページ、強調はブログ主)


ここで紹介されている雑誌「神奈川文化」中の関靖氏の文章から、特に「神習文庫本」について記されている箇所を拾い上げると、

この神習文庫珍藏にかゝるものは、井上賴圀博士の舊藏であつて、而かも是が著者の草稿本であることも知り得た。

前にも述べた通り同文庫の目録によると、『箱根熱海温泉名勝圖繪』、一卷附圖九本、齋藤縣麿自筆一冊九軸』と載せてあるが、之は「箱根七湯栞」を齋藤縣麿自筆の「温泉名勝圖繪」の附圖と看做した爲めの誤りであつて、實はこの一冊と九軸とは別のものである。…

然し博士の舊藏にかゝる「箱根七湯栞」は、十卷十軸の内、その第五卷の宮の下部の一軸を缺いてゐるのが遺憾であるが、その文章や繪圖が澤山に訂正されてゐる點、それを淨書する上の注意書が諸所に挿入されてゐる點、紙背に澤山の見取圖が書寫されてゐる點などから、この九軸は弄花と文牕の草稿本であることが確認され、之こそ「箱根七湯栞」中一番貴重なものであることを認めた。

每卷、首に「井上頼圀藏」「井上氏」の外に「無窮會神習文庫」の朱印が捺してある。

神習文庫にあるものが、その草稿本であることは動かない所であるが、筆者は之を淨書する場合に、その稿本通りに書寫することをせずに、書寫每に多少の新機軸を加へたり、圖柄の上にもその人物の形態やら數やらを變へて描いたものらしい。だから二つの系統の間には、その記載事項の順序や題名の變更があり、その繪圖の上にも取捨選擇された跡が見えるのである。跋文に「遊鷗」の署名が第二系に屬するものに見えるのもその結果であろう。

(「「箱根七湯栞」を訪ねて」關 靖、「神奈川文化 十二月號・箱根特輯号」神奈川縣文化研究會 所収 5、6、11ページ、「国立国会図書館デジタルコレクション」より(図書館・個人送信資料)、「…」は中略)

「神習文庫本」の旧蔵者として「井上頼圀」の名前が挙げられています。

Inoue Yorikuni.jpg
井上頼圀肖像
(不明 - 『明治肖像録』、
明治舘、1898年。
国立国会図書館
デジタルコレクション:
永続的識別子 1086063,
パブリック・ドメイン,
Wikimedia Commons
による)
井上頼圀は天保10年(1839年)生まれの幕末から大正にかけての国学者です。この人物の蔵書が無窮会の文庫に収まるまでの経緯については次の様な証言が残っています。

同図書館(ブログ主注:無窮会図書館)の林正章氏(賴囶門人田邊勝哉の門下生)は大正四年四月半蔵門の賴囶宅から書籍を運んだ一人で、…たまたま賴囶の蔵書が売却に出たのを同人(平沼騏一郎、河村善益、秋月左都夫ら)が皇道闡明の資に供せんと無窮会を組織して、大正四年四月、三万四千九十六冊、百九十八折、二十八帖、三十六軸、九百三十四枚の蔵書を購入、平沼邸の傍らに会館及び書庫を建て、五年七月完成、賴囶の斎号をとって神習文庫と称した、と当時の模様を語られた。

(「近代文学研究叢書 第十四巻」昭和女子大学近代文学研究室 1959年 465ページより、「…」は中略)

つまり、神習文庫の母体となったのが頼圀の蔵書であった訳です。

文窓や弄花が「枝折」を著したのは文化8年(1811年)ですから、その頃には頼圀はまだ生まれていなかったことになり、後年に頼圀の手許に「枝折」の草稿が渡ったことになります。が、訂正箇所の散見される状態で明らかに草稿であることが見て取れる状態の軸物が、何故頼圀の手に渡ったのかは今のところ不明です。

「枝折」が俳諧に通じる側面を持つことについては以前分析しましたが、国学者である頼圀がその様な地誌に興味を持ったとしても不思議ではありません。実際、「近代文学研究叢書 第十四巻」には頼圀の著作の一覧が掲載されていますが、その中には自身の和歌を含め、歌人などに関する著作も複数含まれています。しかし、そこに見られる著作の表題から判断する限り、頼圀が箱根や温泉を掘り下げて研究した痕跡は見当たりません。その様な人物が、「枝折」の草稿のみを単発で買い求めたと考えるには、そこにどの様な動機があったのか測りかねる面があります。

むしろ、頼圀の蔵書が一括で買い求められて文庫の根幹になったのと同様に、頼圀が別の人物の蔵書を一括で購入した中にたまたまこの草稿が含まれていたと考えた方が自然です。となると、蔵書の全部ないし一部を、直接にせよ間接にせよ、一括で受け渡しする様な何らかの関係が文窓や弄花と頼圀の間にあった可能性があるということになります。

頼圀が収集した蔵書はその過程で火災などに遭って一部が失われていますので、最終的に神習文庫に入った蔵書がその全てという訳ではないのですが、上手くすれば、それらの蔵書の中に、現在委細が不明のままになっている文窓や弄花のプロフィールを探る手掛かりがまだ残っているかも知れないという期待も感じてしまいます。



先程の関靖氏の文章にもあった通り、「神習文庫本」から「つたや本」の清書が作られる際には、「神習文庫本」の文字を「つたや本」に一字一句書き写したのではなく、各巻の構成や記すべき内容のあらましを「神習文庫本」の上で一通りまとめた上で、改めて「つたや本」を書く際には「神習文庫本」を脇に置きつつ改めて文言を選び直しながら書いていった跡が見られます。それは「産物」の一覧でも同様であり、取り上げられた産物は1点を除き共通で、その並び順も多少の入れ替えはあるものの大筋では共通ではあるのに対し、文言は基本的には同様のことを語りつつも細部は異なる言葉に替えられています。「神習文庫本」は「つたや本」を清書する前の言わば「筆馴らし」であったと言えるのかも知れません。

草稿をそのまま清書として書き写さず、改めて文章を起こしていく様な手法で、10巻にも及ぶ大冊を短期間に仕上げてしまったことからも、文窓や弄花が「枝折」の様な地誌をかなり「書き慣れて」いたことが窺えます。この点は以前にも指摘したことがありますが、この草稿もその点を裏付ける存在と言えます。

「神習文庫本」に取り上げられた項目のうち、「つたや本」では唯一省略されたのは根府川の「飛石」です。根府川石をはじめとする足柄下郡の石については以前「新編相模国風土記稿」の足柄下郡の石に関する記述を見ていった際に取り上げました。その中でも根府川石の現在の用途の中に飛石も含まれていることを記しましたが、「神習文庫本」が項目として「飛石」と書いたのは、「枝折」が編纂された頃には既に飛石として切り出されることが多くなっていたことを示しているのかも知れません。

とは言え、箱根外輪山の麓に位置し、当時は関所も設けられていた根府川に、箱根七湯に滞在する宿泊客がわざわざ訪れたことを記す道中記や紀行文には、今のところ私はお目にかかったことはありません。「玉匣両温泉路記(たまくしげふたついでゆみちのき)」(原 正興 天保10年・1839年)の様に熱海と箱根の両方に訪れる場合には、小田原と熱海の間で根府川を経由することにはなるものの、基本的には関所越えの地として認識されることが殆どで、「玉匣両温泉路記」でも

「道おくれたりけん」と急ぎゆくに、祢府川(ねぶかは)(根府川)村にいたる。

茶うる家にて休。光興ぬしもかごより下りて取つくろひ、御関所へ行て切手を出し通る。前後にかぶ(冠)木門有。右に番所あり。藤丸に大字の紋の幕打たり。小田原の(さと)しろしめす殿(大久保氏)よりかためさせ給ふ也。関もる人は多くも見えず。前に唐銅(からかね)鉄炮(てつぱう)五挺、台にすゑて有。百目筒と見ゆ。

(「江戸温泉紀行」板坂 耀子編 1987年 平凡社東洋文庫472 145ページより、ルビも同書に従う、編者による章題は省略)

と、関越えの前に茶屋で休憩をとった以外には特に立ち寄る場所もなく先に進んでいます。

こうした状況を考えると、根府川の産物を箱根七湯の地誌に含めるのはあまりにも関連が薄過ぎます。文窓や弄花が当初根府川の「飛石」を項目として加えようとした理由は定かではありませんが、最終的に外したのは恐らくは箱根との関連の希薄さを考慮してのことでしょう。

一方、「神習文庫本」と「つたや本」の個々の記述を仔細に確認すると、その違いには単に文言を練り直しただけではない検討がなされた痕跡が散見されます。「神習文庫本」にはなく「つたや本」には見られる記述が含まれている項目を拾い出すと次の様になります。
  • 箱根草

    「茎ハむらさきニしてひとへに張かねのごとく」

  • 一輪草図

    「此草ハ一茎一葉一花なり花形白梅のことく少しく青色ありて花ひら委ことくかゝえひらく」

  • 釣鐘躑躅

    「是も又芦湯ニ多し」

  • 湯の花

    「他國ニくらふれハ此所の湯花白甚タ白し功能硫黄ニ似て少し異なり湿瘡ニよし湯本臺の茶や辺ニて是をあまた見せ先ニひさく」

    ※「神習文庫本」の該当項目が断片的であるため、ほぼ全面的に書き足されている

  • 山梨

    「或ハ硯ぶたの取合ニつみて面白きもの也」

(「七湯の枝折」沢田秀三郎釈註 1975年 箱根町教育委員会 68〜72ページより適宜抽出)


特に「箱根草」や「一輪草」は「神習文庫本」では見られなかった草の姿の仔細な記述が書き加えられています。あるいはこれらの草の標本が「つたや本」清書時にも引き続き手許にあり、それらを見ながら新たにこうした記述を書き足した可能性もありそうです。「神習文庫本」の翻刻を掲載している「企画展図録 七湯枝折」(箱根町郷土資料館 2004年)では絵図が省略されており、「つたや本」と絵図の比較を行うことが出来ていませんが、文章と同様に絵図も草稿を下図として使うのではなく、改めて手許の標本を見て描き直したのかも知れません。

また、「湯の花」や「山梨」の記述の増え方からは、「神習文庫本」から「つたや本」の間に文窓や弄花が更に取材してきたものが書き足された可能性が考えられます。その点で、「神習文庫本」が記されてから「つたや本」に取り掛かるまでの間には、追加の取材のために何日か措いているのかも知れません。

もっとも、「禽獣類」の項を検討した際に「神習文庫本」と「つたや本」では挙げられた禽獣類に若干の差し替えがあることを指摘しました。こうした根本に関わる記述の変更が、「䱱魚」つまり山椒魚の項に見られます。
  • 神習文庫本(103ページ):

    「男子にハ女魚を用ひ、女子にハ/男魚ヲ用ゆ、」

  • つたや本(68~69ページ)

    「但し男子にハ雄魚を用ひ女子にハ雌魚を服さしむ」


草稿と清書で、書いてあることが全く真逆になってしまっています。念のために、箱根町立郷土資料館に該当箇所が原本でこの通りになっているかを確認して戴きましたが、確かにどちらもこの通りになっているとの返答を得ました。


元よりハコネサンショウウオ自体に薬効が確認できている訳ではありませんので、「神習文庫本」と「つたや本」のどちらの記述が薬学的に「正しい」のかを確認することには意味がありません。ここで重要なのは、当時の箱根での山椒魚の利用について地元の人たちの言い伝えがどの様なものであったかという、民俗学的な検討と照らして「神習文庫本」と「つたや本」のどちらに合致するかという点です。

しかし、山椒魚の雄と雌を男女で使い分けるとする用い方について「枝折」以前に記しているものは、実際には他に見つかっていません。「枝折」と双璧を成す箱根の地誌である「東雲草」(雲州亭橘才 文政13年・1830年)でさえ、

山椒(サンシヨ)の魚と云へる薬魚あり

里人に問、湖水近辺に[扌助]す三月頃南の風大に吹す、二三人立合夜に入松明を燈し、極入谷一二リ奥山椒の木有、細川都へ尋行魚火に寄、又は木にのほり根によるを手して捕へ腰に竹筒を用意し夫へ入る事也、夜明宿へ帰り串に刺て陰干とす、二三日は死せすと也、小児むしるいにせうゆ付あふり食さしむ、功能に速也、又生うにて細末とし疧薬に用ゆ、辺へひさきあるく物、豆州辺より出るものにして真にあらす、功能大にうすしと云

(「相模国紀行文集:神奈川県郷土資料集成 第6集神奈川県図書館協会編 1969年 347〜348ページより、[ ]内は字母を拾えなかったため字の構造を示す)

と、山椒魚の雄雌による用い方の違いについては触れられていません。「枝折」以降の箱根に関する記述の場合、「枝折」自体を参照している可能性が少なくないため、その影響下で記された可能性を念頭に置かなければなりません(下記「イモリと山椒魚の博物誌」もその1つと言えます)が、「枝折」以降の著作でも、山椒魚の雌雄によって何かしら用い方を変える用法について触れているものは、私が参照した範囲では見つけることが出来ませんでした。

従って、「神習文庫本」と「つたや本」のどちらが、当時の箱根での山椒魚の用いられ方の実情に合っていると言えるのか、判断する材料が現時点では全くありません。雌雄の使い分けの委細については、当時の箱根でも一定していなかった等、様々な可能性が考えられるものの、今は全く不詳と考えるべきでしょう。更に紀行文などを探索して裏付けとなるものがないか探すよりなさそうです。更には、「神習文庫本」から「つたや本」への記述の変化が意図的なものであったのか、それとも単なる誤りであったのかについても、判断材料は今のところありません。

とは言え、「神習文庫本」と「つたや本」のどちらでも、前段で子供向けの疳の虫の薬としての他に、いわゆる強精剤的な使われ方が仄めかされていること、委細に差異があるとは言え雌雄の使い分けられていることを記していることは違いありませんので、何らかの形で使い分けられていたこと自体には、ある程度の確度があったと見て良いのでしょう。以前紹介した「イモリと山椒魚の博物誌―本草学、民俗信仰から発生学まで」(碓井益雄著 1993年 工作舎)には

燻製としたものは、右記事(ブログ主注:朝日新聞の記事の引用)にもあるように、二〇匹を束にしてあって、一〇匹は雄、一〇匹は雌だともいわれる。前に、箱根山椒魚について、男子には雄魚、女子には雌魚を用いるという考えがあったことをみた。生きているものでは雌雄の見分けはつくが、燻製では確かめにくいような気がするけれども、はたしてあらかじめ雌雄を区別した上で燻製にしているものだろうか。雌雄としてあるのは、イモリの黒焼の場合にも似ていて、おそらく強精ということにかかわるのだろう。

私の手許には、それを藁苞(わらづと)に入れたものもあって、ついている荷札様のものに、次のように記されている。

強精、山椒魚荷札 〈品名〉山椒魚(ピンコタチ)二十尾一把(オス十尾、メス十尾)  〈届先〉酒席線媚味駅行、御得意様 〈発駅〉深山会津 〈荷送人〉福島県会津若松市N屋

(蒸気書180〜181ページより、ルビも同書に従う、強調はブログ主)

と、箱根以外の例ではありますが、強精剤としての用途を意識している燻製で雌雄を明示された商品が紹介されています。この製品の出どころである会津で具体的にどの様に雌雄を使い分けていたのかについては記されていませんが、何かしらの使い分けが存在している(あるいは、していた)可能性を裏付けるものと言えそうです。この様な箱根以外の地域での山椒魚の利用の事例も、あるいは箱根の事例を検討する際の一助となるかも知れません。

「神習文庫本」は「つたや本」だけでは明らかにならないことを示してくれる存在には違いありませんが、現時点では両者を比較する研究者に更に多くの課題を突き付ける存在でもある様です。
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