問題の紀行文は「木賀の山踏」(竹節庵千尋 天保6年・1836年、以下「山踏」)です。その記述の中で、雲雀の声を聞いたとする記述を見つけました。
同しく(注:「3月」を指す)十五日、けふは空よく晴ていと長閑也ける。あすは箱根こんけんへ詣て、亦芦の湯にも入らんときのふ小山ぬしと約し置ぬ。それに付待合場所の事抔少し違ひぬる事有けれは、昼飯後より底くらに往んと出ける途中小田原の服部殿家内打つれ行逢ぬ。久々にて面を合せ、しはし足を止めぬ。夫より底くらに赴き小山の旅宿に音信てあすの咄なとせしうち、せん茶菓子なと出されけれは、
宇治の里ここに移して川水も
黄める程にさける山吹
咄も終り爰を立出る途中明神嶽のあたりに雲雀の囀りけれは
その高さいつれ劣らし揚雲雀
明神かたけにたけをくらへて
かく独りこちつゝやかて山をそ下りける。
(「神奈川県郷土資料集成 第6集」410ページより、以下も含め強調はブログ主、以下「木賀の山踏」の引用及び解説は全て同書より引用)
正直なところ、「七湯の枝折」以外に箱根の「雲雀」について記述がある紀行文があるとは全く考えていなかったため、「その1」や「その2」を書いている間に紀行文をチェックするのを怠っていたのがミスになってしまいました。「山踏」自体はこのブログでも既に幾度となく部分的に取り上げて来ただけに、今回の様な見落としは不覚極まりないことです。
さておき、「山踏」に記された「雲雀」についてはどの様に解釈すべきなのでしょうか。その点を考える上で、まずは「木賀の山踏」自体の著者について考えてみましょう。「神奈川県郷土資料集成」では著者について次の様に解説しています。
著者、川上文治義孝は寛政三年(1791年)生れ、のち亮右衛門と改名。文化五年(1808年)、小田原藩主大久保忠真に出仕。文化七年(1810年)、同十二年(1815年)には主君がそれぞれ大阪城代、京都所司代となったので、その近習として従い、文化十二年奥番席に就き、更に文政元年(1818年)忠真公幕府老中となるに及び、江戸に供し以後江戸詰として役人席、小納戸となる。文化八年(1837年)忠真公歿するとその御廟番となっている。越後流兵学を修め、天保十一年(1841年)には御目付格席となり弘化四年(1848年)四月一日病を得て江戸にて歿している。雅号竹節庵千尋の名で本書をあらわしている。
(400ページより、西暦の追記と注記はブログ主)
この経歴からは、千尋がほぼ生涯にわたって小田原藩士として活動し続けてきたことがわかります。主君の大久保忠真が老中まで出世したこともあって千尋も幕府の要職に就いていますが、それだけの素養を持った人物であったと見られます。ただ、幼少の時期にどの様な環境で育ったのか、他の情報を見出だせなかったので不明です。
「山踏」は、湯治のために天保6年3月7日に江戸を発ち、箱根の木賀温泉に3月9日から4月2日まで滞在しながら箱根山中の様々な場所を訪れ、4月4日に江戸に帰り着くまでの様子を、かなり詳細に記した紀行文です。上の経歴に照らすと大久保忠真が老中に着任し、その小納戸を勤めていた時期に当たります。「山踏」の冒頭は
と書かれていますが、「四廻りのいとま」つまり湯治の期間を4巡分、およそ1ヶ月の長期にわたって直ちに認められていることから、千尋の働きぶりに対する評価も相応に高かったのでしょう。天保六つのとし弥よひはじめの五日、相模国木賀のいで湯に到らんと、四廻りのいとまを 君にねき奉りて、同じき七日とらのこくに旅たちぬ
(401ページより)
「山踏」がどういう目的で記されたものなのかは良くわかりません。仔細な記述や都度都度詠まれる歌からは、この時の様子を身近な人々に読んでもらう意図があったのは確かと思われますが、それがどの様な人々を意識していたのかは不明です。現在は川上家に伝わる自筆本が神奈川県立図書館で保存されており、「神奈川県郷土資料集成 第6集」に所収されている翻刻は、この自筆本に依っています。但し、この自筆本には千尋自らの筆による挿画が含まれているのですが、それらはこの翻刻には含まれていません。

宮城野辺〜明神嶽の図(再掲)
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
千尋は明神嶽の辺りで「雲雀」の声を「聞いた」と書いています。明神ヶ岳についてはこれまでも「玉匣両温泉路記」(天保10年・1839年)で箱根外輪山を越えて道了権現(大雄山最乗寺)へと往復した際の様子を見た際にも経由していました。同じ天保年間の紀行に「
右左谷ふかく、木立なくして草のみしげれり」と記されていことから、「山踏」の明神獄も同様の草原環境であったと考えて良いでしょう。
それを受けて詠んだ短歌には「揚雲雀」と書かれていますが、この場合は雲雀が上空へとホバリングしながら昇っていく姿を見た訳では必ずしもなく、俳句の季語にもなっている「揚雲雀」を短歌の5文字に合わせて選び取ったものと考えるべきかも知れません。
こうした「山踏」の記述の持つ性格を分析するため、「山踏」の他の箇所で野鳥に関する記述がどれだけあるかを一通りチェックすることにしました。以下がその一覧です。引用箇所がわかりやすい様に、少し長めに書き出すことにしました。
此日空晴星影遠く、風さへ吹かて静也。品川の駅にいたりし比、東のそらもしらみわたりぬ。やがて人そくの継場にいたる比夜は明はなれて人激も白/\と見えける、夫より駕に打のりて鮫洲浜川に来しころ日の出になりぬ。
その色をくらへて黒き鳥か鳴
あつまのそらにあかき日の影
(401ページより)
十二日、夜明て小鳥の軒端に囀る声に起出つ。けふも空晴旭の影ふし拝みぬ。湯入して庭抔見しに紅梅の盛り也けれは
あつまとは木賀違ふらめ此比の
梅の盛りに来鳴く鶯
昼比底くらより小山氏尋来られし、小田原製の小麦やき又たき物抔もらゐて
豊なるとしは畑けの小麦まて
のちの実のりも思ひやらるゝ
春風のくゆる軒端の梅の花
香を尋ねてや鶯の問ふ
(406~407ページより)
十六日、暁告る山鳥の声耳に入其まゝ起出つ。けふは箱根芦の湯に往んとて空のけしきを見れは、一めん雲覆ひて折々雨の降けるまゝ其事は止ぬ。浴湯して朝の飯なと参りける。雨は強くも降らねと晴るゝとも見へす、しめり勝なるまゝ亦枕引寄けり。
(411ページより)
同しき廿八日、今朝起出て見れは朝霧深く立こめて、まのあたりなる山も見えす、山中なれは殊に深しと人の言し時
手を打てよふ子鳥とや朝霧の
たつきもしらぬ木賀の山中
程なく霧晴けれと空も小くらく小雨降出しぬ。
(420ページより)
弥よひつこもりの日、朝またき空かき曇りて今や雨の降かゝる気色なりしか、昼前より雲吹晴て日並よし。されとひる後より南風起り、次第に強く吹ぬ。予宮の下に用ありて行しか、昼の比帰りぬ。帰る道の傍に山かゝしとかいへる蛇のいたりしか、人足に驚きて草にかくれける。又けふは三月尽なれは
足曳の山鳥の尾の長虫と
おもひし春もけふの日計
(422ページより)
明る三日、卯のこく比起出しに雨降やます、時に木賀にて心易く語り合し三笠や老人夫婦来りて外郎又餞別の一句をしるして、
餞別 時鳥跡したはしの別哉 九谷
たにさくにかいつけもて来にければ、こゝに記し置ぬ
(425ページより)
最初の品川付近の様子は出発した3月7日の様子ですが、「黒き鳥」は下の句の「あかき」との対比のために置いたものと考えられます。恐らくは江戸市中でも見られるカラスの仲間を意識したものでしょう。(3月)12日には「鶯」、(4月)3日には(千尋自身が詠んだものではありませんが)「時鳥」の名前が挙がっています。また、(3月)28日の「よふ子鳥」つまり「呼子鳥」はウグイス、ホトトギス、あるいはカッコウの何れを指すか諸説ある様ですが、箱根の山中では何れも可能性があり、その点でどれであっても文脈に齟齬が出ることはないと言えます。そして、これらについては何れも「その3」で触れた江戸市中でも良く知られた鳥という点で共通しています。

雄の長い尾羽根はこのページに収まらず
前のページにスケールアウトしている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
これに対し、30日の「山鳥」は「ヤマカガシ」というヘビを見て詠んだ狂歌の中で登場しており、「足曳の山鳥の」は長虫、つまりヘビの「尾」の長さをヤマドリの尾の長さに擬えて導く序詞として引き合いに出されたものです。こちらの場合は明らかに16日の例とは異なり「ヤマドリ」という特定の種を指していることになりますが、千尋が実際にヤマドリの姿を見ていたりした訳ではありません。
こうした点を考え合わせると、千尋は幕府の小納戸などを歴任しているだけあって、「呼子鳥」や序詞としての「山鳥」といった修辞の知識は相応に持ち合わせていたことが窺えます。しかし、箱根の山中に特有の野鳥の啼声を聞き分けたりするために必要な知識の方は、ここに登場した例からは十分に持ち合わせていたと考えられるかどうか、判断材料とするには乏しいと言わざるを得ません。
従って、千尋が聞いたとする「雲雀」の例も、「七湯の枝折」の「禽獣類」の例と同様に、聞き間違いである場合と実際にヒバリがいた場合の両方について検討すべき例の1つと考えます。「山踏」と「七湯の枝折」の2例が存在することを挙げて、当時はヒバリが箱根に生息していたと直ちに断定的に判断するのは、正しくないということです。
(野鳥動画図鑑 - Wild Bird Japan)