稲葉正通について、同書では次の様に解説しています。
筆者の正往は稲葉正則の嫡子で、はじめ正通といい、寛永十七年(一六四〇)の生まれであるから、この日記が書かれたのは正往が三十七才の時である。父正則が長命であったため、三十七才の働きざかりでも、ほとんど活動する機会もなく(正則は三十五才で幕府老中を勤めている)、本書執筆の四年後にようやく奏者番兼寺社奉行に任ぜられ、間もなく京都所司代に転任している。かれが父と同じ幕府老中に就任したのは、元禄十四年(一七〇一)六十一才の時であった。
(上記書179ページ、以下ページ数は何れも同書より)
実際は家督相続以前からそれなりに活動はしていたのですが、やはり父の隠居まではそれほど重要な役職に就くことはなく、その時間をこの様な領内の視察を兼ねた鷹狩などに使っていた様です。
「たかね日記」については次の様に紹介されています。
本書は、延宝五年(一六七七)十二月十日より十六日に及ぶ、小田原から関本―御殿場―三嶋―箱根を経て小田原に帰る、鷹狩りを中心とした紀行文である。その間御殿場に四泊している。本巻所収の「稲葉日記」には、稲葉正則の御殿場滞在についての記事が多く見られるが、文芸作品として少なからぬ潤色があるにせよ、本書のような詳細な滞在記事は類がない。宿としたいわゆる御殿場屋敷のたたずまいの記述も珍しく、竹之下・二枚橋・深良・須走各村の名主の動き、特に西田中村八郎右衛門(名主、芹沢将監の子孫)の案内などが記されて興味深い。文章は伝統的な記行文の模倣であるが、正往は当時の大名の常として、漢学及び国学に造詣が深かったという。なお末尾に「越智正通」とあるのは、稲葉氏の本流河野氏がはじめ越智氏を名のっていたからである。本書の原本はもと稲葉家が所蔵していたが、現存かどうかは不明である。
(179~180ページ、以下も含めルビ、傍注も同書に従う)

(172ページより)
正通一行は解説にある通り延宝5年12月10日(グレゴリオ暦1678年1月3日)に小田原城を出発して狩場のある御殿場へと向かいます。記されている地名から一行は甲州道を進んだことがわかります。関本には最乗寺(「日記」では「最上寺」という表記になっている)があることに触れたのち、矢倉沢にあった関所に到着します。
辰の時ばかりに櫓沢といふにいたる、そのかみ、この道は鎌倉に往来の駅路にてありけるが、いつの頃よりか箱根路にかゝりて,むかしの道はたえ/\なり、されどいまも甲斐・駿河へこゆるかたなれば、関所とす、あしがらの関とかいひし古きあともおもひ出らる、関やにいりてしばらく休らひ、ここより坂をのぼるに、冬枯たれどしげき茂りの山路はるかにして、自雲生ず、民の家だにもなし、ゆきかひに道もさりあへぬ岩かどありて、くるしくのぼる、こゝにいさごこりて其状貝に似たるあり、いつの世よりか、かくは成けん、山賤のことわざに蛤石とそいふめる、ゆくてに萱ふける堂あり、あしがらの地蔵といふ、森の落葉の霜の色はなよりも猶めづらかなり、矢倉が嶽のうしろにつゞける山なん八重山といふ、
あしがらやはやくの跡をふみ分て
ゆくへも遠き雲の八重山
(上記書170ページより、強調はブログ主)
冬場の「辰の時」はやや遅めの時刻になっている筈ですから、今の朝9時くらいには矢倉沢の関所に到着したことになるでしょうか。正通は「日記」に夜遅い時間に出発したと書いているのですが、岩原村(現:南足柄市岩原)を過ぎる頃に空が白み始め、関本(現:南足柄市関本)に着いた頃には夜が明けたことを書いています。その間約4kmほどありますから、一行はそこそこのペースで歩いていたと考えられ、そこから逆算すると出発したのは夜明け前と表現する方が適切な時間帯だったと見られます。もっとも、暗いうちに小田原の街中を抜けて甲州道を進んだため、これらの沿道の村々は「
こゝもとにやおもふ(170ページ)」と書き記している通り、周辺の様子を窺うことは覚束ないことではあった様です。
小田原城を出発してからここまで休まずに歩いてきたため、足柄峠を越える前にここで一旦休憩を採ることにした様です。「日記」ではこの旅路の目的について「
小鷹狩して民のかまどの煙をも、うかゞひ見むとて、(170ページ)」と鷹狩りがてらに領民の視察を兼ねていたことを記しています。その視察のうちに関所などの視察を含んでいたかどうかについては記述からは定かではありませんが、やはり藩主の嫡男が訪れたとあれば関所側は相応の対応が必要だったでしょう。
関所を発つと民家が絶え、冬枯れの草が茂る道を登り始めます。ここで正通は「蛤石」について記しています。「矢倉沢の蛤石」については以前このブログでひとまずまとめましたが、その際に取り上げた史料は何れも江戸時代後期のもので、江戸時代初期のものは見つけていませんでした。つまり、この「日記」が今のところ私が見つけた「蛤石」の最も古い記録ということになります。
正通は「
こゝにいさごこりて其状貝に似たるあり、」と伝聞の形では書いていません。しかし、正通一行が直接見に行ったのだとすると、記述に実情と食い違う箇所があることに気付きます。
以前まとめた通り「蛤石」は「蛤沢」で見られます。これは地蔵堂を過ぎて甲州道を逸れ、夕日の滝がある沢へと降りなければなりませんので、地図で確認出来る通り「地蔵堂」の記述が「蛤石」の記述より先に来なければ行程の順に噛み合わないことになります。
無論、江戸時代の紀行文では必ずしも時系列や道順にそぐわない順で記述されている例が数多く見つかりますので、この「日記」の場合も意図的ないし記憶違いなどの理由で記述の順序が入れ違ってしまった可能性もあります。しかし、本来鷹狩の目的で一行を引き連れて狩場へと向かっている最中のことであり、もしもわざわざ「蛤石」を見に行ったのであれば当然「日記」にもそのことがわかる様に書いたのではないかと思われます。こうしたことから、正通は実際には「蛤石」を見には行っておらず、一行のうちの誰かから「蛤石」について聞かされたことを書き留めた可能性の方が高いと私は考えています。
その場合、正通は誰からその話を聞いたのかが気になります。「
山賤のことわざに蛤石とそいふめる、」とこちらは伝聞の形を取るところから見ると、やはり正通に随伴していた家臣などからということになるでしょう。そうだとすろと、「蛤石」はこの時点で既に藩士の間で既知のこととして伝わっていた可能性が高くなります。
従って、「
いさごこりて其状貝に似たる」つまり砂が固まって貝の様な形になったという観察も、正通のものと考えるよりは、道中でその様に説明されたものと理解する方が良さそうです。以前まとめた様に「本草綱目啓蒙」などでは化石の成り立ちについて比較的正確に理解されていたことが窺えるのに対し、この「日記」の記述ではまだその様な理解が成立していなかったのではないかと推測できます。この山の中に海のものが出土するなどということは、当時の知識では理解し難いことではあったでしょう。
「日記」の他の部分については、後日改めて取り上げてみたいと思います。