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春日局から稲葉正則宛の書状に見られる「雲雀」を巡って:「綾瀬市史」より

今回は、以前取り上げた「雲雀(ひばり)」に関連して、「綾瀬市史」に掲載されている1通の書状に登場する「雲雀」(及び「鮎」)を題材にします。

Kasuga no tsubone.jpg
春日局
麟祥院所蔵の肖像画
(パブリック・ドメイン,
Wikimedia Commons
Inaba Masanori.jpg
稲葉正則
稲葉神社所蔵の肖像画
(パブリック・ドメイン,
Wikimedia Commons

書状の差出人は春日局(かすがのつぼね)(以下「局」)、受取人は稲葉正則(まさのり)(以下「正則」)で、この書状は正則の子孫の家に伝えられ、後に国文学研究資料館史料館に寄託されたものです。当時の私信の慣例に違わず、この書状の日付には年号を欠いているものの、「綾瀬市史」では寛永20年6月26日(グレゴリオ暦1643年8月10日)と同定されています。この年、天正7年(1579年)生まれの局は最晩年で、この年の9月14日(同10月26日)に64年の生涯を閉じます。一方、元和9年(同1623年)生まれの正則はこの年に満20歳を迎える青年期、局は正則の祖母であると同時に、若くして亡くなった正則の母の代わりに乳母として正則を養育したという関係でした。

この書状の前半に、正則が局に贈った「雲雀」と「鮎ずし」に対する御礼が次の様に記されています。

「返/\(追而書)すし・ひはり(雲雀)たまわり、しゆひよくふるまい候て、まんそく申候、わかみハ、五六日ふく(腹)中とまり、 一たんときしよく(気色)よく候まゝ、御こころやすく候へく候、かしく」

昨日の返事そのひニ申候ハんお、ひこ殿(細川肥後守光尚)御いて候て、しゆひよき事も申候ハんと御返事不申候

一二日御とらせ候ひはり、よとおしもたせたまわり候、まへひもあゆ(鮎)のすしおけ給候、何も/\ふるまいのやくニたち、りやうりも一入いてき、まんそく申候

一きのふ八つまへに御いて候て、いかにもゆふ/\と御入候て、めしなどもよく御まいり候、そのうへ、そのほうよりたまわり申候よし申候へは、ひはリハ、かさねて御こい候て、いくつもまいり候事にて候

(「綾瀬市史2 資料編 近世」126〜128ページ、括弧付きの傍注も同書に従う、強調はブログ主、書状の引用は以下同じ)


局が正則から贈られた雲雀を「ひこ殿」の接待に振舞ったこと、その席上でその雲雀が正則からのものであることを知らせたところ、「ひこ殿」が雲雀をいくつも所望したと書いています。鮎ずしも含め、どちらも局の饗応の席で大層喜ばれた様です。今回は、正則が局にこれらの品を贈った意味を考えてみたいと思います。


父・正勝の急逝を受けて正則が家督を継いだのはまだ元服前の寛永11年(1634年)の1月、当然ながら正則には後見人が付いて実質的な藩政を取り仕切っていました。この人選には局が多々関わっていましたが、その様なこともあってか局の下を訪れる関係者が多く、そこから小田原藩での人の動きが局に知れることもあった様です。局から正則と田辺権太夫信吉(稲葉家家老)に宛てた、年号のない5月14日の書状では、堀平右衛門正儔が小田原を留守にしていることについて、その頼りにならない点について正則と権太夫で良く相談する様に指図しています。

一筆申候、いつ殿(斎藤伊豆守利宗、局の兄)こなたへ御こしになり、平へもん(堀平右衛門正儔)もいまた此はうに夫婦ながらゐ申候よしうけ玉候、かく太夫(畑覚太夫)かゝのかみ(堀田加賀守正盛)所へつかはし候へは、おたはら(小田原)には五左衛門(松原五左衛門貞乃)七郎ひやう(稲葉七郎兵衛通勝)へはかりゐ申候、御みゝにたち候てもいかゝしく存候、平へもんにおたはらへまいり候へと御申つけ候て、まいり候ましきと申候はゝ、こん太夫(田辺権太夫信吉)をおたはらへ御やり候てよく存候、平ゑもん事はさやうに、そもしおもひ入もなく、うきくものやうにいたし候は、たとえおたわらへまいり候ても、たのみもなき御事に候へ共、ぬしまいり候はんとさへ申候はゝ、まつ御やり候てよく候、こん太夫にも御ふみのことく申つかわし候間、こん太夫とよく御たんこう候て、いそきこん太夫を、おたはらへ御やり候てよく存候めてたくかしく

五月十四日

かすか

いなはみのゝ守殿

(「春日局消息二通」田辺 陸夫「神奈川県史だより 通史編2・近世(1)」所収、括弧内の傍注はブログ主が当論文中から適宜拾い出して追加したもの)

この書状が書かれた時点で、先代の正勝が召し抱えた平右衛門が、局の信頼を既に失っている事情が窺えます。そうした経緯もあって、乳母として手塩にかけた正則が小田原藩主として上手くやっていけるか、その周辺を固める人物が然るべく正則の支えとなっているか、局が少なからず気を揉んでいたことがわかります。


無論、問題の書状が書かれた寛永20年の時点では、正則もいくらまだ若いと言っても藩主となってかなりの年数を経た後であり、そろそろ「自立」して良い頃合いではあったと言えるでしょう。実際、その2、3年前には領内の一部で検地も実施しており、正則が藩主としての地歩を固めていた時期と言って良いでしょう。

その正則が小田原藩領で盛んに鷹狩を行っていたことを示す記録は、様々な形で数多く伝わっています。まず、稲葉氏が小田原藩主であった時代に記録された「永代日記」は、当時の小田原藩政の重要な史料ですが、「御殿場市史 第4巻 近世史料編」にはその中から特に御厨地方に関係するものがまとめられています。この中から稲葉氏の鷹狩に関係するものをいくつか抜粋すると、
  • 慶安4年(1651年)7月21日(124ページ)

    宇佐見久左衛門御厨御殿御作事(さくじ)奉行罷在候ニ付、同名新八を以御鷹之鴨置之(くだしおかる)

  • 承応2年(1653年)7月11日(127ページ)

    御鷹之(雲雀カ)五十五来ル、右之内十稲葉七郎兵衛、同畑覚大夫、七つ杉森市兵衛、五つ稲葉勘解由(かげゆ)、五つ畑治部右衛門、五つ堀伝兵衛、五つつぼね、八つ戸田三九郎殿被下、就道迄為御礼七郎兵衛・市兵衛・勘解由使指上ル、治部右衛門・伝兵衛ハ幸便(こうびん)ニ御礼申上ル、

  • 承応3年(1654年)12月10日(134ページ)

    一卯刻御厨へ出御(しゅつぎょ)(あそばされ)候事,御供塚田杢允(もくのじょう)・奥山一庵・野村玄徳・真鍋伊兵衛其外御手廻当番切、

    一寅刻小田原御発足、路次中御鷹(つかまつらせられ)、御(こぶし)ニ而鴨・(うずら)鶉取、於矢倉沢御番所御昼弁当被召上、坂井道仲・清三郎・了順・玄徳・杉原頼母介御相伴(しょうばん)追付(おっつけ)御立、申刻至御殿場御着座、則御風呂ニ召、其後御料理出、道仲・清三郎・了順・玄徳御相伴、

  • 明暦元年(1655年)11月8日(137ページ)

    一御厨御越成ニ付、寅上刻小田原御発駕、巳中刻矢倉沢御番所にて御弁当被召上、御相伴(しょうばん)家里加清・上原休心・神谷其周・奥山一庵被 仰付一レ之、彼地追付御立被成、竹下より深沢通御鷹狩被遊、(うずら)廿一立内八つ留、申上刻御殿場御着、御料理被召上、御相伴如

  • 同年11月9日(138ページ)

    一御殿場逗留(とうりゅう)

    一卯下刻御膳被召上、御相伴一庵・加清・休心・其周也、辰上刻御鷹狩ニ御出、長塚之前よりぐミ沢・長原通御帰、ぐミ沢将監(しょうげん)ニ而昼御弁当被召上、今日之御物(かず)鶉八十一立之内三拾一留ル、将監ニ銀子壱枚被下置一レ之、申后刻御殿場御帰、

    一御供之内弐・三人病人有之ニ付、矢嶋甚兵衛・磯村十兵衛・若林多兵衛・山住又兵衛外御歩行(かち)之者不残御厨罷越候様二被 仰遣一レ之、(いずれ)も今日参着、

  • 同年11月10日(138ページ)

    一卯后刻御膳被召上、御相伴一庵・加清・休心・其周也、辰上刻御鷹狩御出、杉菜沢(すぎなざわ)・留兵衛新田通奥住新田迄御鷹野被遊、於奥住新左衛門宅昼弁当被召上鶉八拾壱立内三拾壱留、及黄昏御殿場江御帰、

  • 同年11月11日(138ページ)

    一卯中刻御膳被召上、市庵・加清・休心・其周御相伴被 仰付、同下刻野辺江御出、猿山野通御鷹野被遊、御物数鶉五十八立内三十二留、右之内御(こぶし)ニ而拾七御合羽、申下刻御殿場江御帰、

(以上、上記書より、ルビ、送り仮名、返り点も同書に従う、変体仮名はやや活字を少しだけ小振りのものにしている様にも見えるが、明確に読み取れないため、原則そのままとした、強調はブログ主)

稲葉家の所領となった御厨(みくりや)に拝領した鷹場があったこともあり、正則はしばしば同地へ鷹狩に訪れています。慶安4年や承応2年の記述を見ると、正則はその鷹狩の獲物を功績があった者へ下賜する「褒美」などに使っていた様です。特に承応2年には55羽も獲れた雲雀を方々に下賜したことが事細かに記されており、まさに将軍が大名に雲雀を下賜したのと同様に扱っていたことがわかります。


そして、小田原藩領に属していた各村から提出された村明細帳には、例えば
  • 寛文12年9月 小船村明細帳(70ページ、現:小田原市小船)

    一御鷹匠衆御留り之(みぎ)り 内夫御用次第出し申候。

    一御鷹寄馬     御用次第出し申候。

    一御鷹之餌鳥(えとり)持人足 御用次第出し申候。

  • 寛文十二年及び元禄三年(?) 網一色村明細帳(79ページ、現:小田原市寿町・東町付近)

    一御鷹番   八月朔日より四日迄山王原村卜両村二而弐人宛毎年出し申候。

    一御鷹寄鳥  酒匂川村又ハ山王原村迄御用次第出し申候。

(以上何れも「小田原市史 史料編 近世Ⅱ 藩領1」より、表題、返り点、傍注も同書に従う、「…」は中略)

の様に、鷹狩の際の人足や鷹の餌を求めに応じて出していたことが記されているものが多数見られます。1回の鷹狩で動員された人足の人数はわかりませんが、明暦元年の鷹狩の様子にも見える通り、名前が出ているだけでもかなりの人数に上ることが窺えます。この他に農村から動員された人足が加わる訳です。

「相州小田原絵図」鷹部屋曲輪・御鷹部屋部分
「相州小田原絵図」
(作成年代不詳・稲葉氏の終わり頃)
に見える「鷹部屋曲輪」及び「御鷹部屋
(リンク先は現在地のストリートビュー)
図の右下が北
(「神奈川県史 資料編4 近世(1)」付録から
一部をスキャン、該当箇所に追記)
更に、小田原市郷土文化館や、ちょうど今月移転のために閉館した小田原市立図書館が建っている場所は、稲葉氏の頃には「鷹部屋曲輪」と呼ばれていました。右の「相州小田原絵図」の他に正保年間に作成されたと考えられる「相模国小田原城絵図」(「小田原市史 別編 城郭」所収)や、寛文12年(1672年)の「小田原城修築伺付図」(「神奈川県史 資料編4 近世⑴」口絵)等でこの名称を確認出来ます。この名称は稲葉氏から大久保氏に小田原藩が引き継がれた際に受け渡された「稲葉家引送書」(「神奈川県史 資料編4 近世⑴」167〜196ページ)にも見られますので、稲葉氏の頃を通して維持されたことがわかります。名称から考えて、稲葉氏の頃にはこの曲輪に鷹を飼育する施設が設けられていたものと考えられます。

また、現在の小田原駅の東側の繁華街には「高部屋(たかべや)」という地名を示す石碑が小田原市によって立てられています。これも、かつて稲葉氏の頃に鷹匠の屋敷があったことに由来する地名であり、左の「相州小田原絵図」にもその地名の元となったと考えられる「御鷹部屋」の所在が示されています。


しかし、上記も含め、それらの記録中に、正則が寛永20年までの若年期に鷹狩を行ったことを示す記録が今のところ見当たらず、彼が何時頃から鷹狩を行う様になったのか、またどれ程の上達度を見せていたのかについて、裏付けを見出せていないのが現状です。

「稲葉氏系譜」における、正則の父である正勝の記述によれば、

(寛永)十年…是年病を養はんがためこふて城地にゆく、…後小田原にをいて放鷹の地を賜ふ、

(「神奈川県史 資料編4 近世⑴」94〜95ページより)

といった、鷹狩についての具体的な記述が見え、鷹場も拝領しています。また、寛文12年(1672年)の「足柄上郡赤田村明細帳」(現:大井町赤田)には

一雑木山壱ケ所 長六百三拾間/横弐百間 御鷹打山

此御林之内御鷹場御座候、是大久保相摸守(忠隣)□御鷹山御□□罷成乙酉ノ年(?)ゟ拾六七年□□罷成、其後間宮左右衛門様御鷹山□□□□程罷成丁卯年(寛永4年)己酉ノ年(寛文9年)まて四拾三年土屋民部様御鷹山罷成、去亥ノ年(寛文11年)ゟ殿様御鷹山罷成申候、

(「神奈川県史 資料編4 近世⑴」388ページより、傍注はブログ主)

※「?」…「乙酉ノ年」はこの付近では「正保2年」に当たるが、寛永4年より後年であり、時系列として合わない。「己酉」の誤記なら「慶長14年」となり、大久保忠隣藩主の時期や時系列に合うが、委細は原本確認の必要あり

とあり、大久保家の頃から受け継いだ鷹場が稲葉家の代になっても鷹匠の手によって維持されていたことが記録されていますから、これも正則が家督を受け継いだ時には既に鷹匠などが小田原藩に揃っていたことの裏付けにはなります。従って、正則が鷹狩の手解きを受けるために必要な環境はあったとは言えますが、具体的に正則がどの様に鷹狩の訓練を重ねたのかについては今のところ不明です。


正則が家督を継いだ時はまだ幼少期で江戸住まいでしたから、少なくとも小田原入り前に正則が鷹狩の訓練を受けた可能性は極めて低いでしょう。しかも、正則は生来病弱であったことが稲葉家の系図に記されており、寛永20年の11月には

一 同年十一月十四日登 城仕候処、  御前被為 召、在所之御暇被下置、御懇之蒙 上意、其上来春摂州有馬湯治之御暇ヲ被下置、翌年二月八日湯治罷越候、

(「神奈川県史 資料編4 近世⑴」99ページより)

と、病気平癒のために幕府から有馬温泉(現:兵庫県神戸市北区)まで湯治に行く様に暇を出されていたことが記録されています。問題の局の書状でも、上記の吉岡の御殿に関する記述の1つ前の段で、正則が湯治に明け暮れて飽きたであろうから海水浴や灸などを試したことについて「一たんの御事にて候」つまり良い事と評している程です。こうした病弱のイメージと、野外に積極的に出かける必要がある鷹狩のイメージは、そのままではうまく噛み合わない面があります。

しかし、江戸時代の鷹狩は上記で見た通り鷹匠の他にも多くの人員を動員する催しであり、その点では本人の鷹を操る技術も去ることながら、それらの人員の動員力も必要となります。その点で、寛永20年に局に雲雀を送ることが出来た正則は、鷹を操る技術か、若しくは鷹狩に同伴した人員の采配力かの、少なくともどちらか一方を身につけた証として読み解くことが出来るでしょう。また、局の書状に「ひはり(雲雀)よとおし(夜通し)もたせ(持たせ)たまわり(賜り)候、」とあることから、正則がこの雲雀を局に送り届けるために、かなりの小田原藩領民を動員していることが窺えます。これも、正則が小田原藩での支配力を身につけつつあることを示すものと見ることが出来そうです。

因みに、以前取り上げた際に、将軍から下賜される鷹狩の獲物の格付けについて紹介しましたが、それによれば雲雀は鶴や雁に次ぐものとされていました。江戸時代にはまだ関東にも鶴や雁が生息していたことが鷹狩の獲物の記録などから窺えるものの、局の書状が書かれたのが真夏の時期であることから、恐らくこの時期の小田原藩領内には鶴や雁鴨類は繁殖地へと渡ってしまっていなくなっていた可能性が高いと考えられます。とすれば、正則が捕らえた雲雀は、夏場にあっては最良の獲物であったと考えて良いでしょう。



一方、鮎については「風土記稿」では津久井県の項には記述がありますが、正則が藩主だった頃は、この地は主に幕領で小田原藩領に含まれていませんでした。「風土記稿」の足柄上郡や足柄下郡の項では鮎の名は産物としては取り上げられていません。しかし、稲葉氏から大久保氏に小田原藩が引き継がれた直後の貞享3年(1686年)に、足柄上郡神縄村(現:山北町神縄、他)から提出された村鑑には、

一御献上鮎御取被成候。河内川相沢落合ふたまたより世付中川玄倉三か村迄御留川(立入禁止の川)ニ而御座候。河殺生御法度之御札落合之少上前々より御立被遊候。右鮎御取被成候節たいまつかなとつら岡持人足御用次第出し申候。

一同鮎小屋弐軒拾七年已前(寛文一〇)戌ノ年御立被成候。萱竹縄東筋中筋西筋近所村より参候。御材木奥山家三ヶ村より出し申候。手伝人足右三筋近所より出し申候。

(「小田原市史 史料編 近世Ⅱ 藩領1」95ページより、返り点、傍注も同書に従う)

の様に、稲葉氏の時代に酒匂川支流の河内川で鮎釣りが行われ、小田原藩へ献上されたことが記されています。また、時代は相当に下りますが、東海道線が御殿場経由で開業したことを受け、山北駅では鮎寿司が名物として販売される様になりました。こうしたことを考えると、正則が局に贈った「鮎ずし」も、小田原藩領内で採れた鮎で仕立てられたものであったと考えられます。

相模川支流の道志川の鮎についてはその高い評価を窺い知ることが出来る史料が数々見受けられるのに比べると、酒匂川流域の鮎については私は今のところ江戸時代の評価を記したものを見ることが出来ていません。しかし、局の書状に「あゆのすしおけ給候、何も/\ふるまいのやくニたち、」とあることから、この鮎ずしについても局を喜ばせるには十分なものではあった様です。恐らく、局自らだけではなく、大奥内で周囲の女官らにも振る舞えるだけの量があったのでしょう。




これらを考え合わせて、以下は個人的な推測となります。

まず、「雲雀」の方は当時の将軍以下武家社会での贈答品としては重要な位置付けにあったことは、ここまで見て来た通りです。正則にしても後に雲雀を下賜する様になることから見ても、その意識は強く持っていたことは確かでしょう。いつ頃からその様な意識を持つに至ったかは不明であるとしても、局の書状が書かれた頃には既に十分にあったと見て良いのではないかと考えられます。

つまり、この雲雀は正則が小田原藩主としていよいよ「独り立ち」する年齢となり、その手筈が整ったことを局に対して「報告」するのに、最良の選択肢であったと考えることが出来るのです。

そして、雲雀が下賜された様々な記録を見ていくと、雲雀が精々「領主の鷹場で獲れた獲物」であることは意義づけられるものの、「その土地の名産」といった側面は象徴し難いことに気付きます。下賜された側には「誰からの戴き物であるか」が重要で、「何処で獲れたか」によってその質などを問題とする性質を帯びないからです。

そこで、その側面を「鮎ずし」に象徴させたのではないでしょうか。こちらは当時でも必ずしも何処でも獲れる魚ではありませんでした。当時の小田原藩領内に名高い鮎の漁場があったとする記録は見出せていませんが、「小田原藩領内にこの様な鮎ずしを作れる場があります」という意味で、自身が拝領した領地を象徴させようとしたのではないでしょうか。

その点で、正則としてはその時点での「到達点」を局に示すべく、かなり考え抜いてこれらの2品を選び取った様に感じられます。

翻って、こうした武家の贈答に供する獲物であった「雲雀」が、敢えて「風土記稿」で相模国の「産物」として取り上げられた意味を、改めて考える切っ掛けになる書状と言えるのではないかとも思えるのです。



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この記事へのコメント

筑前の古地名 - ryoi - 2020年04月29日 08:23:58

ご無沙汰しております。おげんきですか?
川崎から福岡に越して3年になりました。
川崎では化粧麺面谷公園が近くにあって、この近辺はお江与の方の化粧料地だったそうです。
近所に池田善郎さんという「筑前の古地名、小字」をお書きになった方がいて、本をいただきました。
今まで車から見る標識の地名に、おお珍しい、と思っていただけでしたが、見方がすっかり変わりました。

Re: 筑前の古地名 - kanageohis1964 - 2020年04月29日 19:14:14

ryoi さま:

こんにちは。お久しぶりです。コメントありがとうございます。

以前に比べるとブログの記事を更新するペースを上げられない状況が続いていますが、何とか月1回程度の更新を続けています。

王禅寺の江の化粧料地の件、春日局が9村3千石と概略がわかる史料が残っているのに対し、江の料地の規模は良くわからない様ですね。ただ、局の方が江戸から遠隔地にあった点が、将軍の正室であった江と基本的には御女中であった局との差でしょうか。何れにしても、地元にとっては位の高い人の関係地であったという由緒になりますから、言い伝えが残りやすいのでしょうね。

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