fc2ブログ

【旧東海道】その6 戸塚宿周辺の道と柏尾川水系【武相国境】(その4)

前回までで、境木から戸塚宿付近までの旧東海道筋の成立の経緯を見てきました。今回はその先、戸塚宿から藤沢宿へと向かう道筋を検討します。

旧東海道:戸塚宿一里塚前〜藤沢宿大鋸橋
旧東海道:戸塚宿一里塚前〜藤沢宿大鋸橋間
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」等を合成
別ページで表示
境木から戸塚宿までは、水害の心配の強い柏尾川の流域をどの様に突っ切るか、腐心した跡が窺えることを見てきましたが、それに比べると戸塚〜藤沢間は一転して、街道を通すという点では大きな問題の少ない区間に一変します。戸塚宿を出た先で2段階の坂を登る大坂、藤沢宿へと一気に下る遊行寺坂が難所といえば難所ですが、その2つの坂の間は比較的なだらかな尾根筋を長距離にわたって進む区間で、水難の心配とは無縁です。

特に、原宿(勿論東京都内山手線の駅とは無縁です、念のためw)の浅間神社を過ぎると周囲にはなだらかな台地が広がります。その直前までが典型的な尾根筋に当たり(今は国道1号線が中央に広い分離帯を挟んでいて対向車線が見通し難くなっているので、この辺りで街道の両側の風景を一望に出来る箇所が殆どありませんが)、眼下に広い谷筋を見ながら進む道筋であったのが一変する箇所です。

原宿付近の迅速測図(「今昔マップ on the web」より)
「迅速測図」を遠目に眺めてみても、原宿〜影取〜大鋸の間は等高線の間隔が周辺に比べて極端に開いており、その間を直線的に通過する東海道筋が浮いて見えています。

最近になって原宿の交差点が大規模に立体化され、それまで以上に広大な敷地が道路と化しましたので、当時の面影を追うことはもはや難しい区間になってしまっていますが、見方を変えればこれだけ大規模な立体交差を作ることが出来るほどに、この辺りには平坦な土地があるということでもあります。

ここは北を宇田川、南を滝ノ川に挟まれた台地に当たります。何れも境川に直接流れ込む支流であり、この辺りで柏尾川の流域を抜けたことになります。現在はどちらも境川の流域に属しているのですが、縄文海進の頃には柏尾川の流域では大船の先まで、境川の流域では俣野まで海が入り込んでいたため、両者は元々別の流域でした。境川の流域については出来れば後日別途取り上げたい思っていますが、柏尾川が以前取り上げた様に秦野—横浜構造線の影響で狭い地域に周囲の支流が集まっているのに対し、かつての相模川の流路の名残川である境川では、特に東側の支流が境川に並行する様に南下するという大きな違いを持っており、その違いが流域の景観に大きな変化をもたらしています。

地質的には原宿付近は多摩丘陵の中に高座丘陵が点在する地域で、秦野—横浜線の南側にあって相対的な隆起域に当たっています。高座丘陵の主体部は境川よりも西側、引地川や目久尻川の流域にあるのですが、それよりは東側に位置する原宿付近にそれと同質の丘陵が離れ小島の様に点在している訳です。高座丘陵はかつての相模川のデルタと考えられているのですが、それらのデルタの中の東側の1つがここに残ったのでしょうか。

ともあれ、この平坦な台地の真ん中を貫く区間も、基本的には岡津陣屋の普請によって成立した可能性が高そうです。道を通すには最適のこの地に、周辺の村から遊行寺の門前町・藤沢へと抜ける連絡道が早い時期からあったとしてもおかしくはなかったとは思えますが、戸塚から北が前回まで見てきた様な状況ということは、やはりこの道筋を遠方へ向かう街道として取り立てるのは大分時代が下ってから、ということになってしまいそうです。

「影取池のおはん」案内
「影取池のおはん」ガイド
余談ですが、鎌倉街道上道はこの区間を影取付近で横切っていました。その意味ではこの長く平坦な尾根を活かせなかったことになりますが、それは鎌倉を始発点とする以上は止むを得ないでしょう。この影取には昔から伝わる伝説があり、それによると昔影取にあった池に、かつての名主が飼っていた大蛇が逃げ出して棲みついてしまい、道行く人の影を食べていたと伝えています。地元の民話集に採録されている話は戸塚宿や藤沢宿の名前とともに語られているのですが、街道と池の位置関係や言い伝えがもっと古い時代のことを語っているので、この伝説の舞台になっているのは恐らく鎌倉街道上道の方だろうと思います。時代が下って鎌倉街道が廃れ、東海道が賑わう様になったので、話が伝承されていく過程で変質していったのではないでしょうか。

ところで、治水面では愁いのない原宿も、実際に開拓されたのはそれほど古いことではありませんでした。「新編相模国風土記稿」の原宿村の項を見ると、

當村は天正中の開發とのみ傳へて詳ならざれど、十四年十二月藍瓶役不納の諸村あるをもて嚴蜜に下知を加へし文書に始て當村名見えたれば(中略)蓋天正の始の事なるべし、

(卷之百三 鎌倉郡卷之三十五)


原宿の地自体は村岡郷の一部として鶴岡八幡宮の所領だったと上記の引用部の少し前に記されてはいるものの、その頃は飽くまでも原野だったのでしょう。天正年間ということは、結局戦国時代末期まで原宿付近に村落が定着しなかったことになります。街道を通すという点では有利な土地も、利水という面では井戸を掘らないと水がないということになり、勿論水田は作れないので、畑として開墾するには相応の換金作物のあてが出来ないと難しかったのかも知れません。

因みに、明治時代の地形図では原宿一帯は桑畑が広く覆っています。神奈川県央部は明治時代には水田を残して大半の畑が桑畑に転換されましたが、それらは大抵利水面では不利だった地域に当たります。

日本の場合は稲作が中心にあることから、大量の水が得やすい低地への志向が特に強く、その点で水捌けの良い土地を志向する街道の普請とは、相反する側面があったとも言えると思います。前回まで追って来た柏尾川流域も、水害の虞はあっても水田としての開発は早くから進んでいたことは、鎌倉時代に一帯が鶴岡八幡宮以下鎌倉の寺社の寄進地になったことからも窺えます。

また、宿場も多数の馬とともに当時としては異例の人口を抱えて生活する関係から大量の水を必要とし、そのために治水には配慮しつつも水の得やすい里に出来やすい傾向はあったと思います。戸塚や藤沢から坂を上がらなければならないのも、道中は治水優先の道取りで良くても宿場が近い箇所では利水面にも配慮して川筋へと降りるからであり、その意味ではこの区間は当時の道取りの特徴を典型的に反映した区間と言えると思うのです。



追記:
  • (2012/11/02):以前藤沢から戸塚へ向かう途中で、「影取池のおはん」の案内を撮影していたことを思い出して、写真を追加しました。割と最近戸塚区が設置したものですね。
  • (2013/11/12):「歴史的農業環境閲覧システム」のリンク形式が変更されていたため、張り直しました。
  • (2015/11/24):「歴史的農業環境閲覧システム」のリンクを「今昔マップ on the web」の埋め込み地図で置き換えました。
  • (2019/07/16):「ルートラボ」の終了に備え、「地理院地図」上で作図したものと差し替えました。
  • (2021/11/07):「今昔マップ on the web」へのリンクを修正しました。

  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

地誌のはざまに - にほんブログ村

記事タイトルとURLをコピーする

この記事へのコメント

トラックバック

URL :