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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(まとめ)

前回までで、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」)の、足柄峠までの記述を一通り見て来ました。該当記事の一覧を改めて掲げます。


「その1」では3箇所の渡し場についてまとめて取り上げたのに対し、残りの回は継立の分析を中心にしながら「日記」の記述を日程に沿って取り上げる格好になりました。当初は継立とその他の記述を分けてまとめようと画策していたのですが、土地勘のない人には日程とは違う順序で取り上げることで位置関係がわかりにくくなることを考慮し、継立以外の記述を分離するのは思い留まりました。

何れにせよ、今回は特に「日記」の記述を都度関連する史料と照合して検討する作業の分量が増え、殆ど「日記」よりも矢倉沢往還や沿道各地の当時について書いている様な文章となりました。それは特に「日記」に記された継立の記録が、矢倉沢往還の継立場として伝えられている村と照合した時に、3箇所で「継通し」された様に見えるなど、疑問点が散見されたことが大きな理由です。武四郎は特に蝦夷地の念入りな探検取材に基づいて、それまで日本では知られていなかった蝦夷地の地図を作成するなどの業績があった人物であり、こうした調査の経験を豊富に持っていた筈です。その様な人物が勅命を受けて調査した上で著した紀行文中に、何故この様な疑問点が散見される結果になっているのか、そこは掘り下げるべき課題ではないかと考えました。

継立に見られる「継通し」の課題については、書き漏らしの可能性は残るものの、特に矢倉沢については史料で実際に行われた可能性を裏付けることが出来ました。伊勢原についても寄場組合の一時的な返上にその可能性を考えてみましたが、二子・溝ノ口や荏田については少なくとも正式な運用上の措置として継通しが行われた可能性を見出すことが出来ず、世田谷の継立場の不自然さなどから公ではない形で継通しが行われた可能性を考えてみました。何れも裏付けは十分とは言えず、引き続き他の史料を探索する必要があると思います。また、武四郎がこの道中に書き残したメモの様な文書が他にないかなど、この道中でのみ発生した事象を裏付けてくれるものがないか、探してみたいところです。

こうした検討が必要である以上、「日記」を当時の矢倉沢往還沿道の修景のための史料として無批判に扱うのは、問題があると言わざるを得ません。今回検討した中では、特に「その4」で検討した国分村付近の記述にそれを強く感じました。

とは言え、矢倉沢往還を経由した紀行文や道中記はあまり見つかっていないのが現状ですし、また維新直後の混乱期の紀行文というのも希少な存在です。その点で、今回の様に他の史料と照合しながら、史実と看做すことが出来る記述がどの程度含まれているかを検証する価値はあると思います。

特に「その2」で検討した善波の継立の様子などは、当時の紀行文中で継立の様子を書き記す例が多いとは言えない中で、輸送需要が多くない区間での継立の運用の事例の1つとして、見るべきものがあるのではないかと考えています。



武四郎のこの時の道中は、東海道を避けて内陸の道筋の実情を探ることが目的としてあったとは言え、基本的には京への参上が主であったと考えられます。そのために各地で時間をかけて調査を行いながら先に進む道中ではなく、京への道中を急ぎながら、継立人足など道中で出会った地元の人々からの聞き取りに重きを置くことになった様です。その分、継立場以外の沿道各村の記述が薄くなったり、同行した人足らの証言に「日記」の記述の精度が縛りを受けるといった影響が出たと言えます。

こうした武四郎の道中の様子からは、明治政府は武四郎の提案には興味は示したものの、飽くまでも「暫定的な」措置としての迂回路の可能性を即席で探らせようとした意図が窺えると思います。正式なルート開拓が目的であれば、武四郎にはもっと掘り下げた調査の依頼が行き、より多くの時間を掛けた道中になったと考えられるからです。

もっとも、今回は立ち入った解説は出来ませんが、足柄峠以西ではもう少し「日記」の記述に厚みが増している様にも見えます。例えば、足柄峠までの区間には挿画は一切ありませんが、以西の記述の途中には合計で6枚の挿画があります。どの様な記述についてどの程度の文量が増えているのか次第なのですが、あるいは相模国内については「大山街道」として知られている区間が主であるために、比較的「周知」の区間と判断して記事量を削減したのかも知れません。

こうした比較を行うためにも、出来れば残りの区間の記述についても、ここまでの区間と同様の分析を試みたいところです。しかし、神奈川県在住の私には静岡県以西の史料集に当たるのが難しく、同じレベルでの検討は難しいのが実情です。このため、私の分析は神奈川県境に辿り着いたところでひとまず区切りを付けざるを得ません。静岡県や愛知県の郷土史料にアクセス可能な方に、以西の分析は委ねたいと思います。



最後に、足柄峠以西の記述のうち、特に興味深い「大井川の(たらい)渡し」について書いた箇所を紹介し、多少の解説を加えて結びに代えたいと思います。

2月16日(グレゴリオ暦3月28日)に武四郎一行は大井川の畔に位置する「小永井村」(志太郡藤川村小長井、現:静岡県榛原郡川根本町東藤川字小長井)に到着して宿泊し、翌日はここから大井川左岸沿いを下流へ下って「田の口村」(志太郡田野口村、現:静岡県榛原郡川根本町田野口)へと向かいます。そして、ここで大井川を渡河することになるのですが、その記述は次の通りです。

(さて)(ここ)で向越(し)を賴に深サ貮尺五寸、渉り七尺位の盥を川に卸し、是に我等兩人と兩掛并に人足をのせて(さおさし)行に、兩三日の雨天にて水嵩も餘程まし、水勢岸を轉して白浪逆卷て盪出せしに何の苦もなく南岸に着ぬ。此船頭の言に最早昨日より大井川は留りしが、此處は如此、昨夏等は肩越は三十一日留りしが此處は一日も留ざりしと。依て十月位より追々盥越しえ商人等は廻りぬ。然る處渡し場より此盥ごしを故障申來り、其故致し方なく止めたりと語る。

梅島南岸。北岸よりは少し田も多き由に見ゆる。

(「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房 661ページより、以下の引用文も何れも同書より、ルビは原則同書に従い、一部ブログ主が追加)



田野口〜梅島の地形図。右側(左岸側)上方に田野口、左側下方に梅島がある
両者の間は1km以上は離れている(「地理院地図」より)

「東海道山すじ日記」大井川の盥渡し図
「日記」盥渡しの挿画
(「日記」660ページより)
一行は「梅島」(榛原郡上長尾村梅島、現:静岡県榛原郡川根本町上長尾字梅島)に上陸しています。地形図で確認出来る通り、ここは田野口よりはかなり下流に位置しています。当時の渡しが川の流水圧に逆らわない様に対岸やや下流を目指して渡っていたことを考えれば、基本に沿った渡し方ではあるのですが、それにしても殆ど短い川下りと言っても良い程の距離を下流に流れているのは、それだけ大井川の流れが急であったことを反映しているのでしょう。下で触れる通り、この日の大井川は長雨で増水していましたから、通常よりも余分に下流へ流れて対岸へ辿り着いたのかも知れず、実際、後年の田野口の渡しは、梅島よりももっと上流に対岸の上陸地点が設けられていました。

深さ2尺5寸(約76cm)、直径7尺(約212cm)の盥に、武四郎一行に荷物(「両掛」とは天秤棒の両側に振り分け荷物を入れる箱を付けた行李)を載せて、3日間の雨で増水している大井川の急流を、船頭が容易く乗り切って対岸に渡したと書き記しています。更に、船頭によれば、前日から東海道の徒渡しが止まっているが、この渡しは止まっていないこと、前年の夏は東海道は31日も止まったが、ここは1日も止まらなかったと証言しています。このため、10月頃から「廻り越し」を求めてこの渡しまでやって来る商人の姿もあったが、その後東海道の渡しから「廻り越し」を差し止める様に言って来たため、止むを得ず「廻り越し」を中止したとの船頭の言が続きます。


この証言は、この渡しの位置を考えると尋常ではない状況だったことが見えて来ます。東海道の渡しがある嶋田から田野口までは、現在のトンネルなどが整備された道筋でも片道で30km以上も隔たっており、東海道から大井川渡河のためにこの渡しまで迂回するだけでも最低で2日は余計に掛かってしまいます。「日記」では右岸の道程について

扨此川南通り下の方は下長尾、瀨洋、つゝら、石風呂、秡里、家山、小和田、高熊、福用、上尾、横岡、牛尾島、金谷とつゞけり。凡十三里斗のよし

(「日記」661ページより、強調はブログ主)

と、更に長い距離が記されています。しかも、東海道付近よりも険しい山中へと入っていかなければならない道を上り下りしなければならないことになります。

そこまでの遠回りをしてでも、東海道筋で何日も足止めされてしまうよりはましだという判断が出来てしまう程に、当時の川支えが常軌を逸していたということです。恐らくは、廻り越しに応じてくれる渡し場を求めて上流へと向かううちに、遂に田野口まで到達してしまったのでしょう。更には、そこまでの遠回りに対してさえ、東海道筋から廻り越しの差し止めを言って来る程に、他の渡し場に対する締め付けが厳しかった事態が窺えます。

大井川の廻り越しは、実際にはもっと東海道に近い所で行われていました。大井川の場合は主に東海道より下流側を迂回することから「下瀬越し」と呼ばれていました。

正徳元年(一七一一)に下瀬越しや、忍び越しなどの廻り越しは禁止するという定書が道中奉行から出されている(『島田市史』中巻)。このとき「旅人何様にたのむといふ共 御法度之脇道へまはるへからさる事」と規定した。どんな人でも脇道を通って渡ってはならないと定めたのに、川幅が広くなっている下流域は大水になっても歩いて渡れることから大っぴらに渡るものもいて、道中案内書にも廻り越しの案内があったほどである。たとえば寛正四年(一七五一)の『東海道巡覧』(『大井川とその周辺』所収)の金谷宿の条に

宿 大井川洪水の時ハ川下色尾と云所へ廻越川幅広き故川浅し 宿の内右手道有藤枝江出ルなり

大井川 洪水の時ハ色尾へ廻る 金屋より一里有

とある。禁止されてはいても世間では廻り越しは周知の事実となっていた。

掛川藩も藩士が牧之原から色尾経由で江戸へ出たとき、上湯日の庄屋が手助けをしている。また天保十五年(一八四四)に掛川藩の殿様が領地の巡検と遊山をかねて向榛原へ行くとき色尾越えをしている。下流では旅人の手引きをして賃銭をもらうものがいたのである。これに対して島田・金谷宿の宿役人や川越し役人は彼らを捕らえて自分たちの既得権益を守ろうとした。彼らに見つかって罰を受けることを恐れた下流域の人たちは、漁船を利用して海を通って渡るという方法で日銭稼ぎをするものがいたほどである。

このように大井川下流域では役人の目をかすめて川越に手を貸す人足がいたのであるから、田沼街道を渡る人は多かった。先の久保田文書に、藤枝宿からの順路になっているから「御家中方は右道筋御通行成られ」ていた。相良藩の家中によく利用されていたばかりでなく、相良から公用の荷物を江戸屋敷へ継送りするときは、榛原町静波の柏原村、吉田町片岡の上吉田、大井川町上新田、藤枝宿などで継送りをしていた。

(「東海道と脇街道」 小杉 達著 1997年 静岡新聞社 127~128ページより)


大井川の主な下瀬越えの位置
大井川の主な下瀬越えの位置
色尾を経由する道については不詳のため
ここでは色尾の位置のみを示した
田沼街道は藤枝宿付近で分岐するが
大井川を越えた後何処から東海道に
復帰するかは不明
(「地理院地図」)上で作図したものを
スクリーンキャプチャ

西島「田沼街道下瀬越遺跡」付近
進行方向が大井川、左手に立つ標柱に遺跡の案内がある
ストリートビュー

ここで名前が挙がっている「色尾」や、いわゆる「田沼街道」が大井川を渡る西島〜大幡の渡しは何れも島田や金谷よりも下流で、「田沼街道」に当たる現在の富士見橋から東海道の徒渡りの辺りまでで川伝いにおよそ11km余り、色尾はそれよりも上流にありますので、何れも武四郎一行が通過した田野口〜梅島より遥かに東海道から近く、しかも牧之原台地の斜面を除けば基本的には平坦地で道も相応に整備されていましたから、旅程が大幅に遅延する様な廻り道ではなかった筈です。

無論、渡しは地元の人々にも日常の往来のために必要なものでしたから、そうした人々にまで大幅な迂回を強いる様な制約を課す様な無体なことは島田や金谷の人々にも幕府にも出来る筈もありません。しかしながらその分、こうした地元の人のための渡しが陰で旅人を渡す「抜け駆け」の可能性も残り続け、島田も金谷も普段からそこに神経質にならざるを得ない事情があったのは確かでしょう。

とは言え、幕末から明治維新の頃の島田〜金谷の川留めの多さや長さは尋常ではなく、そこに疑問を感じていた武四郎としては、彼なりの「廻り越し」のルートを提言しようという思いもあったでしょう。また、「日記」の終わりにはこの渡し場の問題を綴った、紀行文というよりも「建白書」といった様相の文章が相当に長々と続いて締め括られます。その中では、大井川では川越人足の安全を確保する観点から舟運が禁じられており、沿岸の村々がそこに不満を持っていることを名主から聞いたことが記されるなど、武四郎がとりわけこの渡しに対しては抜本的な対策の必要性を痛感していたと言えます。

もっとも、「日記」の頃には既に、この様な東海道の徒渡りの独占的な状況が瓦解していく直前に差し掛かっていました。

江戸時代には、宿駅制度を守るために他の街道や渡河地点を利用することは、地元の人以外は禁じられていた。しかし、明治になってその原則も揺らいでいつた。谷口村では、毎年冬には護岸工事に用いる河原石や砂利を採取するために仮橋が架けられたが、やがて作業終了後も撤去されずに大っぴらに、旅人の廻り越しに利用されるようになった。

明治二年七月、徳川幕府直参の新番組の人たちが、開墾のために牧ノ原台地に入植したが、彼らの静岡方面への近道として谷口村の仮橋が利用された。翌年には静岡藩主、徳川家達が牧ノ原開墾地を視察するときにも使われた。この仮橋は御用橋と呼ばれて固定化され、誰が教えるともなく往来の旅人が増え、川支えのときには船も用意されて相当の賃銭を取るようになった。そして、その道筋には旅籠も建てられていたようである。

このような動きに対して両宿の役人や川庄屋らは、明治三年五月に「廻り越し取り締まりの願書」を島田郡政役所に提出した。それによると「谷口村や細島村では新規の船をつくり、船賃を取って多くの旅人を渡している。このままでは金谷・島田宿は眼前に廃宿の姿と向かい合っており、心痛している」とある。これに対して郡政役所では「廻り越し制限の回状」を下流の九カ村に出し、村方の者以外の人を案内、川越しをした場合は厳重に処罰を加えるとした。しかしその直後に民部省から、大井川に渡船か橋か便利な方法を設けるようにという通達があり、廻り越しは取り締まられることもなく、存続することになった。

(「大井川に橋がなかった理由」 松村 博著 2001年 創元社 179〜180ページより)


その後程なくして、島田〜金谷の渡しにも舟が用いられる様になって、川越人足の大量リストラが始まり、余剰となった人足の一部はかつての御林などの開墾に向かって、静岡の茶所の基礎を作っていくことになります。

明治政府が江戸時代に構築された街道に関する様々な運用を変更していくに当たって、武四郎の「日記」が果たして何処まで影響を及ぼしたのかはわかりません。また、武四郎がこうした変化が直に起こることをどこまで予測していたかも不明です。しかし何れにせよ、維新後の時代の趨勢の変化の中では、幕藩政治の中で固定的な運用が維持されていた渡しは、早晩に崩壊せざるを得ない命運にあったと言えるのかも知れません。

「日記」に記された沿道の諸事情は、その意味ではこうした大規模な変化が起きる直前の姿のスナップショットであり、江戸時代に組まれた街道にまつわる制度の最終的な姿を読み取れる点で、貴重な存在と言えるでしょう。

その一方で、こういう問題に厳しい目を向けていた武四郎だからこそ、その後の東海道の各渡し場に橋が架けられたり崩落したりしていく変遷の様を、彼の手で記録して伝えて欲しかったとも思うのです。



※追記(2019/03/30):「その2補足」の公開に伴い、記事一覧にリンクを追加しました。
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