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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その7)

前回に引き続き、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」、引用は何れも「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房より)を取り上げます。今回で相模国域の解説を終えたいと思います。



その1で見た通り、十文字の渡しを渡った先で近道を経由した武四郎一行は、次に関本(現:南足柄市関本)で荷物を継いでいます。前回見た通り「峰通り」という抜け道も存在しましたが、今回は少なくとも関本を飛ばす選択はしなかったことになります。

「日記」では関本の街について「畑村にして少し町並有」と書いており、小さな街と見ていたと考えられます。これに対し、「新編相模国風土記稿」(以下「風土記稿」)では

戸數六十五…甲州道の左右に列す、凡四町許、

(卷之二十 足柄上郡卷之九 以下も含め何れも雄山閣版より、…は中略)

と、街道の両側に約400mにわたって街並みが続いていたとしています。更にこの辺りの矢倉沢往還(甲州道)の道幅も「五間許(約9m)」と、当時の東海道の幅に匹敵する広さをもっていたことが記されてます。こうした規模であれば、少なくとも「日記」に「少し」と表現される様な景観ではなかったのではないかと思われます。

松浦武四郎「東海道山すじ日記」吉田島〜関本の近道
武四郎が吉田島→関本間で辿ったと思われる近道
(再掲、概略、
地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)

現在の関本・南足柄郵便局入口交差点
進行方向が矢倉沢方面
その右角にかつての高札場が再現されている
ストリートビュー

もっとも、「矢倉沢通見取絵図」(リンク先は東京国立博物館画像検索のサイト、画像の左が関本の集落)で確認すると、関本の集落はもう少し東の、現在の「竜福寺」交差点より更に小田原寄りの辺りから始まっていました。この「竜福寺」交差点から南へ折れる道が大雄山最乗寺へ向かう道で、関本の集落がこの辺から始まっていたのも立地の点で理解出来ます。

これに対し、怒田から急坂を登って関本に入った場合、かつての高札場があった辺り、現在の南足柄郵便局入口交差点辺りで本来の道筋に復帰したと思われます。この推定が正しいとすると、関本の街には中ほどから入ったため、関本の街を出るまであまり長い距離を通過しなかった上に、恐らくは関本の賑わいの中心になったであろう最乗寺への辻を経由しなかったことになります。当時の関本の継立場の位置がわかりませんが、武四郎一行が通った道の途上にあったのであれば、継立場へ迂回を余儀なくされることもなかった筈です。

武四郎自身の感覚では関本くらいの規模の集落は「小さい」部類に入ると感じられた可能性もありますが、武四郎一行が通った道筋が本来の矢倉沢往還のそれではなかったために、通過した集落の距離が短くなって武四郎に「小さい」と感じさせる結果になったとも考えられるのではないかと思います。



関本を出た武四郎一行は、箱根外輪山の北の山腹を登って行きます。ここからは「片上里」であると「日記」に記されています。この辺りから集落が立地できる平場が少なくなっていくことを、この言葉で表現していると言えます。

関本を出ると「雨坪村、弘西寺村、苅岩村、一色村、」を経て矢倉沢村(現:南足柄市矢倉沢)に入ると「日記」に記されていますが、後ろ2村はそれぞれ「苅野岩村」「苅野一色村」(どちらも現:南足柄市苅野、苅野岩村が関本寄り)が本来の名称です。「日記」の矢倉沢村の記述は次の通りです。

矢倉澤人家二十軒斗。茶屋有。此處關所有しが正月二十六日之御布告にて今は戸を〆切て誰も守者なし。西山の端畑斗なり。二十丁上りまた十六七丁、下りて地蔵堂村人家十七八、是を足柄(あしがら)の地蔵と云り。

(「日記」650〜651ページより)



現在の矢倉沢関所跡
進行方向が足柄峠方面
右手の民家の入口に関所跡の石碑と傍示杭が
立っている(ストリートビュー
「明治2年 法令全書」22〜23ページ
明治2年の「法令全書」より
関所廃止の布告が掲載されているページ
(中程の「第五十九」)
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

ここではまず、明治政府の布告に従ってちょうど閉鎖されたばかりの矢倉沢の関所について記しています。箱根山とその周辺には、箱根の他に根府川、仙石原、矢倉沢、川村、谷ヶの6箇所に関所がありました(矢倉沢にあった裏関所を別に数えて7つとする数え方もあります)が、これらが全て布告によって一斉に閉鎖されたことになります。矢倉沢に置かれていた関所について「風土記稿」は

◯御關所 小名關場にあり、惣構二十間許、領主大久保加賀守忠眞預りて番士を置く、番頭一人、常番二人、先手足輕一人、中間一人、總て五人を置て守らしむ 往来繁き時は番頭一人、先手足輕一人を加ふ、建置の始詳ならざれど、土人の傳によれば、大庭又五郎と云もの、天正小田原落去の後、始て常番人となると云、村内江月院の鬼簿に、又五郎の法名を錄して、慶長十五年八月死すと見ゆ、其子又五郎慶長十九年、小田原御城番近藤石見守秀用の手に屬し、寶曆の頃に至り、子孫大久保氏の藩士となりしとぞ、全く御入國の時、始て置れし所と見ゆ、

(卷之二十一 足柄上郡卷之十)

と原則的に5人体制で運営されていたことが書かれています。武四郎が矢倉沢の関所跡を通過したのは閉鎖布告から20日あまり後だったことになりますが、その時点で既に外郭の幅20間(約38m)の敷地からは人が引き払われ、無人と化していたことがわかります。

武四郎はこの布告を「1月26日」と書いていますが、「法令全書」に記録された布告の月日は「1月20日」になっています。

[第五十九]正月廿日(布)(行政官)

今般大政更始四海一家之御宏謨被爲立候ニ付箱根始諸道關門廢止被 仰出候事

(「国立国会図書館デジタルコレクション」を元にディクテーション、強調はブログ主)

武四郎も京都行きの準備の一環で従来通り通行手形を準備しようとした過程で、この布告によって手形が不要となったことを知ったのに違いなく、従って出発前から事情は承知済みだった筈です。その際に何らかの理由で間違った日付を伝えられたか、若しくは取り違えて覚えてしまったのでしょう。

それまで当然の様に存在していた関所が廃止されて、手形の精査のために時間を取られてしまうことなく素通り出来る様になったことは、当時の人々には多大なインパクトを与える事件であったと想像されます。しかし、「日記」は閉鎖された関所の建物について簡単に触れるのみで、武四郎の心の内を伝える言葉は皆無です。この冷静さはあるいは、この「日記」を報告書として明治政府に提出する腹積もりがあってのことかも知れません。

何れにせよ、この箇所は「日記」の中でも、この旅が行われた「明治2年」という年を最も象徴する記述と言えるでしょう。




ところで、矢倉沢村は本来継立村であった筈ですが、「日記」では荷物を継いだことが記されていません。「風土記稿」では

今は甲州及び駿信二州への通路となる、當村人馬の繼立をなせり、東方關本村迄一里八町、西方駿州駿東郡竹ノ下村迄二里廿九町を送る、但し苅野一色・苅野岩二村と組合なり、月每に上十五日は當村、下十五日は、十日は苅野岩村、五日苅野一色村、

(卷之二十一 足柄上郡卷之十)

と、関本寄りの苅野岩村、及び苅野一色村と3村で交替で継立村を務めていたことが記されています。武四郎一行は11日にここを通過していますから、本来は上の月の担当である矢倉沢村が継立村だった筈です。

ここまで世田谷から長津田の間の二子・溝ノ口下糟屋から神戸の間の伊勢原が継通しで通過されたことを見て来ました。いずれも「日記」の記載漏れであった可能性も否定出来ないものの、他方で何らかの事情で実際に継通しが行われていたとも考えられることを指摘しました。

矢倉沢の場合も記載漏れの可能性と実際に継通しが行われた可能性の両方が考えられます。ただ、関本からは割増の駄賃を支払ってこの3ヶ村での継立を飛ばして竹之下まで継通す運用があったことを、「南足柄市史」の通史編で次の様に解説しています。

三か村分担継立を利用者側の立場にたって見る時、そこに設定された人馬賃銭を宝永五年(一七〇八)の例で比較すると、表3—6のようになる(『市史』2No.198、『市史』3No.156)。つまりこの三か村経由で設定された賃銭の額は「本荷」「軽尻」「人足」共に、関本村から竹之下村へ向かう上りの場合、①矢倉沢村継立②苅野一色村継立③苅野岩村継立の順、竹之下村から関本村に向かう下りの場合、反対に①苅野岩村継立②苅野一色村継立③矢倉沢村継立の順で賃銭額に高低があり、荷送りの日によってわずかではあるが運賃に差が出ることが確認出来る。また、この三か村で継立を行わず、直接関本村から竹之下村まで継ぎ通すことも可能で、その場合の賃銭は前述のいずれよりも高額に設定されており、継ぎ替えの煩雑さを回避した継ぎ通しの有利さが賃銭に反映されていると考えることが出来る。

(「南足柄市史6 通史編Ⅰ 自然・原始・古代・中世・近世」539〜540ページより、強調はブログ主)








関本23
15
12
33
22
17
43
29
22








32
24
16
苅野岩



172
116
84
48
32
24


苅野
一色


160
108
78
62
41
31




矢倉沢148
100
72
359
239
177
222
147
111
212
140
106
200
132
100
竹之下

※各項目3つの数字は上から本荷/軽尻/人足(1人当たり)による継立の際の駄賃。単位は「文」。

※「—」は該当運用なし、「?」は記載なし

※「関本」の縦の列は「関本村明細帳」より、それ以外は「小田原藩からの人馬賃銭御尋ねにつき回答書」より該当する数字を拾って構成。

ここで「南足柄市史 通史編」に掲載されている「表3-6」が、継通し時の駄賃の事情を理解するには今ひとつわかりにくいので、指示されている2つの史料を元に別の表を作成することにしました。2つの史料は「関本村明細帳(相模国足柄上郡西筋関本村指出帳)」(宝永5年・1708年、「南足柄市史2 資料編 近世(1)」498〜503ページ)と「小田原藩からの人馬賃銭御尋ねにつき回答書」(宝永5年、「南足柄市史3 資料編 近世(2)」437〜438ページ)です。この2つから関本〜竹之下間の賃銭を抜き出して整理すると、右の表の様になります。


関本〜
竹之下
継通し
関本〜
苅野岩
〜竹之下
関本〜
苅野一色
〜竹之下
関本〜
矢倉沢
〜竹之下
359
239
177
254
171
127
260
172
130
262
173
131

※各項目3つの数字は上から本荷/軽尻/人足(1人当たり)による継立の際の駄賃。単位は「文」。

更に、この表から関本から竹之下までの下りの継立で、途中の3村のいずれかで継立を行った場合の駄賃を計算すると、右の表の様になります。中間の3村の何処が請け負ったかによって若干の差異はあるものの、いずれの場合も、「南足柄市史 通史編」の指摘通り、継通した場合の方が駄賃が50〜100文前後割高になる様に設定されています。それによって中間に位置する継立村を「保護」していた訳です。

幕末から維新の頃にはインフレが相当に進んでいましたので、宝永5年から160年余りも経った「日記」当時の駄賃はこの通りではなかった可能性が高いですが、比率の面では変動はなかったのではないかと思われます。何れにせよ、駄賃を少しでも安く済ませたいのであれば、この3ヶ村でも継立を行う選択をすることになりますが、その分だけ荷物を載せ替えるための時間が余分に掛かることになります。関本村の人足にとっては、継通しを請け負うと4里あまりの長丁場である上に足柄峠越えを含む厳しい荷運に挑むことになるのですが、矢倉沢までの僅かな距離の少額の継立を請け負うよりは、駄賃を稼ぐ良い機会であった訳です。

武四郎はこの区間では、少しでも先を急ぐために竹之下までの継通しを選択した様です。まだ日の短い冬場の旅路のことですし、まして山中とあれば日暮れの早さを念頭に置いておかねばなりません。関本の継立場に到着した時点で何時頃になっていたのか、「日記」には記されていませんが、出来れば暗くなってしまう前に宿泊地に着きたいと思えば、懐事情に問題がない限りは関本からの継通しを選択したとしても不自然なことではありません。

その点では、ここまでの3箇所の継通しの中では、この関本から竹之下の継通しが一番記述に確証があると言えそうです。




現在の地蔵堂。右手が足柄峠方面
ストリートビュー
矢倉沢「旧」関所を過ぎると、20町上って16~7町下った所に「地蔵堂村」があり、人家が17~8軒並んでいたことを記しています。現在は県道78号(足柄街道)となってアップダウンを平坦化されている矢倉沢往還は、当時はもっと沢に降りていく道筋であった様ですので、ほぼ「日記」の記載通りの道筋であったと言えます。「日記」では「地蔵堂村」と表記していますが、この場合の「村」は「集落」くらいの意で、実際は足柄峠まで矢倉沢村の内です。


地蔵堂については「風土記稿」では

◯足柄地藏堂 聖徳太子の作佛を置、長五尺二分、六緣山誓廣寺の號あり、相傳ふ、往古駿州仁杉駿東郡に屬すと云處に、杉の大樹あり、靈木の聞えあれば、其木を伐り、當所及駿州竹ノ下村駿東郡の屬、當國板橋村足柄下郡の屬、の三所に、一木三躰の作を置と云、堂は文化十四年囘祿に罹り、文政十一年再建す、正七の兩月十四日を緣日とす、七月は殊に參詣のもの多く、駿州御厨邊の村々よりも參詣す、乳を病なる婦人立願すれば必其驗ありと云江月院持、下同、

(卷之二十一 足柄上郡卷之十)

と紹介しています。当時はかなりの参拝者を集めていたこともあり、人足からその旨武四郎に説明があったのでしょう。



地蔵堂を過ぎた先の「日記」の記述は次の通りです。

また九折いよいよ嶮處を上る一りりて(ママ)

足柄峠地蔵堂有。甘酒をうる。八郎兵衞と云者一人住り。是駿相の境なり。是より南の方を眺むれば沼津、原、吉原、一目に見ゆ。また東の方は峯つゞき。楮〔猪〕鼻岳を越て仙石原の方に出るに、然し是は雪時ろう獵人共が往來する斗のよし。西の峯つゞきは阿彌陀木、矢倉岳等。其後ろは谷村(やむら)の關所に當ると。是より片下り一り八丁。往古の湖道なれば其麓に至ては並松の大樹等、今に其比の者〔物〕といへるもの殘れり一り

(「日記」651ページより)


足柄峠で少し休憩をとって周囲の山々や遠方の宿場などを見ています。「日記」の「楮鼻岳」の表記が引用元の紀行文集では「猪鼻岳」と修正されていますが、これは「金時山」の別称です。足柄峠からは、この金時山を経由して尾根伝いに仙石原へ抜ける道が存在していますが、こうした地元民だけが使う道筋は地元の人間でなければ知り得ない話でしょうから、継立人足などから得たものと思われます。上記の通り既に廃止された谷ヶ(現:足柄上郡山北町谷ヶ)の関所の位置を記しているのも、やはり今回の旅路がどの様な場所を経由しているのか、他の拠点との位置関係で理解出来るようにという工夫からでしょう。

「新編相模国風土記稿」雄山閣版第1巻足柄嶺眺望圖
「風土記稿」卷之二十一 足柄上郡卷之十
矢倉沢村の項中「足柄嶺眺望圖」
富士山の姿が大きく描かれている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より
該当箇所のみ切り抜き、画質補正)
足柄峠からの富士山
現在の足柄峠からの眺望
やはり富士山の存在感の大きさが際立つ
(By Jungle(著作権の主張に基づく)
投稿者自身による作品(著作権の主張に基づく),
CC 表示-継承 3.0
via Wikimedia Commons

一方ここには、東から足柄峠に登って来たのであれば、とりわけ際立つ存在になる筈の山が挙げられていません。それは「富士山」です。「風土記稿」でも足柄峠からの眺望が描かれていますが、それと共に

河内

足柄の山の峠にあがりてぞ一本けふきてそに作る、富士の高嶺の程は知るゝ堀川百首

(卷之二十一 足柄上郡卷之十)

という歌が掲載されています。これらが示す通り、足柄峠からは富士山はほぼ西北西の方角に見えますが、その間には他の山が全くなく、広い裾野を持つ富士山のほぼ全体が見渡せるスポットです。

時間帯や天候の影響も考えられるものの、ここまでの「日記」の記述には天候が悪かったことを窺わせるものはありません。旧暦2月ならまだまだ乾いた澄んだ空気を期待出来る季節であり、富士山が見えにくい状況にあったとはあまり考え難いところです。

それにも拘らず「日記」に記載がないのは、やはりその目的が新政府への報告書として読まれることを前提にしているからでしょう。武四郎としては「本道」である東海道との位置関係の方に関心があり、そのことがわかりやすい地点を挙げたものと思われます。その点では、多くの地点から「見えてしまう」富士山は、却って報告に含めるのは相応しくないと判断したのかも知れません。



これでようやく駿相国境まで辿り着きました。次回簡単にまとめと補足を行いたいと思います。



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