善波峠を越えた武四郎一行は、その先で十日市場(現:秦野市本町・元町等、「本町四ツ角」交差点周辺)と千村(現:秦野市千村)で荷物を継いでいます。十日市場を出た先の道筋について、「日記」には次の様な記述があります。
是より上道、下道有。其下道は山坂は無れども道遠き故に近道の方を行に、澤まゝ細道を上りて一り
(「日記」650ページより)

(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
左手の道がかつての小田原道・矢倉沢往還の「下道」と
考えられるが、県道ともかなりの上り坂
(ストリートビュー)
善波峠を越えると、矢倉沢往還は秦野盆地の中へ入ります。十日市場も千村も秦野盆地の中に位置しますが、先日の修正で示した通り、十日市場から秦野盆地を抜ける道筋は2通りあります。1つはこの「日記」で辿った千村を経て四十八瀬川(川音川)沿いに降りて神山(現:足柄上郡松田町神山)へ向かう道であり、もう1本は曲松(江戸時代の渋沢村の小名、現:秦野市曲松)で南に曲がり、「小田原道」を経由して篠窪(現:足柄上郡大井町篠窪)に入り、そこから神山へと下る道です。
「日記」ではこの篠窪経由の道を「下道」と呼び、山坂はないが遠回りであると評されています。この評価は地元の人足などのものということになるでしょう。「新編相模国風土記稿」では
と、篠窪経由の道は四十八瀬川(川音川)が増水して通行不能になった時の道であるとされているのですが、「日記」の書き方に従えば必ずしもその様な使い分けではなく、単に急坂を避けたいかどうかで使い分けていたことになります。千村を経由する道については「上道」と呼んでいたことになりますが、先を急いでいたと思しき武四郎一行はこの「近道」を行ったことになります。一は矢倉澤道なり、大住郡千村より四十八瀨を越え、郡中松田惣領に達し、四十八瀨水溢の時は、大住郡澁澤村より本郡篠窪村に入、神山村にて本道に合す、此道を富士往來とも云、十文字渡を越え、和田河原村に至て、甲州道に合す、行程一里三十町許、幅九尺より一丈に至る、
(卷之十二 足柄上郡卷之一 雄山閣版より、強調はブログ主)
もっとも、秦野盆地から篠窪の集落へと抜けてくるまでの道筋、更にその先で神山へと下る道も十分に「山道」と呼べそうな傾斜のある道ではあるのですが、当時の現地の人の感覚ではさほどの坂道ではないと受け取られていたのでしょうか。比較の対象になりそうなのは千村から先の四十八瀬川へ降りる「つづら折り」の坂(リンク先「今昔マップ on the web」)ということになりそうですが、「日記」からはそこまでの坂とは武四郎に受け取られなかった様に見受けられます。
この付近には沢があったことを示すものは見当たらない
(ストリートビュー)
この道を東へ辿ると上今川町の辺りにも
開渠があって水無川への合流が見えるが
地形図上では反映されていない
(「地理院地図」より)
また、「澤まゝ細道を上りて」は千村に到着する前の様子を書いていることになるのですが、曲松の分岐を過ぎると確かに上り坂があるものの、その麓には沢は見当たりません。過去の地図でもこの坂の近くに川筋は描かれていません。「沢まま細道」の「まま」とは、恐らく「随」の意と思われ、沢沿いを進む道であったということと解釈出来ます。それに近い川を探すと、秦野盆地の中央部を流下する「水無川」に合流するごく細い流れが、かつての矢倉沢往還の道筋と付かず離れずの位置に点在しており、その前後は道路の下辺りを暗渠になって流れていると考えられます。武四郎が言っているのは、あるいはこうしたごく細い流れのことなのかも知れません。
現在では大半が暗渠化されてしまっていて、当時の様子を窺うのが難しくなっていますが、過去の空中写真を検討した限りでは、現在の「保険福祉センター前」交差点西側の三叉路辺りから上流はかつての矢倉澤往還には沿わずに北側に逸れている様に見受けられます。その点で、「日記」の中ではごく短い表現に縮小されているものの、実際はかなり離れた複数の沿道風景が1つにまとめられていると考えられます。
この坂を上がった場所にある千村については、「日記」では肥えた土地であり、人家も富んでいることが記されています。その先の道筋については
と、つづら折りになった道筋を降りて四十八瀬川の畔に出ると、その途中に山稼ぎをしている人が営む茶店が1軒あったことを記録しています。ここまで「日記」ではこうした沿道の施設について継立場以外では積極的に記していませんが、ここで敢えて茶店の存在を記したのは、沿道の風景が山間のものに変化したことを意識しているのでしょうか。從レ是九折を下ること凡半里と思ふて川筋に出て、茶店一軒。山稼の者住するよし。此川の此方彼方をたどり下る。是を四十八瀬と云よし一里。
(「日記」650ページより)
千村の次に武四郎は「神山」で荷物を継いでいます。武四郎は水田が多い村としていますが、山がちな地形から見て実際に水田が作れるのは川音川の周囲だけでしょう。継立を行っているのは名主家であることを記していますが、ここで「日記」には継立の運用について次の様に記されています。「その2」で既に一度引用していますが、改めてその箇所を掲げます。
この部分の意味する所を次に考えてみたいと思います。近年迄向なる松田村と云にて繼立し由。按ずるに是は松田村にて繼其よりすぐに矢倉澤へ行ば便利なりといへるに、(是を當所にて繼關本へやらば何か通り道の樣にいへけり)今に商人荷物は松田村に繼矢倉澤にやるなり。
(「日記」650ページより)
神山や松田の矢倉澤往還の道筋や継立については、地元でかなり積極的に研究されており、先日紹介した「善波峠〜足柄峠 矢倉沢往還ウォーキングガイド」のみならず、「松田町史」に相当する「まつだの歴史」(1977年 松田町)など、折に触れて出版物にて紹介されて来ています。その研究成果を「日記」の記述と照らしてみましょう。
まず確認が必要なのは、松田惣領の字町屋は惣領の本村とは離れた場所にあったということです。本村は川音川の北側、町屋は神山と同じ南側にありました。そして、矢倉沢往還の継立は次の様に神山と町屋が受け持っていました。
神山村と松田惣領は当時、この矢倉沢往還の継立村に定められており、神山村は字清水が、松田惣領は字町屋がそれを行っていた。次の史料はこの神山村のものである。
覚
一 村高家数其外書上の内
脇往還、青山筋より矢倉沢街道
右御継送りの義は、御先触これあり候節は、曽屋村より千村へ継立、千村より当村へ受取、夫より関本村へ継立来り申候
右御尋ニ付、書上奉り候ところ、相違なく御座候、以上
嘉永三庚戌年六月 神山村
百姓代 徳右衛門(印)
(以下略)
この神山村の書き上げにもあるように、清水は上り、町屋は下りの継立をそれぞれ行っていたが、幕府滅亡の慶応三年(一八六七)八月公用人馬の継立が次のように改定された。
一 御朱印・御証文人馬上下とも継立の儀は神山村の名目にて御帳面相記し、かつ御役所へ届ニ相なり候儀は、これ又神山村にて仕り、人馬遣い方は神山村と町屋にてこれを相分け勤方いたすべく候、御朱印御休泊の分同断にいたすべく候、
この史料によれば、公用人馬の継立や休泊は上り下りともに神山村の名目で行い、人馬の提出や諸経費にっいては両村(清水・町屋)でこれを分担していたのである。
(「まつだの歴史」146〜147ページより、ルビも同書に従う、一部改行略)
「まつだの歴史」では引き続いて安永年間の私的継立や駕籠の運用を巡る両継立場の取り決め等について紹介していますが、これらの記述からは、神山と町屋の間では継立を巡って運用の調整が幾度となく行われていたことがわかります。
「日記」の最初の記述は継立の運用の変更に触れていますから、神山と町屋の間での継立を巡る運用調整の経緯について、何かしらの説明を武四郎が受けたものとは考えられます。しかし、「
近年迄向なる松田村と云にて繼立し由」は、京へ向かう継立は上りに当たりますから、武四郎一行の荷物は運用変更前も神山で継いでいだ筈であり、その点では武四郎は運用の実態を必ずしも理解出来なかったことになります。
一方、幕末の頃には松田惣領内でこんな諍いもありました。
「[足柄]上郡誌」の伝記部に、かっての足柄上郡長であった中村舜次郎氏の伝記が載せられている。その文中に、同氏が十六オの時、神山村・町屋の人々と、松田惣領の本村部の人々との間で、青山街道といわれていた往還の本筋はどちらが正しいかという争論が起こり、これが大事件となったことが記されている。年数から数えると、文久三年(一八六三)のことである。
…
この街道の経路について、町屋の人々は、字下ノ茶屋より神山・町屋を経て十文字渡場に至る路線が本街道だといゝ、松田本村の字川内・大門・谷戸・沢尻などに住む人々は、下ノ茶屋より直に川内・大門・沢尻・大文字と来るのを本道と主張した。そこで結着を小田原藩に訴えて求めたが、本村部の申し立ては元よりとおらない。そこで彼らは江戸へでて直訴しようとして十六オの中村氏の同行を同氏の父に強く要求したが容れられなかった。結局、江戸へでて直訴に及んだ主謀者たちは捕えられ、藩に下げ渡され、二年も取調べもなく牢獄に幽囚されたまゝであったという事件である。
井上氏は、この事件の発端を、「本道争論」といっても名称の奪い合いでないことは明白であり、同時に幹線道路としてのあり方から起こったけんかでもなく、酒匂川の流路の変更や十文字渡し場の少しずつの移動という自然の変化に伴って、少しでも便利な道が生まれ、これによって、おのずと古い道によって繁栄して来た人と、新しい道をより多くの人々の往来によって賑やかにしようとつとめる人々との対立という経済的要因に見出されている。そしてそれは、十文字渡しを渡って小田原道を通り、今の新松田駅前から「お観音さん」の所に出る道で、こゝから籠場に出る近道がおのずと発達したのである、といわれている。
(「まつだの歴史」146〜147ページより、…は中略、[ ]内はブログ主注)
1863年ということは、諍いがあったのは「日記」の6年前ということになりますから、関係者の間でもまだ記憶に新しい騒動として記憶されていたでしょう。「日記」ではこの話には触れてはいない様にも見えますが、「
松田村」の位置を「
向なる」と書いているのが気になります。継立場のことを言っている以上は町屋を指す筈と思うのですが、神山から少し道を進んだ場所にある町屋の集落を「
向なる」と表現するのも少々不自然であり、もしかすると川向かいに位置する松田惣領本村を指すつもりで書いたのかも知れません。だとすると、あるいは武四郎はこの騒動についても話を聞かされていたのかも知れません。
他方、「南足柄市史」(1999年)では上記とは別に「峰通り」という脇道の存在を紹介しています。
「峰通り」は、矢倉沢関所の下手に位置する苅野一色村から怒田丘陵に上がり、内山・小市・班目の各村を経て酒匂川左岸へと渡り、川村向原から松田村を抜けて矢倉沢往還の十日市場(秦野市)へと至るバイパスルートで、この道が利用されるようになると、関本村は道筋からはずれてしまうこととなり、駄賃稼ぎや宿泊料収入によっている同村の経営は大打撃を受けることとなるわけである。
(「南足柄市史6 通史編Ⅰ 自然・原始・古代・中世・近世」542ページより)
そして、江戸時代中この「峰通り」の通行を取り締まる様に、関本が小田原藩に訴え出た事例が2点ほど紹介されています(同書542〜544ページより)。これに対して小田原藩は明確な解決策を示さなかったため、関本が見張りを立てていてもこの道を抜けて行こうとする人足が跡を絶たなかった様です。

(「南足柄市史6 通史編Ⅰ」542ページより)
按ずるに」以下の記述は松田から直接矢倉沢へ向かうことについて書いており、これはこの「峰通り」を経由した場合に良く合致する考察ではあります。とは言うものの、「峰通り」はそもそも公の継立を通す道筋として認められてはいませんでしたから、近年まで松田村で継立をしていたという前段の話とは噛み合いません。
以上、松田付近の道筋や継立の運用にまつわる話を一通り紹介しましたが、どの話も「日記」の記述とは上手く噛み合わないことになります。これも武四郎の理解が混乱してしまったものと考えられますが、少し不思議な箇所があります。
ここまで見て来た通り、上記の一連の話を初めて訪れた人に理解してもらえる様に話そうとすると、かなりの時間が必要になる筈です。「日記」がここまで道中の様子について専ら見聞を記す表現に徹していたものが、ここで初めて「按ずるに」という私見を述べる表現を用いており、自分なりに状況を咀嚼しようとしていることからも、ここで相応量の情報を得ている筈と考えられます。
基本的に先を急いでいる武四郎相手に、荷物を担いでいる人足が、この様な入り組んだ話を歩きながらするだろうか、という点が疑問です。また、こうした事情をきちんと整理して理解しているのは、どちらかと言えば村役人などの首脳クラスでしょう。
とすると、この話は継立場で村名主から聞かされた可能性が高くなりますが、先を急いでいた武四郎一行が、それほどの長時間を継立で荷物を受け渡したりするために過ごしたとは考え難いところです。無論、わざわざこうした事情について名主に訊くために時間を割いたと考えるのも不自然です。
但し、ひとつ考えられることがあります。実は武四郎一行は2日目のこの日は最終的に足柄峠を越えた先の竹之下(現:静岡県駿東郡小山町竹之下)まで進んでいるのですが、「日記」ではこの日の昼食を摂った場所の記述が見当たりません。初日は長津田で昼食を摂ったことが明記されていますから、2日目に関しては書き漏らした様です。
この先では次第に山が深くなることもありますので、その前に昼餉を済ませておきたいところです。その点では、2日目に厚木を発って神山まで7里余りを進み、この先竹之下までもやはり7里余りを残す丁度この辺で昼食を摂るのが、一番頃合いが良さそうです。それであれば、名主の家でじっくり食事をしながら、神山や町屋、松田惣領本村を巡る継立事情などを時間をかけて聞かせてもらったとしてもおかしくなくなります。「日記」の記述が結果的に長めになったのもその点を反映したものではないかと個人的には考えています。ただ、それでも初めて訪れた土地の事情をその場の話だけで理解するのは、難しかったのかも知れません。
次回で相模国域の記述についての分析を終える予定です。
追記(2018/11/09):数箇所の文言の欠落を補いました。
(2021/12/16):「今昔マップ on the web」へのリンクを修正しました。