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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その5)

前回に引き続き、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」)を取り上げます。今回は国分以西の継立や沿道についての記述を見ていきます。



武四郎は旅の初日に長距離を進み、「その1」で見た「厚木の渡し」を渡って厚木(現:厚木市厚木町、他)の街に入ります。この街について「日記」には

三千軒の市町にして豪商有。惣而生糸眞綿類をあきなふ店多し。また川船も町の下に(つき)て妓等も有よし。別而大山比には盛なりとぞ聞り。

(「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房 649ページより、ルビも同書に倣う、以下の「日記」引用も同書より)

と記されています。

渡辺崋山の「游相日記」では、崋山はこの街に数日間留まって、街の有力者などと連日会ったり写生に出かけたりした様子を詳しく書いています。それに対して武四郎の場合は西への旅路を急ぐ中での1泊ですから、この街の様子を自分の目で見て廻ったと言うよりは、多くは宿泊先で聞いた情報を書き記している様で、伝聞を示す語尾が目立ちます。「三千軒の市町」というのも、「新編相模国風土記稿」では実際の家を「三百三十戸他長吏八戸」(卷之五十五 愛甲郡卷之二)と「日記」の10分の1程度の数を示していますから、地元の人が誇張して武四郎に伝えたのでしょう。

実際、武四郎は翌朝も宿を急ぎ発って更に矢倉沢往還を進みます。厚木からは一旦岡田(現:厚木市岡田)まで南下した後、西へ折れて愛甲(現:厚木市愛甲東)へと向かいます。愛甲村では農家ばかりで荷継は名主家で行ったことを記したのに続き、「日記」には次の様な記述が見られます。

按ずるに厚木より糟谷に行には此處までは下らず。直道を船子村え切り候はゞ餘程近くぞ覺ゆ。

(「日記」649~650ページより)


土地勘がない武四郎にも、西に向かう前に南下して幾らか遠回りをしていることに、朝日や並行している相模川の位置などで気付けたでしょうから、もっと近道があるのではないかと彼の荷物を担いでいる人足に話しかけたのかも知れません。一方、船子村(現:厚木市船子)の名前は流石に武四郎が知っていたとは考え難く、恐らくは人足から伝え聞いたのでしょう。街道の周囲が水田であったと「日記」にも記されていることから、遠方まで視界を遮るものが殆どなく、あるいは街道から船子村の集落が水田越しに見えていたかも知れません。

厚木付近の国道246号線の変遷
厚木付近の矢倉沢往還→国道246号線の変遷
青線:かつての矢倉沢往還の道筋 黄色線:旧246号線の道筋
橙色線:現在の国道246号線(大和厚木バイパス)の道筋
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ
明治期の低湿地(リンク先PDF)」を合成しているが、水田を示す黄色が大きく拡がっている)
「今昔マップ on the web」で同地の地形図や空中写真の変遷を見る

実際、明治初期に編纂された「迅速測図」で見ても、厚木村の西側は広大な水田地帯になっており、ここを抜ける道は畦道としてはあったと思われるものの、旅人や荷継などが通過するには足下が十分ではないぬかるみやすい道筋であったのでしょう。「その1」で取り上げた十文字の渡しから関本へ至る道筋の様に継立の抜け道として使うには、整備が行き届いていなかったであろうと考えられます。

かつての矢倉沢往還は昭和31年(1956年)国道246号として指定されますが、厚木付近はその後の整備によって道筋が大きく変わり、船子の地を通過する様に付け替えられました。「日記」からは実に80年以上の歳月が過ぎていました。武四郎が連れの人足と語り合ったのであろう「船子経由の近道」は、図らずも遠い将来の国道の通過地を「予言」する形になりました。

これが実現するためには、一帯の水田を埋め立てて市街地へと大規模に作り替える再開発計画を、待つ必要があったということになるのでしょう。過去の地形図や空中写真で変遷を追うと、国道246号線が最初に船子を経由する様になった1960年代には、一帯にまだ広大な水田が残っていたものの、大和厚木バイパスが開通した1970年代には、周辺が急速に市街地に切り替えられているのがわかります。現在では、旧246号線が恩曽川と並行して進む厚木市温水(ぬるみず)の「赤羽根」付近では水田が僅かに残っているものの、現在のバイパス周辺にかつての水田地帯の面影を探すことは、殆ど不可能になっています。



File:Tokaido07 Hiratsuka.jpg - Wikimedia Commons
宝永堂版「平塚:縄手道」
高麗山の丸い特徴のある形が強調されている
当時の浮世絵で平塚宿を描く場合
かなりの確率で高麗山が取り上げられている
(By 歌川広重
- The Fifty-three Stations of the Tokaido,
パブリック・ドメイン,
via Wikimedia Commons
Mt.Komayama(高麗山).JPG
現在の高麗山(2006年撮影)
独特の山体は現在も当時のまま
(By FlyMeToFullmoon(著作権の主張に基づく)
投稿者自身による作品(著作権の主張に基づく)
パブリック・ドメイン,
via Wikimedia Commons

その愛甲からは、

爰では高麗寺山(かうらいじさん)近くに見ゆ。

(「日記」649ページより)

と、東海道の平塚宿の西に位置する高麗山(こまやま)が比較的近くに見えると書いています。この山については、善波峠の記述でも

此處眺望甚よろし。後ろの方を顧すれば馬入川より高麗寺山、大磯小磯の岬、國府(こふ)、梅澤もあの當りと、

(「日記」650ページより)

と、馬入川(相模川)から高麗山を経て大磯や国府津までの遠景を一時足を止めて眺めていた様です。


矢倉沢往還と東海道筋の各拠点の位置関係
矢倉沢往還と東海道筋の各拠点の位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)
愛甲から高麗山までは直線距離で約10km、善波峠からは9kmほどと、どちらもそこまで「近い」と言える距離だったかは微妙なところです。それでも、武四郎の目には「高麗山」の姿は容易に目に付いたのでしょう。彼自身は郷里である伊勢・松阪から東への往来などで、大磯宿から平塚宿付近を通過する際にこの山の姿は何度となく目にしているであろうものの、それらは何れも南側から、そしてかなり近くからの姿であった筈です。それに対して、「日記」の際の「高麗山」の姿は北側から、それもかなり離れた場所から眺めたものとなり、勿論武四郎には初めて見るものだったでしょう。それでも武四郎に「あれが『高麗寺山』か」と認識させる程度に、高麗山の位置と形は独特のものであったということが言えます。

彼にとっては、不慣れな道を急ぐ道中にあって、通い慣れていたであろう東海道との位置関係を認識し得るひと時ではあったでしょう。同行する人足からのアドバイスも受けた可能性もありますが、「高麗山」の独特の姿や位置は、その位置関係を彼に容易に知らしめる役目を果たしたと言って良さそうです。



下糟屋・伊勢原・神戸付近の地図
下糟屋・伊勢原・神戸付近の地図
参考のために「田村通り大山通り」を追加
(「地理院地図」状で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)

下糟屋・高部屋神社とかつての矢倉沢往還
当時の集落はこの辺りに集中していた
ストリートビュー

愛甲を出た武四郎が、「その2」で取り上げた善波(現:伊勢原市善波)で荷を継ぐまでの間に、「糟谷」(下糟屋、現:伊勢原市下糟屋)と「神渡」(神戸(ごうど)、現:伊勢原市神戸)の2箇所で継立を行っていることを記録しています。どちらも大山詣での頃には賑わうことを記しています。

しかし、この区間の継立村は、他の史料で確認する限りでは若干異なっています。まず、「新編相模国風土記稿」で各村の記述を拾うと次の様になっています。

  • 下糟屋村(卷之四十四 大住郡之三):

    脇往來四條係れり、大山道幅二間下同矢倉澤道・伊勢原道・田村道等なり、人馬繼立をなす、矢倉澤道は、北、愛甲郡愛甲村へ一里、南、郡中伊勢原村へ十八町、

  • 伊勢原村(卷之四十六 大住郡卷之五):

    往還四條三條は大山道にて、其一は東海道の内、四ツ谷村より入る、一は大磯平塚邊よりの道、一は下糟屋村より來る、此三路は東南の方にて合し、一條となる、幅三間餘、一は金目觀音道なり、幅一丈、係れり、民戸百六、往還の兩側に連住し、時用の物を鬻ぎ或は旅店をなす、每年大山祭禮の頃は殊に賑へり、當村人馬の繼立をなす乾の方、上子安村へ一里、巽の方田村へ二里、艮の方愛甲郡愛甲村へ一里餘、西の方善波村へ一里繼送る、御鷹匠通行の時は田中・沼目・上下平間・大竹・下糟屋等の村々より人夫を出して是を助く、

  • 神戸村(卷之五十 大住郡卷之九):

    往還四條係る大磯道・矢倉澤道・大山道・伊勢原道等なり、各幅二間此所人馬繼立場にはあらざれど、官事には、善波十八町下同、伊勢原・富岡凡一里、等の村々へ繼送る事あり、

(以上何れも雄山閣版より、強調はブログ主)


見ての通り、ここに挙げた3村は何れも矢倉沢往還の他にも主要な道が通り、交通の要衝となっていたことがわかります。とりわけ伊勢原(現:伊勢原市伊勢原)は大山詣でに向かう中継地として特に賑わった地であり、継立でも要衝となっていたことが示されています。しかし、「日記」では伊勢原の名前は出て来るものの、この街については特に何も記されておらず、継立についても記載はありません。また、「日記」で継立を行ったとしている神戸については、通常は継立場ではなく、公儀の継立の際にのみ人馬を出していたとしており、その点では公儀とは言えない武四郎一行が神戸で継立を行っている点と整合しないことになります。

また「風土記稿」の記述自体も、下糟屋村の記述では同村からは伊勢原まで18町、つまり半里(約2km)を継ぐとしているのに対し、伊勢原村の記述の方は同村から江戸方の継立先は愛甲としており、下糟屋村の記述と噛み合いません。こうした不整合は特に大住郡の街道の記述に多く、恐らくは村からの報告をほぼそのまま記したのでしょうが、これをどの様に解釈すべきかも課題となってきます。

一方、「その3」でも紹介した、天保9年(1838年)の「相州青山往還宿々控帳」(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」所収、307~310ページ)で、この区間の記述は次の様になっています。

嶋織部知行所外弐給/同州愛甲郡愛甲村

一高九百五拾九石余

月番/名主/定七

内高弐百弐拾壱石/戸塚宿へ助郷相勤申候、

此間粕屋村有り

伊勢原迄壱里

飯河三郎知行所/同州大住郡伊勢村(原脱)

一高四拾七石

月番持/組頭/善兵衛

善波村迄壱里

伊勢原ゟ善波村之間/板戸・白根・神戸

田原清之丞知行所/同州同郡善波村

一高三百拾三石

名主/清吉

内半高/東海道平塚宿へ加助郷相勤申候、

近来相州はたな領御鷹匠内山七兵衛組御野先相成候付、 御鷹御用相勤候故、前後継場村〻ニ而ニ而往還役相勤申候、

曽屋村迄壱里

此所善波峠と申難所なり、

(上記書308ページより、一部改行を「/」に置き換えの上、文意に合わせて適宜単語を入れ替え、強調はブログ主)


こちらでは、下糟屋村(粕屋村)は継立村に入っておらず、愛甲の次は伊勢原で馬を継ぐことになっています。その点では「風土記稿」の伊勢原村の記述と整合していることになります。また、神戸村はこの文書でも継立村に入っておらず、公儀の際の継立についても触れられていません。

何れにせよ、「日記」の継立はこうした記録に見られる継立村の配置と上手く合いません。何故この様な事態になったのでしょうか。

考え得る可能性の1つは、「その2」で二子・溝の口や荏田を「継ぎ通し」した問題を取り上げた時と同様、武四郎の記憶違い、もしくは書き間違いでしょう。「下糟屋」を「糟谷」と書いていたり、「神戸」を「神渡」と書いていたりと、ここでも地名表記の漢字が現地で一般的に使われていたものとは異なっています。記述の精度に留保がつく以上、何かしらのミスが紛れ込んだ可能性を考えない訳には行きません。しかし、「日記」の記述の何処がどの様に間違っているのかを具体的に示すことが出来ない以上、可能性があるという以上の指摘をすることは出来ません。特に、神戸村の記述がこの様な形で「日記」に登場する部分については、ここで何かしらの所要を済ませたのでないとすると武四郎の記憶に留められているのが不自然になりますから、かなり確度が高いのでしょう。

他方、「日記」の記述通りに継立が行われたとすると、何故伊勢原を飛ばして「継ぎ通し」されたのか、普段は継立を行わない筈の神戸村がどうしてこの時は荷を継いだのか、その理由を探る必要があります。世田谷から長津田までの長距離を継いだ際には、何かしらの不正が行われた可能性を考えましたが、下糟屋から神戸の区間ではこうした不正は行い難かったのではないかと思われます。上記で見た通り、下糟屋から伊勢原まではわずか半里と至近にある上に、以下で見る通りこの2つの村は組合などの活動を通じて交流が深いことから、双方の村民が顔を見知っている可能性が世田谷の例より遥かに高いからです。

しかし、「伊勢原市史」に掲載されている当時の文書を探した限りでは、幕末のこの区間の継立の事情を直接説明出来るものを見つけることは出来ませんでした。特に神戸村に関しては近世の現存文書がないと「伊勢原市史 資料編 近世2」に指摘されており、この村の立場からこの問題を考えるのはほぼ不可能な状況にあります。ただ、「伊勢原市史 通史編 近世」に記されていた明治維新直後のある「事件」が、あるいはこの問題を考える上でのヒントになるのではないかと思えました。そこで今回は、これを手掛かりに個人的な見解を述べてみたいと思います。

同書の「第4章 伊勢原の町」中の「第9節 伊勢原村寄場組合」では、幕末に関東一円の村々で組織された「寄場(よせば)組合」について、伊勢原とその周辺の村々の諸事情について紹介し、解説しています。文化2年(1805年)に幕府が治安維持の目的で新設した「関東取締出役(かんとうとりしまりでやく)(関八州取締役等とも呼ばれる)」に対し、その活動を補佐する目的で、文政10年(1827年)に村々を編成してその中心となる村を定めることになりました。矢倉沢往還周辺の25ヶ村(東組15ヶ村、西組11ヶ村)については、当初は東海道の大磯などの宿場を寄場として編成する案が提案されましたが、矢倉沢往還周辺からでは遠過ぎるために村々の反対に遭い、この村々の中から寄場を出すことになりました。そして、伊勢原村は、一帯の25ヶ村の中では村高が47石余りと最も小さかったものの、大山詣での拠点として宿駅としての施設が充実していたことから、関東取締出役の役人が宿泊するなどの形で利用することが多かったこと、そして25ヶ村のほぼ中程に位置している上に大山街道が集中する立地であるために、他の村から通いやすいこともあり、他の村々から請われる形で寄場となったことが、史料を数点引用しながら詳説されています(343〜348ページ)。


しかし、この伊勢原村が明治に入った頃から一時的に寄場を下糟屋村に譲っていたことが、「下糟屋村組合への変更」という項で紹介されています(348〜351ページ)。これによれば、明治元年(1868年)11月頃には寄場は伊勢原村から下糟屋村に移され、翌々年の明治3年5月26日付で再び寄場を伊勢原村に戻しています。何故寄場が移されたのか、残されている史料からは詳らかにはならない様ですが、何か金銭面での混乱が発生したものと同書では考えられています。

「日記」の道中は明治2年のことですから、ちょうど寄場が下糟屋村へと移されていた時期に当たります。寄場組合は治安維持のための自治組織ですから、専ら陸運の担い手である継立に直接関係するものではありません。しかし、下糟屋に寄場の肩代わりを依頼しなければならない程の大きな混乱が伊勢原村に発生していたとすれば、その混乱が継立の運営にも及んでいたとしても不思議ではありません。

そして、明治3年に伊勢原村への寄場組合の復帰に際して神奈川県に提出された請け証文には、伊勢原村の他に下糟屋村(この請け証文では「下粕屋村」と書いている)、上粕屋村と並んで、神戸村の名主(上粕屋村のみ代理)が名を連ねています(350〜351ページ)。この証文によって、神戸村が下糟屋村と共にこの問題に関与していたことを窺い知ることが出来ます。とすれば、寄場組合の問題が継立にも影響を及ぼしていたのであれば、神戸村がその肩代わりをしていても不思議はありません。そして、この様な状況で神戸村が継立を肩代わりしていたならば、「その2」で見た様に善波村の継立場の場所がわからなかったのも合点が行きます。神戸村の人足にとっても善波まで荷を運ぶのが初めてであった可能性が高いからです。

繰り返しになりますが、以上は飽くまでも推測であり、今後更に史料を探し出して検証すべきです。ただ何れにせよ、武四郎にとっては自分の荷を運んでもらっている継立の村々の諸事情は、預かり知らぬことであったと言え、そのために委細が記されていないのでしょう。その分、「日記」の継立に関する記録を読み解く際には、関連する史料に当たって検証する必要が多々あると言えます。



次回もう1回、「日記」に記された矢倉沢往還の継立や沿道の様子を見ていきます。

追記(2018/09/11):文言の修正を1件行いました:「継ぎ越し」→「継ぎ通し」。
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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

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