FC2ブログ

松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その4)

前回に引き続き、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」)を取り上げます。今回は鶴間以西の継立や沿道についての記述を見ていきます。



国分の位置
国分の位置
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)

かつての国分の継立は
「まんじゅう屋」という旅籠が取り扱っていた
現在のこの消防団の敷地の辺りにあったという
なお、当時の道筋は現在とは幾らか異なっている
ストリートビュー

武四郎一行が相州鶴間の次に荷を継いだのは国分(こくぶ)(現:海老名市国分南)でした。相州鶴間からは2里(約8km)の道程を歩いて、相模川に向かって長い坂を下り、目久尻(めくじり)川を渡って丘を越えた先に位置します。

前回検討した「武蔵・相模両鶴間村御伝馬出入」には、相州鶴間が道中奉行らに提出した訴状に

鶴間村之儀、江戸赤坂口ゟ瀬(世)田ヶ谷村二子村溝口村荏田村・長津田村・鶴間村・厚木町、夫ゟ矢倉沢御関所相摸中道通と申往還ニ而、往来之御伝馬継立申候、

とあり、更に

  長津田村        御伝馬継キ村

   此間壱里

 武州鶴間村         無役村

   此間弐町

 相州鶴間村         御伝馬継村

   此間三里

  厚木町         御伝馬継村

(何れも「神奈川県史 資料編9 近世(6)」所収、312〜316ページより、)

と書いていたことが記録されています。これに従うと、享保14年(1729年)時点では相州鶴間は国分村を継立村として認識していないことになります。

この訴状の通りなら、訴訟当時の相州鶴間は厚木まで片道3里、往復で6里の道程を人馬が歩いて荷物を運んでいたことになります。これだけで往復でざっと6時間ほどの時間が必要です。更に、この間には「厚木の渡し」が挟まっていますから、往復では2回この渡しを渡らなければなりません。「その1」で検討した通り、この渡しは滅多に「川留」になることはないとは言え、舟の待ち時間が余分にかかる事になります。これではこの区間を担当した人馬は1日の仕事の大半をこの往復で過ごすことになります。

相州鶴間の負担の重さを多少なりとも軽減する上では、途上の村にも継立村を引き受けてもらうことは必要だったでしょう。その点で、後年国分村が新たに継立を引き受ける様になったことは、相州鶴間にとっては歓迎すべきことだった筈です。

もっとも、国分村が幕末に作成した文書では、かつては継立を行っていなかったことに触れられておらず、前々から継立村であったかの様な書き方になっているため、これらの史料の整合性の検討が必要になってきます。嘉永6年(1853年)に、国分村が戸塚宿の当分助郷に指名された際に、その免除を訴えた「鎌倉郡戸塚宿当分助郷指名免除願」という文書の中には、次の様なくだりが登場します。

江戸赤坂口ゟ相州矢倉沢往還、武州八王子宿ゟ相州鎌倉之横往来ニ而、四方一村ニ而人馬御継立仕、

(「海老名市史3 資料編 近世1」553ページより、以下も含め、傍注も同書に従う)


この記述では、国分村は矢倉沢往還の東西方向の継立のみならず、八王子方面から鎌倉方面へと抜ける道筋についても継立を行っており、相州鶴間と同様に辻に位置する村であるという記述になっています。こうした辻に位置する村が、当初は継立を請け負っていなかったとすると、例えば相州鶴間から国分村を経て八王子方面や鎌倉方面へ向かう荷物の様に、辻で向かう方向を変える荷物の取り扱いが困難になります。このため、この文書の記述通りなら、以前は継立を行っていなかった状況が考え難くなって来ます。

ただ、国分村は自村の継立村としての位置づけについて、やや誇張気味に書いている側面もありそうです。江戸時代も大詰めの慶応元年(1865年)に国分村が差し出した「人馬差出し難渋につき享保年間定賃銭高札案差下げ願」という文書には、以下の様な記述が見られます。

…一躰当村之義、江戸ゟ内藤新宿継出、青山通り矢倉沢往還唱ひ、東海道沼津宿(駿河国)之脇往還ニ而、乍恐東照宮様(徳川家康)御神霊、久能山(遠江国)日光山(下野国)御改移之節御通行被為在候砌、厚木町(愛甲郡)ゟ当村御継込、夫ゟ靏間村御継立御用相勤来、既往還附中原(大住郡) 御殿相唱へ、御神霊様御宮跡今以暦然相残有之、就中、甲州道中荻野村(愛甲郡)ゟ継出相成、又一道ハ武州川越(入間郡)ゟ継出、八王子宿(武蔵国多摩郡)ゟ之往還、座間村ゟ当村継込、又一道東海道藤沢宿ゟ之往還、用田村ゟ当村継込、又壱道東海道平塚宿(大住郡)ゟ、相模川東通大谷村ゟ当村継込相成、又壱通東海道戸塚宿(鎌倉郡)往還深谷村ゟ当村継込、其外横浜表御開港已来、神奈川宿・程ケ(土)谷宿・戸塚宿其外鎌倉辺之往還仏向村(武蔵国橘樹郡)ゟ継出シ、瀬谷村(鎌倉郡)ゟ当村継込相成、御役々様方日々不絶夥敷御通行継場付、…

(「海老名市史3 資料編 近世1」606〜607ページより)


内藤新宿は甲州街道の宿場ですし、家康の遷座の際に通った道筋については前回見た通り矢倉沢往還ではなく府中通り大山道であり、更に中原街道の終点に位置する筈の中原御殿の話まで出てくるなど、国分村の役割を記す上で直接は関係のない街道筋の話を多く盛り込んでいます。村の高札を復活させる上でその重要性を強調する必要があったとは言え、この記述にはやや誇張された話が少なからず盛り込まれていることを念頭に置いて読むべきでしょう。

慶応元年「人馬差出し難渋につき享保年間定賃銭高札案差下げ願」麁絵図
慶応元年「人馬差出し難渋につき享保年間定賃銭高札案差下げ願」添付の麁絵図(国分村付近の部分)
(「海老名市史3 資料編 近世1」608ページより)
この文書に付属している麁絵図では、右の通り国分村を通過する道として、矢倉沢往還の他に「世谷(瀬谷、横浜市瀬谷区)」「深谷(綾瀬市)」「用田(藤沢市)」「大谷(海老名市)」「下荻野(厚木市)」「座間(座間市)」への道筋が引かれています。しかし、これらの道の重要度を勘案した描き方にはなっておらず、矢倉沢往還以外の道筋の交通量などはこの図からは読み取ることは出来ません。道の繋がり方も、座間や用田へ向かう道は確かに麁絵図の通り国分村に直接繋がっていますが、「迅速測図」で確認する限り、あとの道は途中で別の村の中で分岐して向かうことになり、これほどの本数の道が国分村に直接乗り入れている訳ではありません。


「新編相模国風土記稿」の国分村の項では、村を通過する街道について

矢倉澤道あり東西に通ず道幅二間、當村より東の方郡中下鶴間村へ二里、西の方愛甲郡厚木村へ一里の繼立をなす、

(卷之六十四 高座郡卷之六 雄山閣版より)

と矢倉沢往還のみを取り上げ、継立も矢倉沢街道上で行われている方についてのみ触れています。その点も考え合わせると、国分村の主張する南北方向の継立の取扱量は多くはなかったと考えるのが妥当でしょう。とすれば、国分村の継立はやはり享保14年よりは後になって成立したもので、国分村が文書に記す様な南北方向も含めた継立を取り扱う様になったのは、それ以降のことだった可能性が高いと考えられます。




国分村の継立の歴史に拘っているのは、武四郎が「日記」で記した国分村の状況についての記述を掘り下げる必要を感じているからです。この国分でも、武四郎は自分が目にしたり人足から聞いたと思しき沿道の様子を書き付けています。

此處に國分尼寺(こくぶんにじ)有と。人家惣而畑作にして麁食(そしよく)のよし。夕喰〔食〕炊ぐを見るに割麥に半ば(くさり)の有る芋また大根を細く折て、それの雑炊てふもの煮る様に見ゆ。(わずか)江戸より一日路の地にてかくも異ることは、其女どもの着ものもまた()にして大に旅情を催たり。

(「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房 649ページより、地名等漢字の表記も同書通り、ルビも原則同書に従う)


「新編相模国風土記稿」雄山閣版第3巻、卷之六十四国分寺幷舊跡圖
「新編相模国風土記稿」卷之六十四 高座郡卷之四
「国分村」中「国分寺幷舊跡圖」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
まず「国分尼寺」ですが、「日記」は「有と(いふ)」という、伝聞を記した書き方になっています。ですから、これは継立人足など地元の人から聞いたことを記していることになります。実際、「国分」の名前が示す通り、この地には律令時代に「国分寺」が置かれ、幾度となく衰退と再興を繰り返しながらその宝物などが受け継がれてきました。

けれども、私が調べることが出来た限りでは、この「国分寺」が幕末から明治初期にかけて、尼僧を住職に迎えるなどして「尼寺」となっていた史実は確認出来ませんでした。明治元年時点の住職は「筧山」と称していましたが、尼僧であるという事実は確認出来ませんでした。また、天保年間に編纂された「新編相模国風土記稿」では、まだ境内の建物は現存している様に描かれていますが、相模国分寺のサイトによればこのうち本殿や経蔵、山門などは幕末に失われているため、「日記」の明治2年の時点では既に右の「国分寺幷舊跡圖」の通りではなくなっていたものと考えられます。しかし、それでもこの寺は「相模国分寺」として存続していた筈です。

Sagami-kokubunji doushou.JPG
相模国分寺梵鐘
(By Saigen Jiro - 投稿者自身による作品,
CC0, via Wikimedia Commons
従って、「日記」の「国分尼寺」は字義通りには受け取ることが出来ませんが、時代を遡れば、以前は国分寺と共に国分尼寺が存在しており、当時もそのことを伝える寺宝があったことがわかります。国分寺跡地の北方には国分尼寺の跡地が残っており、発掘調査で礎石や瓦などが出土しています。この跡地のある辺りの小名も「尼寺」と称し、その名残りを伝えています。

更に、現在も国分寺境内の鐘楼に架けられている梵鐘は、正応5年(1292年)に国分尼寺に寄進したものであることが刻印されており、国の重要文化財に指定されています。当然、「日記」当時にもこの梵鐘の存在は知られており、「風土記稿」の国分寺の項にも、この梵鐘の銘文が転記されています。

「日記」の該当箇所には過去形が使われていませんので、書き損じでなければ武四郎は「国分尼寺」を「現存」するものとして書いたことになります。察するに、この箇所は、かつての国分寺や国分尼寺の歴史について、継立人足などから伝え聞く過程で、何かしら説明の混乱があったか、あるいは武四郎が取り違えたことを反映したものではないかと思います。現在の国分寺山門に上がる石段は県道40号からやや奥に入った場所に位置していますが、当時の矢倉沢往還はこの石段に近い場所を通っていたとされています。それであれば、当時は矢倉沢往還を進む旅人からも、国分寺の石段や山門などが見えたと思われます。あるいは武四郎一行が矢倉沢往還を進む途上で国分寺の失われた山門の跡を眺めながら、この寺のことが人足との間で話題となったのかも知れません。




次に、「日記」ではこの村が畑作中心で食べ物に恵まれておらず、腐りかけの大根を雑炊にして夕食にしていたと書いています。着ているものなども含め、村がかなり困窮している様子が伝わりますが、この記述を何処まで当時の実情を描いたものと考えるべきなのでしょうか。

確かに、当時の国分村に困窮する村民が少なからず存在していたことを示す文書が複数存在しているのは事実です。「海老名市史3 資料編 近世1」には、弘化3年(1846年)の「凶作救済金滞分半金容赦願」という文書が掲載されています(536〜537ページ)。天保4年(1833年)に始まった「天保の飢饉」の救済のために無利息で貸与された金30両の夫食(ふじき)貸しが半額ほど返済した所で滞納する事態となり、挙句に先代の名主が潰れてしまい、全財産を売却して債務弁済に充てる始末になっています。この文書は残りの債務のうち半額を免じてもらい、残りを10年で弁済させてもらえる様に、新たな名主以下村役人が借主である領主に宛てた願書です。最終的にこの額を完済出来たかどうか、後年の証文が掲載されていないので不明ですが、村の困窮振りを示すこの様な文書が書かれてから「日記」の20年あまり後の間に倒幕という大きな社会の混乱があったことを考えると、事情はさほど変わってはいなかったのではないかと考えられます。また、翌年には国分村の組頭であった伝右衛門が家出してしまったために、領主から村人に対して伝右衛門の家財を交代で見廻る夜番が指示されたことを示す文書も伝わっています(同書539〜540ページ)。この村組頭の出奔も、やはり村の困窮と関係があるのかも知れません。

更に、上記で紹介した嘉永6年「鎌倉郡戸塚宿当分助郷指名免除願」の別の場所には、次の様な記述が見られます。

当村方先年家数百三拾四軒御座候所、追々潰百姓弐拾弐軒出来、当時百拾弐軒

(上記書553ページより)


村の家数が134軒から112軒と22軒も減ってしまったのは、明らかに「天保の飢饉」の影響でしょう。当分助郷を断るこの願書で本当は一番強調したかった箇所ではないかと思われるのですが、控えめに後ろに近い箇所で触れるに留められているのは、当時の村々でこの飢饉の影響を逃れた所が殆どななかったからではないかと思われます。

一方、国分村のこの様な困窮の最中にも、相応に財力を保有した家があったのも事実です。上記の「凶作救済金滞分半金容赦願」ではかつての名主家が潰れたことが記されていますが、この頃の名主家の当主は代々「善六」を名乗っていましたが、この家が国分村の名主となったのは天保年間のことです。初代の善六は享保年間に僅かな家財を譲り受けて本家から独立して、元文年間から「穀渡世」、つまり米穀商を行って財を成します。やがて、国分村の領主となった佐倉藩堀田家に対して度々融資をしています。そして、その融資先は幕末には国分村内のみならず、江戸や藤沢宿で商売を立ち上げる商人へも行われる様になっており、その財力が大きくなっていたことが窺えます。

国分村には善六の他にも3軒、寛政から文政年間に米穀商を立ち上げた家があり、幕末には少なくとも4軒の米穀商が存在していました。天保8年に一時これらの米穀商が営業停止にされた際に解除を求める嘆願書が提出されているのですが、この中に名を連ねた米穀商の中では、国分村の4軒が最多でした(以上、「海老名市史」通史編・資料編 及び「幕末の国分村」池田 正一郎著 1979年 自費出版を参照)。

以上を勘案すると、「日記」の当時、国分村にはまだ「天保の飢饉」によって疲弊した名残りが色濃く、それが武四郎と同行した継立人足の証言や、武四郎自身が目の当たりにした国分村の夕餉の様子や着ているものに表れていたのでしょう。その限りでは、「日記」の記述は国分村の当時の実情をよく伝えているとは言えるでしょう。しかし、当時の国分村には困窮の最中にも村内外に金を用立てるだけの実力を持った家が存在し、村を支えていたのも事実です。その点では、「日記」に記された国分村の様子を、あまり拡大的に適用し過ぎない様に注意して取り扱うべきでしょう。

また、丘陵地にあって水田より畑が多い国分村に、名主を筆頭に米穀商が4軒もあり、特にその1軒がとりわけ力を持っていたということは、村内よりも村の外部で生産された米穀の流通によって富を蓄えていた可能性が高く、それには村を通過する交通路の存在が不可欠だった筈です。特に、相模川の水運と陸路の結節点であった厚木や、その手前に拡がる広大な水田地帯である海老名耕地との間を繋ぐ道筋、つまり矢倉沢往還の存在が重要だったでしょう。

そう考えると、享保14年には矢倉沢往還の継立村ではなかったこの村が、幕末に書かれた文書では自村について誇張気味に交通の要衝であることを力説するまでに変わっていった背景に、この米穀商の存在があることが見えてきます。無論、この道を往来する大山詣での参拝客の増加も影響した側面もあるでしょうが、あと1里進んで「厚木の渡し」を渡れば厚木の大きな街に入ってしまう位置付けでは、旅籠の集客では苦戦する可能性が高く、そこだけでは利点が十分ではなかったのではないかと考えられます。

「日記」の記述ではその様な村の有力者の存在が見えてきません。国分村の主要な集落はこの矢倉沢往還の周辺にあり、名主家などもこの集落内にあったと思われますが、あるいは武四郎は裕福な家々にはあまり目を向けていなかったのかも知れません。



今回も国分村について解説して終わってしまいました。次回は厚木から先の「日記」の記述を分析する予定です。




スポンサーサイト
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

トラックバック

URL :