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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その3)

前回に引き続き、松浦武四郎の明治2年(1869年)の紀行文「東海道山すじ日記」(以下「日記」)を取り上げます。今回も継立について取り上げつつ、それ以外の沿道についての記述を見ていきます。



相州鶴間・武州鶴間の位置
相州鶴間・武州鶴間の位置関係
継立場の位置が確定出来ないため
ここでは仮に、武州鶴間側は「日枝神社」付近に
相州鶴間側は「鶴林寺」付近にマーカーを置いた
両者の距離は約1km
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
長津田まで途中の継立場を「継ぎ通し」ながら荷物を運んできた武四郎一行は、一転して比較的短い距離を継いでいきます。史料によって記載されている距離に多少幅がありますが、長津田から相州鶴間までは、「相州青山往還宿々控帳」(下記参照)に従うと1里10町(約5km)、武州鶴間から相州鶴間の間は、「新編相模国風土記稿」に従うと何と僅か5町(約550m)しかありません。この場合、長津田から武州鶴間の間は差し引き1里5町ということになります。但し、「日記」は8町(約880m)と記しています。何れにしても、国境を挟んで同じ名前を名乗る隣村同士だけに、村の中心となる集落同士でもさほど距離がないのは自明のことです。


この武州鶴間と相州鶴間との間の継立については、天保12年(1841年)に成立した「新編相模国風土記稿」に、次の様に馬と人足の場合によって継立場が異なることが記されています。

當村矢倉澤道、八王子道の驛郵にて、人馬の繼立をなせり矢倉澤道は幅四間、東の方人夫は武州鶴間村、道程五町、傳馬は同國長津田村、道程一里餘、二所繼立のことを司れり、西の方は人馬共に郡中國分村、道程二里に達す、

(卷之六十七 高座郡卷之九、雄山閣版より)


武四郎は「日記」に継立の事実を示すのみで、その経緯などについては何も記していません。しかし、武州鶴間から相州鶴間の間の道筋には取り立てて急な坂などはなく、2つの村の間を流れる境川にも橋が架かっていて、荷運の困難となる要因がこれと言って見当たりません。その様な道筋で、こんなに短い区間で荷継が繰り返されるとなれば、その都度荷物の受け渡しや馬の載せ替え、更には駄賃の支払いが必要になるなど、荷主には要らぬ手間が増え、所要時間が長くなるなどの不便を強いられることになります。前回見た通り、この道中では武四郎の荷物を継立人足に運ばせていた訳ですから、荷主として多少なりとも違和感を感じていてもおかしくありませんが、「日記」にはその様な記述は一切ありません。

何故これ程までに短い距離を継ぐ様な運用が行われていたのでしょうか。ここでは「日記」を一旦離れ、他の史料を2点ほど見て、この2つの村の継立に何が起きたのかを類推してみたいと思います。1点めは、前回も一部引用しましたが、享保14年(1729年)の「武蔵・相模両鶴間村御伝馬出入」(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」所収、312〜316ページ)です。この史料は武州鶴間側の当時の名主家に伝わる文書で、相州鶴間が武州鶴間を相手取って訴訟を起こした際の一連の顛末が、双方の書状や裁許状などの写しによって明らかにされています。長大な文書ですので全文をここに掲載することは出来ませんが、裁判の経緯を掻い摘んで記せば、次の様になります。

  • 訴訟を起こした時点では、矢倉沢往還の継立を務めていたのは相州鶴間のみで、武州鶴間は務めていない(と、相州鶴間側が主張する)。
  • これに対して、当時何も夫役を担っていない(と相州鶴間側が主張する)武州鶴間にも継立役を負わせるべきとするのが相州鶴間側の主張。
  • 武州鶴間側は、既に武州木曽の定助郷を勤めており、また相州鶴間や長津田には歩行人足を出しているのだから、武州鶴間を無役とする相州鶴間側の主張は間違っていると反論。
  • 武州鶴間側の証人として武州木曽の名主が呼び寄せられ、武州鶴間側の主張通り、同村の定助郷を務めていると証言。


木曽一里塚碑
相州淵野辺村から境川を渡った先に位置する
府中方の小野路にも一里塚碑が残る
ストリートビュー
「今昔マップ on the web」で
同地の地形図の変遷を見る
武州鶴間が武州木曽の助郷を務める様になったのは、徳川家康の没後の元和3年(1617年)に久能山から日光東照宮へ遷座する際に、後の府中通り大山道を通過した時のことであることが、武州鶴間の反論でも、武州木曽の証言でも触れられています。武州鶴間から木曽までは直線距離でも8km以上も離れており、かなり遠方の村々まで助郷に駆り出されたことになりますが、この遷座の際はかなり大掛かりな行列を組んでいた関係で、隣接する村々だけでは人馬を補えなかったために、多少遠方の村にも助郷の要請が行ったのでしょう。その時の縁で、その後も木曽まで助郷を務めに行っていたことが、武州鶴間が矢倉沢往還の継立を拒否する根拠になっていた訳です。


また、武州鶴間は反論に際して自村を矢倉沢往還の「間の村」と表現しており、長津田や相州鶴間にも人足を出していると書いています。つまり、この時点では正式な「継立村」ではなかったことになります。この人足の出し方が、既に継立に近い運用であった様にも読めるのですが、何れにせよその様な事実があったとすれば、相州鶴間はその事実に目を瞑って訴訟を企てたことになり、その「勝算」を何処に見込んでいたのかが気になります。

こうした双方の申し立てを受けて、幕府の道中奉行や勘定奉行、更には江戸町奉行に寺社奉行が加わって、総勢10名の奉行が下した裁許は次の通りです。武州鶴間側の言い分が全面的に認められ、相州鶴間の訴えが退けられる判決となりました。

右御吟味被成候処、訴訟方相州鶴間村ゟ相手武州鶴間村ヲ一村之様申立、馬継不仕由申上候得共、相州・武州と国を隔候得、往古一村ニ而候とも、別村分り伝馬継候儀其所之例ニ而、古来ゟ相州鶴間村伝馬を継キ、武州鶴間村木曽村定助勤、其外江茂歩行人足継キ来り候間、訴訟方鶴間村申所難立、不及御沙汰候由被 仰聞、御尤に奉存候、依之有来り候通相州鶴間村伝馬継いたし、武州鶴間村定助・歩行人足(ママ)格〻可相勤旨被仰渡、双方奉畏候、右被仰渡候趣相背候ゝ、御科可被 仰付候、為後証連判一札差上ケ申所仍如件、

(上記書316ページより)


興味深いのは、ここで相州鶴間は武州鶴間とは元は1村であったという主張をしており、奉行もひとまずはその由緒を吟味した痕跡が見られることです。鶴間郷がやがて境川を境に分かれていった事情については、かつて武相国境を検討した際に少々検討しました。戦国期には既に別々の村となり、それぞれの領主によって収められていたであろうと考えられる鶴間が、享保の頃まで時代が下っても、なお奉行の面前でこの様な由緒を自村の主張の補強のために使っていたことになります。かつて同じ村であったという「義理」もあるのだから、ということになるでしょうか。自村の主張を少しでも正当化する意図が垣間見得ます。そうは言っても、享保の頃には既に別の村に分かれて独自の活動を行って久しいことが認定されてしまい、主張は認められずに終わるのですが、村のこうした由緒が時代が下っても影響を及ぼしていた一例と言うことが出来ます。

一方、相州鶴間としてはかなり無理のある訴訟であったにも拘らず、江戸の奉行所まで通う労力を掛けてでも敢えて訴えを起こすだけの動機があったことになります。それはひとえに、継立にかかる労力負荷が重荷になっていたということに尽きるでしょう。相州鶴間の継立は矢倉沢往還の東西方向だけではなく、八王子道の南北方向も担っていました。ですから、必ずしも矢倉沢往還だけの輸送需要だけのことではないかも知れませんが、2本の道の継立のために人馬を出す負担が過重になっていたからこそ、武州鶴間にも歩行人足を出すだけではなく、より本格的に継立役を分担して欲しいと考えた筈です。

当然ながら、その背景には矢倉沢往還の継立に対して、当時既に相応の輸送需要が存在していたことになります。その点で、この享保14年の裁許の一件は、当時の矢倉沢往還の継立の実情の一端を窺わせる史料であると言えます。

しかし、訴訟によって相州鶴間の訴えが否定されてしまったことで、武州鶴間はそれ以降も「継立村」となることはなくなった筈です。奉行の裁許が出たことを考えると、少なくとも相州鶴間側からこれを覆すのはかなり困難なことになったと考えられます。



次に、「新編相模国風土記稿」成立の3年前に当たる天保9年(1838年)に作成された「相州青山往還宿々控帳」(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」所収、307〜310ページ)には次の様に記されています。


人足之義

前鶴間ゟ向鶴間迄賃銭八文請取継立仕候、馬長津田ゟ向鶴間迄附越候、

(上記書307ページより、字下げも同書の文字数に従う)


ここで「前鶴間」と書いているのが武州鶴間、「向鶴間」が相州鶴間を指しています。一見すると、この記述は「風土記稿」とほぼ同様の運用を記述している様に見えます。しかし、上記引用箇所の少し手前で、長津田の次の継立場については

相州鶴間迄壱里拾町

と記しており、相変わらず長津田から相州鶴間に継いでいた様にも読めます。つまりこれだけだと、武州鶴間から相州鶴間の間だけ継立を請け負っている様にも読めてしまいます。その点で、この文書の記述は相互に若干混乱している様にも見受けられます。

この文書が写しであることから、原本の記述がどうであったのか、精確なところを読み取るのは難しくなっています。しかし、記述の整合性が今一つ綺麗に均されていない様に見えることから、この「人足之義」のくだりは後から追記された可能性もあると考えられます。それであれば、その際に「相州鶴間迄壱里拾町」の一文は訂正を入れ損ねたものとも読み取れます。

こうした混乱からは、武州鶴間が増え続ける矢倉沢往還の継立に対して引き続き人足を出し続けてはいたものの、飽くまでも享保14年の裁許に則って対応していたことが窺えます。つまり、この時点でも武州鶴間はまだ「間の村」という認識でいたのかも知れません。ただ、「新編相模国風土記稿」の「下鶴間村」の記述では、継立先について特に表現が分けられている訳ではないので、「武州鶴間」も継立村の1つであるかの様に見えているということが言えます。

「日記」に話を戻すと、武四郎の武州鶴間と相州鶴間の記述では、継立場の規模等に差異があった様には見えません。実際には相州鶴間の方が八王子道の継立も請け負っていた関係で武州鶴間より多少なりとも規模が大きかった筈ですが、こうした記述になったところから考えると、武州鶴間の継立場も「間の村」が片手間にやる程度のものではなく、実質的に常設と見える様な風情の場所で運用がなされていたのかも知れません。

因みに、矢倉沢往還を往来する「大山詣で」の参拝客が増加してきたのは、大山講が隆盛した江戸時代の中期頃、宝暦年間以降と考えられ、享保14年の裁許よりは後年のことになります。「日記」では、武四郎は武州鶴間、相州鶴間とも「茶店」が存在したことを記していますが、武州鶴間も増大する「大山詣で」の参拝客を無視出来なかったことが窺い知れます。

また、相州鶴間には旅籠が数軒あった筈なのですが、、武四郎はその存在を記していません。見逃してしまった可能性が高いと考えられますが、一方で明治元年に「神仏分離令」が発令された影響で大山講も大きな影響を受けていましたから、沿道の宿泊施設もその動向を見極めて店仕舞いするなどの動きがあった可能性もあります。これも他の史料との照合が必要な箇所と言えるでしょう。



ところで、事情は定かではありませんが、武四郎はこの道中ではかなり先を急いでいた様です。日程を見ると、あるいは東京から京都へ還幸していた明治天皇が、何時再び東京へ行幸することになるのかわからなかったからとも思えますが、「日記」の文面からは当の武四郎にさほど「焦り」を感じるのが難しく、彼にとっては別段普段通りのペースで進んでいたのかも知れません。

「日記」には長津田で昼食を摂ったことが記録されています。初日の宿泊地は厚木ですが、赤坂からの距離は途中の経由地によっても変わって来ますが概ね12里以上になります。東海道を進んだ場合には初日には精々戸塚辺りで宿泊するのが通例であったことと比較すると、相模川を初日に越してしまう武四郎の行程は、当時としてはかなりの「強行軍」と言えます。因みに、赤坂から長津田までは8里あまりもあり、この日の行程の半分以上を進んでおり、厚木の渡しを渡る頃には日が暮れていますから、冬場で日が短いことを考慮しても、長津田での昼食は幾らか遅い時刻になった可能性はありそうです。

以前このブログでも何度か取り上げた渡辺崋山の「游相日記」(天保2年・1831年)では、途中宿泊した折に主人と深夜まで酒を酌み交わして翌日は遅く出発したこともあって、1日に進む距離が短くなり、荏田と下鶴間で宿泊したことが記されていますから、「日記」とは極めて好対照な道中だったと言えるでしょう。

武四郎の道中が日程的に余裕がないものであった分、道中の周景の描写は比較的薄めになったのではないかと思われます。自宅を出てから相州鶴間に到着するまでの間の記述には、各継立場の簡単な様子と脇道に関する記述が出る程度で、周辺の田畑や作物についての記述は一切現われません。相州鶴間に着いた所で初めて

地味至てよろし。また百姓家何れも畑作にして喰物は惡きやうに見ゆれども隨分富るよし也。從是小松原、大松原等有中を正面さして一筋道。見むきもやらず左右處々に畑も見ゆれども何れも芋麥のよし也。

(「松浦武四郎紀行集 上」 吉田武三編 1975年 冨山房 649ページより)

という、周辺の田畑についての記述が現われます。

地味の良さは人足から伝え聞いた可能性もありますが、冬場で休耕中の田畑が多い分、土の状態が見えやすかったということかも知れません。食べているものが良くない様に見えるというのは、茶店などで休憩している旅人の皿の上を見たのでしょうか。麦は冬を過ごさせるものですから実際に栽培されているものを見ている筈と考えられますが、やはり冬場では栽培されているものも乏しいことから、同行する人足に話を訊いたのでしょう。

鶴間以西の矢倉沢往還
鶴間以西の矢倉沢往還のルート図に
数値地図25000(土地条件)」を重ねたもの
矢倉沢往還のすぐ南側に引地川源流地が見えるほか
かつての谷戸と思しき窪地が南北方向に何本も並んでおり
何れも矢倉沢往還の近くに端を発しているのが窺える
矢倉沢往還の走る辺りが
相模原台地の地下水が地上に現われ始める地帯に
相当していることがわかる
(「地理院地図」上で作図したもの
をスクリーンキャプチャ)
相州鶴間の水田は境川と支流の目黒川沿いに集中しており、その西側は相模原台地の上に当たり、水田に必要な利水が確保出来ないために、畑が大きく広がっていました。「大和市史4 資料編 近世」のまとめるところによれば、下鶴間村の村の水田14町7反3畝2歩(約14ha)に対して畑が74町1反9畝12歩(約74ha)あり、全耕地面積の8割以上を畑が占めていました(35ページ)。更に、村の西側は「相摸野」の南端が大きく占め、「鶴間野」などとも呼ばれるこの地は、西隣の栗原村に差し掛かる地域まで入会地となっていました。

「日記」の記述は、基本的にはこうした土地利用の実状をよく反映していると言えます。「小松原」「大松原」とあるのが、武四郎の見た「相模野」の描写ということになるでしょう。とは言え、やはり先を急ぐ道中では周囲に細かく目を配るほどの余裕はなかったと思われ、まして土地勘のない村の実状について掘り下げたことを書くのは無理なことであったでしょう。人足が相手では、聞き出せる村の実情についての情報も、限られたものになってしまうのは避けられないところです。

この点は、崋山の「游相日記」と比較するとその違いが良くわかります。彼の道行きの目的の一つは、その途上の農産物などを視察することにありました。その分、武四郎に比べれば「相模野」についての予備知識もありましたし、前日までの道中に現地の人々に訊ねて仕入れた情報も持っていました。その分、武四郎の「日記」の記述よりも一歩踏み込んだものになっています。

廿二日 晴

鶴間を出づ。此辺も又、桑柘多し。田圃の間に出れば、雨降山蒼翠、手に取るばかり。蜿蜒して一矚の中に連るものハ、箱根、足柄、長尾、丹沢、津久井の山々見ゆる。耕夫懇に某々と教ふ。

桑ノ大葉ナルヲ作右衛門ト云。按ズルニ、漢云柘ナリ。細葉菱多きものを村山トイフ。漢ニ云桑也。養蚕、桑ヲ上トシ、柘ヲ下トス。

鶴間原出づ。この原、縦十三里、横一里、柴胡多し。よつて、柴胡(サイコ)の原ともよぶ。諸山いよいよちかし。

(「渡辺崋山集 第一巻 日記・紀行(上)」(1999年 日本図書センター)所収、327ページより)


崋山はこの地域の養蚕についてとりわけ関心を持っていたことが、桑と山桑(柘)の違いについて具体的に記しているくだりからも窺えます。また、別の場所で長津田や鶴間が養蚕を行っていることを記していることからも、この地が養蚕に積極的に取り組んでいることを知った上で周囲の様子を見ていると考えられます。

ファイル:Bupleurum falcatum1 eF.jpg - Wikipedia
ミシマサイコ(再掲)
("Bupleurum falcatum1 eF".
Licensed under
CC 表示-継承 3.0
via
ウィキメディア・コモンズ.)
そして、崋山自身が俳諧に精通していたこともあり、「相模野」が「柴胡が原」とも呼ばれていることは承知であったのでしょう。崋山が旅した天保2年9月22日(グレゴリオ暦:1831年10月27日)はミシマサイコの花期(概ね8〜10月)としてはほぼ終わり頃で、運良く道端で咲く柴胡の花を見られたかどうか微妙なことから、「柴胡多し」の記述を字義通りの目撃情報として受け取るべきかどうかは一概に言えませんが、少なくとも崋山が「相模野」に差し掛かった折に「柴胡が原」のイメージを重ねて見ているのは確かでしょう。

武四郎は、道中通過する地域についてのこうした予備知識は、持ち合わせていなかったのでしょう。また、桑は冬場には葉を落とすことから、周囲に桑を植えている家や畑があることに気付き難い季節だったことは考えるべきかも知れません。もっとも、武四郎が人足との会話で比較的裕福な村であると知らされた際に、継立や養蚕など村の経済の支えになり得る稼業について話題にならなかったのかという点は気掛かりです。特に養蚕は、幕末の開国後にそれまでの幕府の方針が転換されて積極的な推進・援助策が打ち出される様になっており、天保の頃とは違って憚りなく取り組むことが出来る環境になっていた筈です。しかし、「日記」には養蚕については触れられずに終わっています。あるいはこうした産業には、武四郎の興味が向かなかったのかも知れません。



今回は結局鶴間周辺の記述についての分析で終わってしまいました。次回はもう少し先に進みたいと思います。



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