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松浦武四郎「東海道山すじ日記」から(その1)

このところ、ブログを更新すると言っても「連絡事項」ばかりで、まともな記事のアップは久々です。とは言え相変わらず時間が思う様に取れていないのですが。

たまたま昨年とあるテレビ番組で、松浦武四郎(1818年・文化15年〜1888年・明治21年)が取り上げられているのを見て興味を持ち、彼の紀行集(全3巻 吉田武三編 1975 & 77年 冨山房)を手に取ってみる気になりました。今年は武四郎の生誕200年に当たります。

Matsuura takeshiro.jpg
松浦武四郎(撮影者・撮影時期不明)
(パブリック・ドメイン,
Wikimedia Commons
松浦武四郎の名は、専ら幕末の蝦夷地の探検や、その際のアイヌ民族との交流、そして「北海道」の命名に至る経緯といった話題の中で登場する名であり、彼について出版されている書籍も大半が北海道との関連を論じるものに限定されています。その意味では、私のこのブログの様に、江戸時代の相模国を中心とした話題を取り上げている場には、あまり縁のある名前ではない様に思えます。

しかし、武四郎は明治政府の職を早々に辞した後は東京に住み、隠居生活を送りながら毎年の様に箱根の西へ遊歴を重ね、その記録を都度紀行文として(したた)め、近縁者等に配布していました。それであれば、それらの紀行文の中に、往復の際に通過したであろう現在の神奈川県域の記述も多少なりとも見られるのではないか、と期待を抱いたのが、彼の紀行文を念の為に確認する動機になりました。

結果的には、私の思惑はほぼ空振りに終わりました。武四郎の引退後の紀行文では、出発した当日の夜には箱根湯本の福住旅舘に宿泊したことのみが記されており、それ以外の神奈川県内の道中の記録は皆無だったからです。何れの紀行でも東京を出発した同日の晩には箱根に宿泊しており、東京から90km近く隔たったこの区間を1日で行くことは、徒歩では到底考えられません。従って、彼はこの道中では、恐らくは当時普及しつつあった鉄路や人力車等を最大限に活用しており、少しでも速く目的地に向かうことを優先していた様です。その分、これらの乗り物を利用していた区間では、沿道の景観等への関心が薄れてしまっていたとしても仕方がないことではあったのでしょう。

私としては特に、相模川酒匂川の渡し場における明治期の架橋を巡る変遷について、何か新しい情報が得られればと思っていたのですが、少なくとも彼の紀行文ではその目的は果たせませんでした。

しかし、上記の紀行集にはそれらの他に、比較的詳細な記述で神奈川県内の沿道事情を記したものが含まれていました。それが明治2年(1869年)の「東海道山すじ日記」(以下「日記」)です。

前年の慶応4年(=明治元年)の戊辰戦争の最中、武四郎は江戸の上野山下・三枚橋付近(不忍池の近く)に住まっていました。江戸無血開城後間もない(うるう)4月6日(グレゴリオ暦5月27日)に武四郎の家に使者が訪れ、その求めに応じて江戸城に参上したところ、急遽京に上る様に勅命を受けました。彼の持っている蝦夷地に関する情報を、新政府の求めに応じて提供することが主な目的であった様です(「評伝松浦武四郎」前記書上巻 48ページ)。

この命を受けて彼は手形の手配や留守中の管理の依頼等を済ませ、9日に出発して東海道を西へ急ぎます。しかし、折からの天候不順で「川留め」が相次ぎ、その間隙を縫っての道中を強いられることになりました。京に到着後も悪天候のために交通の途絶が相次ぎ、江戸の彰義隊によるいわゆる「上野戦争」の沙汰も外国船の便りで大阪経由で知る様な状況に陥っていることを、この「日記」の冒頭で記しています。

この状況に、武四郎は「ふと心附て東海道の中道(なかみち)といへるもの御開きになりて、大井、阿部、天龍川等(つかへ)の時は(其川上にて越し平日は(原文抹消))御用狀便りを川上(へ)廻して通行させなばとあらましの見込申上しかば、そはよろしかるべしとの御内沙汰も有し(前記書上巻 648ページより)」と、迂回路の利用を上申したところ好感触を得ています。そして、「東海道間道取調之為、東下被仰付(「評伝松浦武四郎」前記書上巻 48ページより)」と、この間道を調査する様に命を受けています。

江戸への帰路で彼は街道上の渡し場の実情を更に探っています。「川留り」による宿場での20〜30日と長期にわたる滞在のために、旅人が滞在費の支払いに疲弊する様が次の様に「日記」に記されています。

五月二十七日出立して(あづま)え下りけるに道すがら聞に、天龍川は渡しより途上にて切れ數ヶ村の田畑おし流し二十日餘も留りしと。大井、阿部、天龍は三十一日留り旅籠(はたご)(ママ)に娘を預け、また武夫は鎗また具足着類等を賣代(うりしろ)なせしと。實に其さまは目も當られざりし次第なりしと。別而も島田、金谷(かなや)の兩宿は人氣あしく川留を待つて川を渡る處なりけるが、爰にては如何なる旅人も着がえ衣〔着〕もの賣代なさゞる者はなかりしと。實に其水嵩を聞にさまでも日數留ずとも通河なるべかりき處なるを、かく諸人をなやまする由にて如何にもあはれなりければ、其道すじ開かば歩行人等雨多き時は此方だに行ば支のこともなく、また上に一筋の閑〔間〕道有てせば本道にてもあまり飽どき貪方(むさぼりかた)もせまじと。

(前記書上巻 648ページより)


武四郎の「日記」は、翌明治2年の上京の際に、朝廷からの命に従って東海道ではなく「間道」を使った記録です。この道筋の沿道事情を、新たな名前に変わって間もない東京から京まで間道を進んだ際の様子を報告する目的を帯びている関係で、「日記」には道中の沿道の景観や継立、そして何より渡し場や橋の様子が細かく記されています。そこで、これらの記述のうち渡し場や継立などに関するものを、現在の神奈川県内に限定して拾ってまとめてみます。今回はまず、この「日記」で最も重要な調査である「渡し場」について見ていきます。


迅速測図上の「二子の渡し」(「今昔マップ on the web」)

東京を2月10日(グレゴリオ暦3月22日)に出発した武四郎は、直に青山通り、つまり矢倉澤往還へと入って西へと向かいます。最初に出会うのは多摩川の「二子の渡し」です。

二子(ふたご)渡し舟渡、是六鄕の川上也。随分急流あら川にて大雨の節六鄕と同じ位に留れども()き方は早きよし也。

(前記書上巻 648〜649ページより)


Tama river in the Musashi province.jpg
葛飾北斎「富嶽三十六景」の「武州玉川」
二子の渡しより上流に位置する府中付近の風景と言われているが
多摩川の波の高い様子が描かれている
(By visipix.com, パブリック・ドメイン,
Wikimedia Commonsより)

現在の二子橋の上流の様子
かつて舟渡であったとは考え難い程度の水深
ストリートビュー

現在の二子橋(東急田園都市線二子玉川駅付近)の下を流れる多摩川の流れからは、「随分急流で荒れた川」という武四郎の記述は意外な感もしますが、これは現在の多摩川では上流の羽村取水堰などで大規模に取水が行われていることによって流量が減っていることによるものです。「新編武蔵風土記稿」の橘樹郡二子村の「多磨川」の項にも

多磨川 村の北の方を流る、石川にて川幅六十間餘、夏は船渡にて冬の間は橋を架せり、此船渡古より當村の持なりしが、水溢の度ごとに兩涯がけ崩れ、屢々變革して隣郡瀨田の村内へ入しかば、其境界の事により遂に爭論に及び、天明八年官へ訴へけるに、當村及瀨田兩村にて渡船を出すべしとの命あり、それよりしてかく兩村の持となれりとぞ、今川べりに當村の地所殘る所は、僅に六十間餘、久地村より諏訪河原村に至る、

(卷之六十一 橘樹郡之四 雄山閣版より)

とある様に、江戸時代中にこの付近で増水による流路の変遷を経験しており、それだけ流量が多かったことを物語っています。

その様なこともあってか、増水時の「川留」のタイミングは東海道の「六郷の渡し」と大きく変わらないとしています。但し、「川明け」つまり渡しの再開は下流に位置する六郷の渡しよりも早い、という証言を得ています。基本的には川の増水時には上流の方が早く水が引きますので、早めに渡船を再開出来るのはある程度は自然なことではあります。

迅速測図上の「厚木の渡し」(「今昔マップ on the web」)

武四郎が次に渡し場に行き当たるのは、相模川の「厚木の渡し」です。


下りて田ぼに出是より一すじ道凡二十八九丁もと思ふは、柏ヶ谷村に到り村端馬入川舟渡。其渡守に聞ば此處の渡しは馬入村〔川カ〕(つかへ)てよりも遙後まで渡すによろし。川口にては出水より南東風吹込故水嵩ませども、爰は只出水斗にて支ゆる事故餘程の洪水ならで支事(る)なしと。八丁

(前記書上巻 649ページより)


新編相模国風土記稿」雄山閣版第3巻厚木渡船場図
「新編相模国風土記稿」より「(厚木)渡船場図」
(卷之五十五 愛甲郡卷之二、
国立国会図書館デジタルコレクション」より)

現在のあゆみ橋上流の様子
当時の厚木の渡しはこの橋の100mあまり上流
水量は上流に建設されたダムの影響で大幅に減った
ストリートビュー

東海道が相模川を渡る地点には「馬入の渡し」がありましたので、ここでは厚木の渡しと馬入の渡しを比較して運用の違いを地元で聞き取りしている訳です。その影響からか、「日記」はこの川を「相模川」ではなく「馬入川」と記しています。本来河口付近でのみ用いられる「馬入川」の呼称を、この厚木の渡し付近の「相模川」に対して使用する例は、私は他で見掛けたことがありませんが、あるいは聞き取り時に何かしらの理由で混乱して武四郎に伝わったものかも知れません。

また、以前作成したこの地図を参照してわかる通り、「柏ヶ谷村」の名前は国分村よりかなり手前で現われる地名の筈で、渡しの東岸は「河原口村」の筈なのですが、これも同様に混乱を来してしまっています。この辺は道すがらの聞き取りだけではなかなか情報の精度を上げにくい部分ではあったのでしょう。

ともあれ、厚木の渡しでは余程の出水でない限り「川留め」にならないという証言を得ています。厚木の渡しのすぐ上流では中津川や小鮎川が合流しており、増水時には本支流の合流に伴って下流側に複雑な流れが生じるなどの影響も少なくなかったのではないかとも思えるのですが、この証言を見る限りではそこまでの影響はなかった様です。

因みに「新編相模国風土記稿」の愛甲郡厚木村の項には

◯渡船場 相模川にあり、矢倉澤道及藤澤道に値れり、船五艘内馬船一を置、仲冬より明年暮春に至るの間は土橋を設く長五六十間、この渡津は村民孫右衛門及對岸高座郡河原口・中新田の兩村にて進退す渡錢の如きは中分して其半を孫右衛門所務し、半は對岸兩村にて配分するを例とす、當村にて渡守船頭屋敷と號し除地一畝ありこは孫右衛門持にして今其宅に併入す、

(卷之五十五 愛甲郡卷之二 雄山閣版より)

とあり、冬場には仮橋を架けているとしています。「暮春」までということであれば、武四郎がこの地を訪れた旧暦2月はまだ仮橋運用を続けていても良さそうですが、「日記」の記述からはこの時は既に舟渡しに戻されていた様に読み取れます。何らかの事情で仮橋運用を早めに切り上げざるを得ない、もしくはこの冬場には仮橋運用が行えない状況になったのかも知れません。幕末の騒擾の影響がなかったか、気になるところです。

武四郎はこの厚木の渡しを渡った先で宿泊していますが、手前の国分村で既に夕食の様子を見ていることから考えると、渡し場に到着した頃にはかなり暗くなっていたのではないかとも考えられますが、その様な時間であっても「厚木の渡し」は人を渡す運用をしていた様です。この点も馬入の渡しが「明け六つ暮れ六つ」、つまり日の出から日の入りまでしか渡船を出さなかった運用とは異なっていたと言えそうです。


明治29年修正・明治31年発行の地形図上に見える「十文字橋」
迅速測図は松田惣領付近まで描かれているものの、十文字の渡しは範囲外
(「今昔マップ on the web」)

厚木に1泊した武四郎が次に出会う「渡し場」は、酒匂川の「十文字の渡し」です。もっとも、彼がここを訪れた際には仮橋が架かっていました。

扨村の前に川有。十文字川と云。假橋有。是酒匂(さかわ)川の上なるよし。爰にては何程の洪水にても小舟に悼さしと〔て〕越ると云り。越て町屋、吉田島、延澤村等こへて坂道を下り…

(前記書上巻 650ページより)


「新編相模国風土記稿」より十文字渡眺望図
「新編相模国風土記稿」より「十文字渡眺望図」(再掲)
(卷之十五 足柄上郡卷之四、
国立国会図書館デジタルコレクション」より)

現在の十文字橋上流の様子
この橋の右岸側の袂に「十文字渡しのケヤキ」跡が残る
ストリートビュー

以前作成した地図ではこの渡しの位置をあまり精確には示せなかったのですが、一度川音川(四十八瀬川)を渡って町屋に入ってから、改めて酒匂川本流を渡る道筋を書きました。その後の調べで、この道筋は比較的初期のもので、後年渡し場はより上流の、現在の十文字橋の辺りに移っています。渡し場が移動した時期についてははっきりしていませんが、武四郎がここを訪れた明治2年頃には既に移動していたのではないかと思われます。

とすると、武四郎が「十文字川」と呼んでいるのは酒匂川の本流ということになり、川音川を渡らずに対岸の吉田島村に入ったことになるでしょう。ただ、そうなると「町屋」は渡しの左岸、つまり東から来た場合には渡しより手前に現われることになりますので、ここも「日記」に書かれている順序が必ずしも精確ではないことになります。また、酒匂川を「十文字川」と呼称する例も、今のところこの「日記」以外には見出せていません。

松浦武四郎「東海道山すじ日記」吉田島〜関本の近道
武四郎が吉田島→関本間で辿ったと思われる近道
(概略、「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)
他方、「延澤(のぶさわ)村」は「新編相模国風土記稿」によれば(卷之十九、足柄上郡卷之八)矢倉沢往還が村内を通過することは記されていません。次回取り上げますが、武四郎はこの時継立を利用していたと考えられるので、馬を引いていた人足の手引きで「近道」を行ったものと思われます。この道筋では関本に近付いた辺りでやや急な坂を上り下りすることになるのですが、それでも継立では多用されていたのかも知れません。

この付近の「迅速測図」がないので明治後期の地形図の道筋で判断するしかありませんが、それでも何とかそれらしい道筋を辿って線を引いて見ました(右図中オレンジ色の線)。この道筋を行くとなれば吉田島に渡って少し歩いた辺りで本道から右へと曲がることになり、土地勘のない武四郎にも本来の街道筋から逸れたことがわかったのではないかという疑念も湧きますが、少なくとも「日記」ではその点についての指摘はありません。また、「日記」では坂を「下り」としか書いていませんが、実際は怒田の辺りで坂を下る前に一度上っている筈です。ここも何故か下る方だけが印象に残った様で、記述の精度という点では課題が残っているのが実情でしょう。


「新編相模国風土記稿」では、この「十文字の渡し」について次の様に記しています。
  • 松田惣領(卷之十五 足柄上郡卷之四):

    ◯渡船場 十文字渡と云、往古は川音川、酒匂川を衝て奔流し、其勢十字の形を成せしよりかく唱へしと云、今は酒匂川に壓却せられて、纔に丁字をなすのみ、平常土橋三一は長三十間、一は六間半、一は六間、を架して人馬を通ず、洪水の時は渡船あり、此邊頗る勝地なり、南は足柄山・狩野山・平山等近く聳え、富嶽其間に突出し、飛瀑平山瀧、其下に澎湃たり、稍西北は川村岸・皆瀨川・松田諸村の林巒高低環抱せり、其他最乘の深樹、吉田島の村落一瞬して盡すべし、水路の如きは、風雨に變遷して、景狀定まらずと云、

  • 吉田島村(卷之十三 足柄上郡卷之二):

    ◯渡船場 十文字渡と唱ふ、富士道係れり、平常は土橋三一は長三十間、一は六間半、一は六間、を架して、人馬を通ず、洪水の時は、橋悉く落る故、船にて往來す、其地形勢名義濫觴は、對岸松田惣領の條に辨じたれば、併せ見るべし、

(何れも雄山閣版より)

つまり、ここでは基本的には橋を架す運用ではあったものの、増水で流失した場合には舟を出していたということになります。何れにせよ、ここでは「川留め」の運用をしていなかったことになります。無論、水溢著しければそれどころではなかったと思われますが、下流の「酒匂川の渡し」よりは遥かに渡河出来る可能性が高かったと言えるでしょう。

武四郎はこの後も引き続き矢倉沢往還を進み、足柄峠を越えて竹之下村で2日目の行程を終えています。ここまでの3箇所の渡し場を見る限り、「川留め」のリスクは矢倉沢往還を進んだ場合の方が、少なからず小さかったと言えます。実際の歴史はその後、大きな河川であっても架橋を推進して交通の途絶を最小化する方向へと進みますが、それまではこうした「代替ルート」の検討が必要になる程に、メインルートである東海道の「川留め」が重要な問題になっていたことが、この「日記」からは伝わって来ます。

次回はこの途上の「継立」などについて見る予定です。




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この記事へのコメント

管理人のみ閲覧できます - - 2018年08月21日 16:47:30

このコメントは管理人のみ閲覧できます

松田~関本間交通事情 - BAZU - 2018年08月27日 15:48:11

お久しぶりです。足柄縣のBAZUです
こないだ十文字橋の歴史をまとめて「渡し」についても若干書いたんで、
参考になるかも知れません (URL参照)

明治22年、遅くとも27年末までに十文字橋(推定長263.6m)
が架かったと資料で判断できました

最後の渡し場は、明治20年頃地図によると現小田急橋梁付近に
3土橋で渡る渡しがあったようです
(明治20年頃地図は「e-かな」をぐぐってみてください)

享保12年(1727年)の大口堰改修で「現在の流れとほぼ同じになった」
そうなので、この間の渡し場はあんま変わらなかったと思われます

それ以前の渡し場は、酒匂川の流れがドコだったのか、
まだ不明な点が多く、絞り込めてません

記事中の町屋の記述は確かに変ですね
新松田駅から文久橋渡ったトコが町屋ですが、
明治中期位まで文久橋の事を町屋橋と呼んでたので、
酒匂川右岸に移ったとかは無いです

県道74号線の切通は、
往還が旧関本松田線ルートになった=十文字橋開通以降
と考えられるので、明治中期位に開かれたと思われます

大雄山鎮護妙覚道了大薩埵御縁起(明治45年)によると、
明治36年中、有志による道路改修が行われたようで、
切通も通ってる筈なのだが、残念な事に架かれてません
道幅四間で馬車も通行可との事

以上、お役に立てれば幸いです

Re: BAZU さま - kanageohis1964 - 2018年08月28日 14:52:50

こんにちは。ご丁寧なコメントありがとうございます。

「その2」以降でも触れた通り、松浦武四郎にとって初めて通ったであろう矢倉沢往還で、周辺の地理にも不案内であったと思われますので、専ら継立や渡し場の人足に聞いたのであろう伝聞が中心になっていて、その分記述の「精度」は多少なりとも落ちていると見ないといけないでしょうね。また、初日に東京・上野付近の自宅を発って日暮れ頃に厚木に入ってしまう程のかなりのハイペースで歩いていた様なので、歩きながらメモを取ったりする余裕があったとも思えず、それも記述の混乱になって現れているのでしょうね。

ただ、周囲の地理に不案内だった分、見聞きしなかった地名は書きようがなかったと思われるので、いずれにしても町屋は通ってはいるのでしょう。「日記」を書く段でその順番が渡しと入れ違ってしまったということなんだろうと読み解きました。

因みに、後日改めて分析しますが武四郎は町屋に差し掛かる前に神山で荷物を継いでいますので、恐らく松田惣領を経由しないで川音川の左岸を下って町屋から酒匂川を渡る筋だったかな、と思われます。その点では私の描いた地図の青線は若干修正しないといけないかと思います。

県道74号の切り通しがそこまで時代が下るとすると、「日記」の頃にはもっと険しい上り下りになったのでしょうけれど、健脚を誇る武四郎にとってはどうということのない坂だったのでしょうかね。

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