以前、奈良女子大学学術情報センターの「江戸時代紀行文集」を紹介し、リンク集の「参考資料」にも同サイトを追加しました。今回は、その中に収録されている「中空日記」に登場する生麦のツキノワグマについて少々考えてみたいと思います。
「中空日記」の著者は香川 景樹、江戸時代後期の歌人ですが、彼が江戸から尾張国津島にあった門人の元を尋ねる道すがら、同伴した弟子たちと詠んだ歌が多数収録されているのがこの紀行文の特徴です。江戸を発ったのは文政元年(1818年)旧暦10月23日(グレゴリオ暦11月21日)、もっとも当日は門弟たちとの別れを惜しんで品川で一泊しており、実質的な出発は翌日になりました。その際にもまず高輪の寺社などを訪れてから東海道を京方へと向かっており、その晩には神奈川宿に宿泊しています。ですから、生麦に差し掛かった頃には日が大分西に傾いていたと思われます。
その生麦では老婆たちが酒を酌み交わしている様を見て一首詠んでいますが、漁村の夕刻近い時間であったこともあって、家事を嫁に任せられる老女たちにはこうした時間を持つことも可能だったのでしょうか。その歌に続いて、同地の茶店が熊を飼っていることを次の様に記しています。
六郷のわたしをわたり、川崎より市場鶴見を過て生麦にかゝる
…
また熊をかひおける茶店あり、此くま春は芹をのみくひたるか、
今は柿をのみくひけり、さはいへ投やりて、塵なとけかれたるをはさら
にくらはす、されはたれも手つからやるに、其やることにかならすおし
いたゝきてくふめり、さてあるしかたらく、此熊は腹こもりにてえ
たるに侍り、今は十歳になり侍りぬ、親くまの腹をさかはきに
せし時、その利鎌のさき、かれか月の輪にかゝり侍りて、ほとほと命
あやふく侍りき、其疵いまに侍り、それ見せまゐらせよといへは、打す
わりてのけさまに、のんとをさゝけたるさま、あはれにかなし
月の輪にかゝれるあとを仰きてもみするやくまとなのるなるらん
(奈良女子大学学術情報センターの該当ページよりコピー&ペースト、改行も同ページに従う、…は中略)

(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
「明治期の低湿地」を合成)
本当に生麦にツキノワグマを飼っていた茶店があったのか、これだけを読むと些か疑問も感じてしまうのですが、この熊は後年になると芸を覚えて道行く人を楽しませる様になり、評判をとったことが幾つかの記録に残っています。委細は横浜市のサイトに掲載された次の文章が良くまとまっています。シーボルトが「江戸参府紀行」等でこのツキノワグマについて紹介していることや、生麦村の関口家が代々書き継いだ「関口日記」にも幾度かこの熊について記録が現れる点についてはここでは触れません。
この境内に「熊茶屋」と刻まれた石碑が残る
(ストリートビュー)
念のため、ツキノワグマが江戸時代にはもっと沿岸に近い地域にもいた可能性がないか調べてみました。神奈川県の1995年版のレッドデータブック(「神奈川県レッドデータ生物調査報告書」1995年 神奈川県立生命の星・地球博物館)では、ツキノワグマの分布の変遷について詳細に論じています。少々長くなりますが、該当箇所を引用します。
ツキノワグマ Ursus thibetanus (G. Cuvier) [危惧種D]
ツキノワグマは潜在自然植生や遺蹟の遺物、古文書の記録などから推定して、かつては九州・四国では比較的高標高地の山地、本州では海岸近くから亜高山帯まで広く分布していたと考えられる。しかし現在では、農耕地・住宅開発等の人間活動の影響により、森林の連続性が失われた地域では分布域も分断され、これらの地域の個体群は孤立状態に置かれるようになった(自然環境センター、1993)。「平成4年(1992)度クマ類の生息実態 緊急調査」(自然環境保護センター、1993)によれば、丹沢個体群は「危機的地域個体群(CP:Critical Population)(ここに」欠か)のカテゴリー、すなわち「生息数100頭以下で、生息面積が小さく、近い将来絶滅のおそれが高い個体群」に位置づけされた。本県における分布域は、北部方面は津久井町の焼山(1060m)からせいぜい津久井湖付近、東部は仏果山(747m)から高松山(147m)にかけての丘陵と大山(1252m)の山裾、南部は秦野盆地外周より松田、山北の高速道路に沿ったあたりまでで、この南部地域は宅地化が進んでいる(野生動物保護管理事務所、1987)。丹沢におけるツキノワグマ個体群は分布域の西側、すなわち隣接する山梨県の御正体山(1682m)の個体群や富士個体群と交流することによって、個体群として維持されているのが現状で、最低限の数とみるのが正しいと思われる(神奈川県自然保護課・野生動物保護管理事務所、1994)。個体数算定と一定の狩猟の動向から、丹沢個体群は30頭から40頭の範囲内で変動していると考えられている(飯村、1984a;神奈川県自然保護課・野生動物保護管理事務所、1994)。ツキノワグマはかつては伊豆・箱根地区(南足柄市を含む)に生息していたが、現在では、これらの地区での生息は確認されていない(鳥居、1989;田代、1989;石原、1991)。元文元年(1736)成立の『諸国産物帳』(盛永・安田、1986)には、伊豆半島の加茂郡の産物のひとつとしてツキノワグマが挙げられ、また、寛政12年(1800)に完成したといわれる秋山富南原の『豆州志稿巻七』には、稀であるとのことわり書きをしたうえで「天城山に生息する」という記述がなされている。少なくとも江戸時代には伊豆半島にツキノワグマが生息していたことは確かである。野生動物保護管理事務所(1987)によれば、伊豆半島には明治・大正頃までは生息していたという。しかし、大正3年(1914)に加茂郡役所の編集した『静岡県南伊豆風土記』には、イノシシとシカの記載はあるがツキノワグマのそれはない。一方、箱根にはいつ頃までツキノワグマが生息していたのかの資料に乏しいが、野崎ら(1979)によれば、昭和10年(1935)代以降生息しなくなったという。昭和4年(1929)に足柄下郡教育会の編纂した『箱根大地誌』にはシカとイノシシの記載があるが、ツキノワグマの記載はない。上記の資料から推察して、伊豆半島個体群は明治末期から大正の初め頃までに絶滅し、次いで箱根個体群が昭和初期までには絶滅したらしい。野崎ら(1979)は、箱根のツキノワグマ絶滅の原因のひとつとして、大正時代に始まる観光地としての開発、すなわち生息環境の破壊を挙げている。それに加えて、隣接する個体群が絶滅したことで遺伝的な交流を断たれ、さらに丹沢個体群とも隔絶されたことで絶滅に拍車がかかったと考えられる。(上記書162ページより)
この考察からは、大きく時代を遡った時には海岸線近くにもツキノワグマが生息していたこともあったものの、江戸時代には既に生息地は深い森の残る山奥へと追いやられていた様に読めます。
江戸時代の本草学の文献上の記述も見てみましょう。「和漢三才図会」では「
本綱熊生山谷」また「
按熊在深山中」とあり、松前や津軽の地名が産地として挙げられています。基本的には「熊掌」や「熊膽」つまり「熊の胆」など、熊の利用可能な部分の解説が主になっています。「本草綱目啓蒙」でも「
深山幽谷に棲む」と表現されており、何れも山奥に棲んでいることを示唆する表現になっています(以上、この段落のリンク先は何れも「国立国会図書館デジタルコレクション」)。
とすれば、ツキノワグマは当時も箱根・丹沢、もしくは小仏峠などの含まれる秩父山地など、生麦からは大分離れた山々から降りて来たことになりそうです。

(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
また、ツキノワグマは基本的に冬眠中に寝ぐらの中で出産します。遥々と生麦まで降りて来た母熊の腹の中に、茶店の主が取り上げて生育できる程にまで成長していた胎児がいたということは、この母熊は何らかの理由によって冬眠に入り損ねてしまい、空腹を抱えて餌を漁りながら海岸近くまで降りて来たことになるのでしょう。冬眠中に必要な栄養を秋のうちに蓄えることが出来なかった熊は、冬眠に入ることが出来ずに餌を求めて徘徊することがあります。この母熊が何故冬眠に入れなかったかは、想像するのも困難です。文政元年の9年前(茶店の主は数え年を言っていると考えられるので)ということは文化6年(1809年)、少なくとも江戸時代の代表的な飢饉の年とは噛み合っていませんが、熊たちの餌が不作になる条件と飢饉の条件が必ずしも一致するとは限りません。
何れにせよ、当時にあっても平野部の海岸線近くに熊が現れ、更にその子熊を取り上げて飼育していたというのは大変珍しい事例であったと思います。後に芸を覚える様になったのも、この熊が生まれてすぐに人の手によって育てられていたことが大きいのでしょう。元から芸を仕込もうとしてこの子熊を育てていたというより、たまたま縁あって飼育することになったと見る方が良さそうです。
もっとも、野生環境でも平均寿命は24年、飼育環境では30年を越えるとされるツキノワグマが、シーボルトがこの熊を見た直後の、数え年18の歳に亡くなってしまったことから考えると、やはり生態があまり理解されていなかったのかも知れません。
管理人のみ閲覧できます - - 2016年09月29日 21:57:19