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【旧東海道】その6 戸塚宿周辺の道と柏尾川水系【武相国境】(その2)

前回予告した通り、江戸時代の戸塚宿付近の東海道の道筋がいつ頃成立したかを検討します。

東海道戸塚宿と柏尾川の位置関係vector
東海道戸塚宿と柏尾川の位置関係
(「地理院地図vector」上で作図したものをスクリーンキャプチャ
「地理院地図」上で作図したものはこちら

前回見た通り、鎌倉古道は何れも足元の悪い柏尾川の流域を出来るだけ避け、必要最小限の距離で通過する様にしていました。こうしたこともあって、当時の街道が戸塚宿の付近を通ることはありませんでした。戸塚には平安時代に源頼義、義家親子が前九年の役平定の際に露営したと由緒として伝わる富塚八幡宮がありますので、この由緒通りならこの地が古くから鎌倉と何らかの関わりを持っていた可能性を考えなければなりませんが、少なくとも鎌倉時代以降は街道の中継地点として戸塚が使われることは久しくなかった様です。

この富塚八幡宮も含め、戸塚付近は台地の縁の柏尾川からはそこそこ比高差がある段丘の上にあり、その点では集落を形成しやすかったのでしょうが、これまでも検討してきた通り、そのすぐ上流が支流が多数集中するエリアであり、出来ればここは街道筋としては使いたくない場所ではあったのでしょう。因みに、戸塚から鎌倉へと抜ける道も「鎌倉街道」と呼ばれてはいるものの、この道が整備されたのは江戸時代に戸塚宿が成立した後ですので、それ以前の街道の検討には加えられません。この道は「浦賀道」とも呼ばれ、浦賀奉行所への連絡道でありました。

従って、江戸時代の東海道が開かれた時期は、鎌倉街道の利用が減退した後ということになり、これはどんなに早くても鎌倉幕府や室町時代の鎌倉府があった頃より遡ることはないと思われます。もしも、当時の政治の中枢地を差し置いて、それを近傍でバイパスする様な道筋に需要があるとすれば、恐らく大きな交易拠点の間を結ぶ様な道筋ということになるでしょう。しかし、一方には神奈川湊という大きな交易の拠点があるものの、反対側の藤沢には鎌倉を差し置いてまで交易の中枢になるだけの力があったのかどうか。まして、これまで見てきた通り、柏尾川沿いを抜けるとなると水害への備えなどで余分な労力を必要とする土地ですから、それに見合っただけの動機付けがなければ、敢えて既存の道筋を替えようという判断にはなりにくいのではないでしょうか。

では、戦国時代、特に後北条氏が関東を平定した時期はどうでしょうか。残念ながらこの時期、どの道筋を重要視していたかを伝える史料などの証拠が乏しいので、方法論としては当時後北条氏が築いた城などの配置を元に、どの様な道筋が主に使われていたかを類推するといった手法が主になります。そこで、戸塚付近の後北条氏の主要な拠点を探すと、玉縄城と蒔田城を挙げることが出来ます。


蒔田城の位置(「Googleマップ」より)
蒔田城の位置は現在の横浜英和女学院付近に当たりますが、その下を鎌倉街道下道が通っており、この道を上から監視できる位置取りであることがわかります。

ストリートビューと関連付けられているPanoramioというフォトアルバムに、この丘に上る階段の途上で撮ったと思われる写真が掲載されていました。現在は街道沿いに建ったビルに阻まれて街道の様子は見えませんが、ここからは街道筋への眺望が十分に取れたことは確かでしょう。

2020/10/09追記:Panoramioの写真は既に削除されているため、改めてGoogleマップにアップされている写真へのリンクを置いておきます。この写真では、蒔田城址がある高台の下にかなり急峻な崖があることがわかります。


玉縄城の位置(「Googleマップ」より、ポインタは複数ある城址碑の1つ)
玉縄城の方は戸塚よりも南側に位置しますが、こちらは鎌倉街道中道から水堰橋で分岐して俣野付近で上道へ抜ける連絡道がすぐ南を通っています。実際に、玉縄城の麓で安房里見氏と一戦を交えたのは柏尾川の畔で、そこはこの連絡道の上でしたから、恐らく里見氏もこの道を経て攻め入って来たのでしょう。

こうして見ていくと、もう少し小さな陣屋などを間道に配備していた可能性もありますが、やはり後北条氏の時代にあっても、引き続き鎌倉街道の道筋を活用していた可能性の方が高くなってきます。因みに、「戸塚区」(1991年)では

小田原北条氏関係の文書を通覧した限りでは、北条氏は伝馬などの駅制の整備や、殊に城郭の整備には大変熱心であったが、道路そのものについては、修理の手は絶えず加えたであろうが、広範囲に亘る道の付け替えなどの大規模な土木工事は行わず、道筋自体にさしたる変化はなかったのではあるまいかと推定する。(61~62ページ)

と記しています。後北条氏の支配した領土全体について道筋に変化がなかったとする見解は、以前取り上げた滝山街道の存在を考えると些か疑問も感じますが、少なくとも戸塚付近に関しては主要な街道の道筋に大きな変化がなかったということで良さそうです。

因みに、保土ヶ谷の郷土史研究家の中には、上杉謙信や武田信玄の侵攻ルートを以って、既に当時から境木を経る江戸時代の東海道筋に相当する道があったと考える人もいる様です。しかしながら、軍記物の信憑性を脇に置くとしても、敵の領地に深く入り込んで拠点を目指すこれらの武将の行動を見ていると、寧ろ守りを固めた主要な城のある道筋を避けて通った可能性の方が高いのではないかと思います。その点は、以前六郷橋の架橋時期を検討した際にも、信玄が守りを固めた六郷を避けて池上へと抜けていった道筋にも窺えます。その際にも地元の町民を使って道案内させていることから、敢えて裏道を使ったと考えるのが妥当であり、従ってこの時のルートを街道の証拠として採用するのは少々問題がある様に思います。精々農道か、隣村などへの連絡道として自発的に切り開かれた道があった程度ではないでしょうか。

次回もう少し続けます。



訂正に近い追記:

戸塚には平安時代に源頼義、義家親子が前九年の役平定の際に露営したと由緒として伝わる富塚八幡宮がありますので、この由緒通りならこの地が古くから鎌倉と何らかの関わりを持っていた可能性を考えなければなりませんが、


この書き方では、戸塚に限らず、柏尾川流域には鶴岡八幡宮をはじめとする鎌倉の寺社に源頼朝の寄進地がたくさんあった点を御存知の方には、何を寝ぼけたことを…と言われてしまいますね(汗)。頼義、義家親子が合戦に向かう途上にこの地に立ち寄ったと社伝が伝えるならば、戸塚を経て遠方に向かう街道がその当時存在していた可能性を考えないといけない、という趣旨の記述にしないといけないところでした。



追記:
  • (2013/11/27):レイアウトを見直しました。
  • (2020/10/09):1枚めのYahoo!マップを地理院地図上で作図したものと差し替えました。また、2枚めと3枚めのYahoo!マップをGoogleマップと差し替えました。更に、本文中にも記しましたがPanoramioの写真が削除されたため、代わりの写真へのリンクに置き換えました。
  • (2020/10/27):「地理院地図」上で作図したものでは柏尾川水系の流路が何処にあるのかわかりにくかったので、改めて「地理院地図vector」上で作図したものと差し替えました。但し、「地理院地図vector」で作図したものを直接参照していただく方法が現時点では存在しませんので、前回「地理院地図」上で作図したものへのリンクは残しました。

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