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浦賀の葦鹿:「新編相模国風土記稿」より

以前「新編相模国風土記稿」の各郡の産物一覧をまとめた際には、浦賀の「葦鹿(あしか)」を「変わり種」としてごく簡単な解説を付けました。と言っても、別途引用したのは「かながわの自然図鑑③ 哺乳類」(2003年 神奈川県生命の星・地球博物館編)だけで、当時の実情についてこれといって掘り下げた訳ではありませんでした。そこで今回は、もう少し史料を集めて改めて解説したいと思います。


まず、「風土記稿」の各部の記述を拾ってみます。
  • 山川編(卷之三):

    ◯葦鹿三浦郡西浦賀分鄕の海中、海鹿島の邊に多し、此獣冬月尤多くして、其肉味殊に美なりと云ふ、

  • 三浦郡図説(卷之百七 三浦郡卷之一):

    ◯葦鹿阿志加◯西浦賀分鄕の海中海鹿島の邊に多し、此獣冬月尤多くして其肉味殊に美なりと云ふ、

  • 西浦賀分鄕(卷之百十三 三浦郡卷之七):

    ○海鹿島阿志加之末陸より十町餘に在、二島相並ぶ一は長十四間半、横十間許、一は長十三間横七間葦鹿常に此島に上りて午眠す、故に此名あり、享保以後浦賀奉行より同心等に命じ鐵炮をもて打しむ、此獸冬月は頗多く、寒中は其肉味殊に美なりと云、又此島に續て笠島と云小島あり、常に水中に沒す

(以下、「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より)


山川編と三浦郡図説の記述の違いは「三浦郡」の3文字が入っているか否かだけであり(読点の位置の違いは雄山閣版編纂時に生じたもの)、事実上完全に同一で、冬場に特にその数が増え、肉が美味であることを記しています。他方、西浦賀分郷の項では「海鹿島(あしかしま)」の項でアシカが常に休んでいる島であることからその名が生じたこと、そして享保年間以降浦賀奉行が同心に命じて鉄砲で撃たせていたことが記録されています。

和漢三才図会巻38海獺
和漢三才図会「海獺」
訓は「うみうそ」で「あしか」はない
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
和漢三才図会巻38海鹿
同じく「海鹿」
こちらには「あしか」の訓がある
(「同左」)

「風土記稿」ではアシカの表記に「葦鹿」の字を宛てていますが、この表記を何処から持ってきたものかはわかりません。「和漢三才図会」では上掲の様に「海獺」と「海鹿」の2種類の項を掲げつつも、両者は実質的に同じものであることを「海獺」の絵の下や「海鹿」の書き出しの部分に記しています。また、「本草綱目啓蒙」では「海獺」の項のみが存在し、「ウミヲソ」「ウミウソ」の訓に加え、筑前で「アシカ」の名で呼んでいるとしています。以下に引用する村明細帳でも「葦鹿」の表記は用いられておらず、本草学の表記に従うことの多い「風土記稿」にあっては珍しい例と言えそうです。

浦賀道見取絵図:燈明崎付近
浦賀道見取絵図:燈明台付近(再掲)
ここで登場する「海鹿島」ですが、以前紹介した「浦賀道見取絵図」では、燈明台の置かれていた燈明崎からさほど離れていない場所に位置している様に描かれています。

地形図上の「海獺島」(「地理院地図」)
ズームアウトすると西北側に久里浜港が見えてくる

しかし、現在「アシカ島(海獺島)」として知られている小島は陸地からは大分離れて位置しており、むしろ久里浜に近い海上にあります。「風土記稿」の記述でも「陸より十町(約1.09km)餘に在」と記していることからも、「海鹿島」は決して陸に近い岩礁などではなかったことは確かです。「浦賀道見取絵図」を含む「五街道其外分間見取延絵図」では、道路とその近傍のものについては測量結果を元に距離関係をなるべく忠実に反映する様に描いていますが、より遠方の目標物に関しては必ずしもその限りではなかったため、「海鹿島」については図中に収まる位置に描いたのでしょう。

「海鹿島」が久里浜村の属ではなかった点は今の町名からはやや違和感がありますが、西浦賀分郷は現在の久里浜港のある入り江付近まで拡がっていましたので、その点ではこの小島が西浦賀分郷の内にあったのはさほど不自然ではありません。「風土記稿」に「二島相並ぶ」とある点、そして最長で14間半(約26m)という特徴は大筋でこの島の特徴と合っていますが、かつてはこの小島の上で多数屯していたというアシカの姿を見かける代わりに、現在では燈台と海上の気象観測のための無人施設が設置されています

ともあれ、当時はこの島に集うアシカを撃たせていたと「風土記稿」は記している訳ですが、この裏付けとなる史料としては、東浦賀が享保18年(1733年)5月に差し出した村明細帳を挙げることが出来ます。この村明細帳は浦賀奉行の交替に際して領内の各村から提出させたものであることが表紙に記されていますが、その中に

一あしか御用付御鉄炮衆御出被遊候節、人足漁船御用相勤申候

(「相模国三浦郡の村明細帳」青山孝慈著、「三浦古文化」第13号 1973年 所収 63ページより)

という一文があります。浦賀奉行が鉄砲衆を連れてアシカ狩りを行う際に、東浦賀から船と人足を出していたというのですが、現在の地形図で見ても1km以上離れた海上の島にいるアシカを陸上から狙うのは、射程距離200m程度とされる当時の鉄砲ではまず無理で、船で射程圏内まで接近する必要があったのでしょう。特に年月や時季については明記されていませんが、冬場の肉が美味であると「風土記稿」が書いていることから判断すると、毎冬に定期的に行っていたことになりそうです。

捕えたアシカは誰が食べていたのでしょうか。「徳川実紀」の「大猷院殿御實紀卷六十六」では、正保4年(1647年)4月3日の項に

けふ葛西二の江漁人得たりとて海鹿を獻ず。(日記、紀伊記)

(「新訂増補国史大系第四十巻」吉川弘文館 480ページ下段より)

とあり、当時の将軍であった徳川家光に対して東葛西領二ノ江村(現:東京都江戸川区二之江町他)の漁師が捕えたアシカが献上されています。同書の索引で確認する限り、アシカが将軍に献上された記録はこれ1件のみの様ですが、浦賀奉行が例年撃たせていた状況から見ても、武家にとっては「珍味」と言うべき存在だったのでしょう。また、この記録から当時は江戸の近海でもアシカの姿を見ることがあったことが窺えます。

漁師がアシカを食していた可能性についてはどうでしょうか。三崎の漁師であった湊左文という人が著した「相模灘海魚部」という書物には、相模灘で得られる海産物などをまとめた中にアシカの姿が描かれており、「かながわの自然図鑑③ 哺乳類」には彦根城博物館が所蔵する同書の写本の絵が掲載されています。この書物について国立研究開発法人 水産研究・教育機構 中央水産研究所の図書資料デジタルアーカイブでは「作成年不明」としていますが、彦根城博物館がこの写本を所蔵しているのは彦根藩が幕末に海防の目的で三浦郡の一部を所領とした時期(弘化4年・1847年〜嘉永6年・1853年)があったことと関係が高いと考えられることから、少なくともこの書物はその頃には写本を献上できる状態にあったと考えられます。この「相模灘海魚部」のアシカの絵について、「かながわの自然図鑑③ 哺乳類」では「尾が太く長く描かれているなど、不正確な絵であるが、ニホンアシカと同定される」(93ページ)と評していますが、確かに尾部の表現は実物とは若干異なっている様に見えます。

注目すべきはその右側に記された記事で、「味似伊留加(味イルカに似る)」と記されていることから、少なくとも著者の湊左文はアシカやイルカを食した経験があった様です。また、この記事の中では「魚網魚取食故漁人甚悪之」と記していることから、漁師からは「害獣」として認識されていたことがわかります。当時の実情からは漁師自ら鉄砲を持って積極的に捕獲する訳には行かなかったと思われることから、彼らの場合は漁の最中に網に掛かったりしたアシカを捕えていたのでしょうが、彼らもその様な経緯で得たアシカを食す機会はあったものと思われます。ただ、当時の漁師がどの程度の頻度でアシカを口にしていたかは良くわかりません。少なくとも、江戸時代を通じて一定数が生息していたと考えられるので、個体数を減らしてしまうほどの積極的なアシカ漁は行われていなかったのではないか、と個人的には考えています。


三崎の漁師である湊左文が、自らの漁場を離れて浦賀の近海まで乗り出していたとは考え難いので、彼がアシカを見かけていたのは洋上か三崎付近の岩礁の様な場所だったのでしょう。「かながわの自然図鑑③ 哺乳類」にはこの浦賀の「アシカ島」の他に、「かつてニホンアシカが繁殖または休息のために上陸した小島・岩礁」と題した図を掲げ(93ページ)、地名から推察したと思われるかつてのアシカの生息地を列挙しています。このうち、神奈川県の沿岸では
  • 横浜市神奈川区(トド島)
  • 横須賀市久里浜(アシカ島)
  • 三浦市八浦(トドノ島)
  • 三浦市晴海町(トッド島)
  • 三浦市城ヶ島(アシカヶ入江)
  • 葉山町森戸(トットヶ鼻)
  • 葉山町森戸(トットノ島)
と、城ケ島をはじめ三浦半島沿岸の地名を多数挙げており、アシカの生息する海が多数あったことが窺えます。この中には三崎の対岸に位置する城ケ島の名前も含まれていますので、湊左文がアシカを見たりしていたのはこの付近でしょう。この一覧では他に、房総半島、伊東、伊豆大島の地名が挙げられています。


三浦市南下浦町毘沙門字八浦の位置(「地理院地図」)
「風土記稿」の三浦郡毘沙門村(現:三浦市南下浦町毘沙門)の項には

◯海 村南にあり、江戸迄海上十八里、海岸に白濱・八浦夜都宇良をそ・堂ケ島等の名あり、

(卷之百十二 三浦郡卷之六、強調はブログ主)

とあり、「トドノ島」の代わりに「をそ(獺)」の名が挙げられていることから見ると、こうした海岸の名称はその時々によって呼び替えられていたのかも知れません。

後にシーボルトが持ち帰った標本やスケッチをもとににして編纂された「日本動物誌」の中では、アシカは「Otaria Stelleri」としてその姿骨格などの図(リンク先は「京都大学電子図書館 貴重資料画像」)と共に紹介されました。シーボルトが持ち帰ったとされるアシカの標本がオランダのライデン・国立自然史博物館に所蔵されているそうですが、滞在していた長崎・出島で入手したものとされ、当時はこうした地域でも普通に見られる動物であったことがわかります。

こうした状況が変化していったのは、やはり明治時代の後期頃からであった様です。神奈川県の「レッドデータブック2006年版」では次の様に記されています。絶滅の原因については他にも乱獲駆除などを挙げることは出来そうですが、何れにしても人為的な側面が強く作用したことは間違いないところでしょう。

ニホンアシカ Zalophus californianus (Lesson)(アシカ科)

県カテゴリー:絶滅(旧判定:絶滅種B)国カテゴリー:絶滅危惧ⅠA類

判定理由:明治30年代頃までは、棲息の記録があるが、以降は全くみとめられない。

生息環境と生態:海岸部で休息・繁殖する姿が以前は認められたが、現在はない。

生息地の現状:繁殖や休息に利用していた岩礁海岸が開発と共に消失してしまった。

存続を脅かす要因:海岸開発、水質汚濁

県内分布:絶滅したため、なし

国内分布:不明

(「神奈川県レッドデータ生物調査報告書」高桑正敏・勝山輝男・木場英久編 2006年 神奈川県立生命の星・地球博物館 236ページより)


実はこの2006年のレッドデータブックのこの項では、末尾に参考文献として「かながわの自然図鑑③ 哺乳類」が挙げられています。既に域内からは絶滅して久しい動物だけに、過去の記録を引き継ぐ以上に記述の厚みを増すことが出来なくなっていることが、こうした文献の参照関係にも現れているとも言えそうです。
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この記事へのコメント

- AzTak - 2016年05月02日 13:26:46

確かにアシカが生息していたような地名が残っていますね。現代に生きる我々には信じられないような環境があったようですね。
絶滅した原因には、温暖化なども影響していたように思いますし、銃猟などが災いしたようにも思えます。もう元に戻ることはないことを考えると、残念です。

Re: AzTak さま - kanageohis1964 - 2016年05月02日 18:39:57

こんにちは。コメントありがとうございます。

ニホンアシカについては既に絶滅した可能性が高いと考えられていますし、今となってはその生態の詳細を改めて調査することも出来なくなっていますから、絶滅に至った経緯を検証する事さえままならなくなってしまっていますね。

- ijin - 2016年05月02日 19:58:30

何事にも根気がなくなって、貴ブログも横目で観て来た感じがします。
落ち着きを取り戻しましたら、確り拝見させて頂きます。

アシカに関する記事。
面白く拝見しました。

自然に住む動物たちも、種をかけた生き方を選んだと思いますが、
それでも絶滅もあったり、放逐されたものもあるのでしょう。

具体的にアシカの名が挙がれば、興味がわき立ちました。

有難うございます。神奈川情報にP。

Re: ijin さま - kanageohis1964 - 2016年05月02日 21:30:17

こんにちは。コメントありがとうございます。

毎度長い記事の多いブログで恐縮です。お時間のある時にゆっくりお読みいただければ大変あり難いです。

今となっては見るのも困難になってしまった動物の痕跡は、こうした古い記録を拾い集めて繋ぎ直してみるしかないでしょうね。また新たな記録を見つけたら追加でまとめてみたいと思います。

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