FC2ブログ

「新編相模国風土記稿」産物に記された「炭」(その7)

前回に引き続き「新編相模国風土記稿」に記された相模国の炭について見ていきます。今回は、「風土記稿」で取り上げられた地域に隣接するかつての宮ケ瀬村周辺で大量に発掘された、江戸時代の炭窯遺構について紹介します。

宮ケ瀬ダムの建築に伴って水没することが確定した地域で大規模な発掘調査が行われた件については、以前漆を取り上げた時に紹介しました。今回もこの発掘調査の報告書の1つと、この発掘調査を受けて執筆された次の論文を元に今回の記事を組み立てます。更に、参考資料として津久井郡の民俗調査の一環でまとめられた資料を併せて参照します。

  • 神奈川県立埋蔵文化財センター調査報告21 宮ケ瀬遺跡群 2 ナラサス遺跡ナラサス北遺跡」 神奈川県立埋蔵文化財センター編 1991年 (以下「報告書」)
  • 近世宮ケ瀬における炭焼きについて(予察)—宮ケ瀬遺跡群検出炭窯の歴史的背景を中心として—」 武井 勝著 「神奈川考古 第25号」(1989年5月 神奈川考古同人会)所収 251〜264ページ (以下「予察」)
  • 津久井郡文化財 5 産業編—養蚕と炭焼—」 津久井郡文化財調査研究会編 1988年 (以下「文化財」)


現在の清川村宮ケ瀬の位置(Googleマップ
今更ながら、改めて宮ケ瀬村の位置を地理的な側面も含めて確認しておきます。昭和31年(1956年)に煤ヶ谷村と合併して清川村宮ケ瀬となったこの地域は清川村の北西側半分を占めており、宮ケ瀬ダムが出来る前は中津川渓谷沿いの河岸段丘上に中心集落がありました。旧煤ヶ谷村域からは辺室山中腹に端を発する川弟川(かわおとがわ)が流入して中津川(「風土記稿」では「布川」と称しています)に合流していますが、煤ヶ谷村の中心集落は小鮎川沿いに展開しており、煤ヶ谷から宮ケ瀬へ抜ける甲州道はその途中土山峠でこの2つの川の分水界を越えます。他方、宮ケ瀬村の北側は津久井県鳥屋村や青山村(現:相模原市緑区)等に接していますが、中津川沿い宮ケ瀬村の集落から鳥屋村への道は段丘崖に斜に付けられた比高差100m以上の急坂を登る必要がありました。この鳥屋村の中心集落も中津川には合流しない串川沿いに展開していますが、この集落の辺りは山中にしては意外に広い平野になっており、これはかつては串川に合流していた早戸川が河川争奪によって中津川に合流する様になったことによって下刻が進み、旧来の河川敷が取り残された結果出来た地形と見られています。

つまり、宮ケ瀬村は中津川渓谷の作り出す地形によって南北の村と分水界によって隔てられている場所に位置しており、村域から流出する中津川の急流が作り出した急峻な渓谷と相俟って「秘境」の様な景観を有する村となっていました。この地に新田義貞の家臣であった矢口信吉が落ち延びて密かに富を蓄えていたという落武者伝説が伝えられているのも、こうした地形と無関係ではないでしょう。

この水没域で大規模に行われた発掘調査では、かなりの件数の近世の炭窯跡が発見されました。特に、対象地域の北側に位置している「ナラサス遺跡」「ナラサス北遺跡」「上原遺跡」の3箇所で、計48基もの炭窯跡が発見されています。他に、これら3箇所からはやや離れた、宮ケ瀬村の本集落に近い「北原遺跡」でも、16基の炭窯跡が発掘されました。


1974〜78年頃の空中写真に見る該当地(「地理院地図」)
水没前の地形については
今昔マップ on the web」も参照のこと

「ナラサス」の地名は現在は
湖岸を走る道路に設けられたトンネルや橋に残る
(トンネル上部の扁額に注目)
遺跡はこの辺りから標高差100mほど下の湖水中
ストリートビュー

「報告書」では「ナラサス北遺跡」の位置や地形について次の様に記します。

本遺跡は、津久井郡津久井町大字青山字南山2145―46他に所在し、一部愛甲郡清川村宮ケ瀬字ナラサスにまたがり、宮ケ瀬遺跡群のダム水没区域内において最北に位置する遺跡である。

丹沢山塊に源を発する中津川は、宮ケ瀬の落合で早戸川と合流した後、流路を北東方面にとって流れるが、本遺跡はその合流点の北東約400mに位置する。ナラサス遺跡の北東に隣接する本遺跡は、中津川の浸食作用により形成された四段の段丘面のうち最上位(宮ケ瀬Ⅰ面)に立地し、同じ段丘面上のナラサス遺跡上段面とは南西部で中津川の支流によって形成された沢によって分断されている(第1・2図)。

遺跡の現地表面に見る地形は、標高230m前後の緩い傾斜の平坦地をなし、南側に流れる中津川の曲流部に当たる部分は浸蝕を受け若干オーバーハングした崖状を呈している。これに対し、関東ローム層上面での地形をみると、本遺跡は北から南方面へ比高差数mほどの緩斜面をなしており、南西部と北東部に比較的平坦な面が見受けられる。

(「報告書」311ページより、付図は省略)


カタカナで書かれているために外国語然として響く「ナラサス」という小字については、今回調べ得た範囲ではその由来を突き止めることは出来ませんでした。元文2年(1737年)の文書では「奈良さす」と記した例もあるものの、これも宛て字である可能性がかなり高そうです。ただ、「奈良」だけ宛て字とする語感からは「ナラ」に意味を含んでいる様にも見受けられ、あるいは「楢」に関連があるのかも知れませんが、これまた憶測の域を出ません。ともあれ、小字「ナラサス」は宮ケ瀬村の北辺で青山村と隣接し、中津川渓谷が北向きから東向きへ流れを変えた先の段丘の上にある地域でした。

「ナラサス遺跡」からは江戸時代前期と推定される炭窯が4基(うち1基は稼働痕跡がなく、構築中の状態で放棄されたと見られています)、「ナラサス北遺跡」からは江戸時代中期から後期と推定される炭窯が36基も見つかりました。「ナラサス遺跡」から出土した炭化物からは炭焼に使われた樹種として「ハンノキ属、クマシデ属、ブナ属、コナラ節、アカガシ亜属、ケヤキ、ナツツバキ属類似種」(「報告書」9ページ)が検出されており、これらの遺構が確かに炭窯であったことが確認出来ます。特徴的なのは、これら40基が何れも「横穴式土窯」であるということです。「ナラサス北遺跡」の炭窯について「報告書」は次の様に記します。

…ナラサス北遺跡においては合計36基の炭窯が検出された。わずか100mあまりの崖面に東西にひしめきあうようにして存在する。炭窯はいずれも、基盤層である関東ローム層をトンネル状にくりぬいて構築された、いわゆる横穴式土窯である。1基の炭窯において幾度となく炭焼きが繰り返されたことは、内部の土層の堆積状態によって明らかであり、使用に(ママ)えられなくなった炭窯は放棄され、新たに奥へ奥へと構築されていったことが、遺構の配置から考えられよう。

炭窯内部からの出土品は極めて乏しく、唯一9号炭窯の覆土中より出土した近世陶磁器の破片が、操業年代を類推する資料となろう(第11図)。この破片は肥前系の茶碗で、高台の外径4.8cmを測り、接合しない同一個体の破片1点が他に存在する。18世紀後半から19世紀初頭にかけての所産と考えられる。

炭窯の中には、炭化室の床面積が10㎡をこえる巨大なものも存在し、したがって規模は大小様々であるが、炭化室の最大幅が1.8m前後のものが多く、ことによると1間という単位で幅が設定されたことも考えられる(第33図)。

特定の地域に密集して炭窯が存在することは、宮ケ瀬地域内においてもこの地が炭焼きを操業するにあたって最適の諸条件を満たした場所であったことを物語っている。立地的には炭窯の構築された崖下約50mには中津川が流れており、川面を南から北に吹き上げる川風が、炭窯用部の燃焼効率を高めるうえで大きく寄与したであろうことは、想像するに難くない。また炭窯群の背後には鬱蒼とした雑木林が生い茂り、木炭の原料となる原木を容易に入手することが可能である。さらに炭窯群のすぐ西には、中津川の支流である小川が流れ、小さな沢を下れば水を確保することが可能である。以上の諸条件を満たした地であったからこそ、この地に固執して操業が繰り返されたのであろう。

(「報告書」340ページより、…は前略、付図は省略)


炭窯の設置に適した場所については、「木炭の博物誌」は「炭材を集めやすく、水に便利であること、風当りが少なく、乾燥地で岩石の少ない、緩やかな傾斜地」(143ページ)と記します。他方で、「文化財」でも適地の条件に「陽地で乾燥している所」を挙げるものの、「乾燥しすぎている所では冷却に時間がかかり、その反対は未炭化を生じる。」(54ページ)としており、乾燥してさえすれば良いとは考えられていなかった様です。その「文化財」も「強風の当たらない所」を条件の1つに挙げており、その点では「報告書」の指摘は必ずしも妥当ではない様にも見えますが、川から程近い、水を得やすい場所である程度乾燥した空気を得るには風通しが悪くても湿気が抜けませんから、程々の通風は必要だったとも言えそうです。


この「横穴式炭窯」については、「予察」では次の様に指摘しています。

まず、炭窯自体の特徴とそれに関する問題点について考える。第一に、宮ケ瀬遺跡群で検出された炭窯はいずれも土窯で、崖斜面のローム層や下部の礫層をトンネル状に掘り込み、奥に立上がりの煙道を掘る横穴式の簡単なものである(図2)。これは、県内や多摩地方などにおいて検出された炭窯が、一旦地山を掘り込み、その後床面・窯壁・天井部を構築するいわゆる半地下式の構造を呈するものとは根本的にことなっている。こうした横穴式の炭窯は全国的にも希少なものと思われ、管見したところでは青森県東津軽郡田町大平の「清水股沢」遺跡で発見された「ホリガマ」と称される炭窯(図4)と同形式のものではないかと思われる。このような希な構造を有する大型の炭窯が、宮ケ瀬遺跡群で数多く検出されるのは何に起因することなのか、時期差か地域差かによることなのか、横穴式の形態・構造を呈する炭窯資料を多く収集し、他の構造のそれと比較検討することが今後の課題となろう。

(「予察」262ページより)


「近世宮ケ瀬における炭焼きについて(予察)」図2
「予察」図2(252ページ)
「近世宮ケ瀬における炭焼きについて(予察)」図4
「予察」図4(262ページ)

こうした横穴を掘る炭窯は現在一般的に知られる炭窯とは大分異なる方式であることは確かです。これに関連して、「文化財」では次の様に、江戸時代の津久井県では鍛冶炭はそもそも炭窯を構築しない方式で焼いていたことを紹介しています。

津久井郡では昔から郡下一円で炭焼が行われていたものと思われる。その用途は、家庭用のほかに(なた)、鎌、庖丁(ほうちょう)、刀、槍などの鍛冶炭であったと言われる。鉈、鎌、などは農耕に製鉄器具が使用され始めてのことであるから相当に(さかのぼ)って鍛冶炭の生産がなされたものと思われる。神原家文書によると、正保五年(一六四八)子閏正月、津久井領の内牧野村名主次郎左衛門が代官に当てた青根山入妨げにつき牧野名主訴状に「炭釜五拾参口焼かせ」云々(別記)と、あることから青根山に於いて今から三四〇年前には木炭の生産がなされていたことがうかがえる。さらに津久井郷土誌によると、「古文書で見る限り当地の木炭は築窯(ちくよう)による白炭と、掘り窯による鍛冶炭(当地ではかんずみという)があり、明治になり大正時代となって鍛冶炭は種々改良され、現在の築窯による黒炭となったのである。鍛冶炭の製法について、鍛冶炭は地面を掘って下へ丸太を置き、炭木を横に並べて火をつける。一番上へもみそ(樅)の葉や枝ごみを置き、火をつけたままその上に土をかぶせる。大体炭になったら上から押しつけ消す。(中略)炭は軟かく、火持ちはよくないが、炭火への通気で火力の強弱を自在にすることができ、鉈、鎌、庖丁、刀槍などの鍛冶炭に使われた」と記述している。

津久井町鳥屋の荒井勇氏の談

鍛冶炭は枯らした栗の木を細かく割って、それを一定の場所に積み上げる。その上をスズ竹などで覆い、さらにその上に落葉などを乗せ、一番上を土で覆う。火を一方向からつけ、炭化したら押しつけて消すと出来上がる。江戸時代はほとんどこの製法の鍛冶炭であったようだ。この炭は火の起りが良く、使い良かった。明治時代になって現在の黒窯で焼いた軟かい松炭を使うようになった。

(「文化財」50ページより、傍点は下線に置き換え)


ここで記録されている様な炭窯を築かずに炭焼を行う方式については「木炭の博物誌」でも「ボイ炭やき」という名前で紹介しており、この方式で焼いた炭は「軟質で、もろく、火つきはよいが長持ちしない。そして細かくくだけた炭が多く、わが国では鍛冶炭、炬燵(こたつ)(うも)れ火、練炭・豆炭の原料などに使われていた。」(135〜136ページ)としています。津久井県の炭焼については先日紹介した通りですが、比較的廉価に生産していた鍛冶炭がこの様な方法で焼かれていたという証言は、当時の炭焼事情を考える上では重要な手掛かりとなりそうです。

「文化財」の記すこの「かんずみ」の製法が当時津久井県全域で行われていたのか、更には津久井県に隣接する地域にまで広がっていたのかは定かではありません。ただ、如何に渓谷で隔てられているとは言え、「ナラサス北遺跡」の位置が一部津久井県域にかかっており、すぐ隣が「文化財」で証言が紹介されている鳥屋村であることからは、この「横穴式炭窯」が出土した地域も通常は「ボイ炭やき」を行う地域と重なっていた可能性が高いのではないかと思います。

「予察」の指摘通り、神奈川県域での炭窯の発掘事例が少ない現状では、この地域に何故横穴式土窯が多数築かれたのかという疑問を解き明かすのは難しいのが現状でしょう。敢えて考えられるところを記しておけば、出土した炭窯が何れも土窯であることから、少なくとも「白炭」を焼くための窯ではなかった可能性が高いものと思います。「備長炭」に代表される「白炭」を焼く窯は石窯を使うのが基本で、これは最後の「ねらし」で一気に空気を送り込んで1000℃にも達する高温とする過程を含む関係で、黒炭を焼く様な土窯ではこの高温に耐え切れない虞があることによります。「報告書」を見る限り、こうした高温への対策のための石積みなどは炭窯跡から出土しなかった様ですから、焼かれていた炭は「黒炭」ということになるでしょう。

しかし、「黒炭」の一種である「かんずみ」を専ら炭窯を使わずに「ボイ炭やき」で焼いていた地域にあって、敢えてこの様な炭窯を造っていたということは、これらの炭窯では通常この地域から「かんずみ」として出荷している炭とは違う性質の炭を焼いていたのかも知れません。宮ケ瀬村の南隣の煤ヶ谷村では「御用炭」を焼いていたことは前回確認しましたが、その炭が白炭であったのか黒炭であったのかが確認出来る文書は残っていない様です。ただ、それが黒炭であった場合には、「かんずみ」の様な粗い炭が「御用」に耐えられるとは考え難いことから、炭窯を造って焼いていたのかも知れず、その場合に宮ケ瀬村の様な「横穴式土窯」が用いられていたではないか、という気もします。あるいは、かつての煤ヶ谷村域でも江戸時代には「横穴式土窯」が造られていたのかも知れません。

煤ヶ谷村とは違って宮ケ瀬村や津久井県の村々が「御用炭」を納めていたとする記録はないので、その様な「高級」な黒炭が焼かれていたとすれば、その旨の注文を何らかの形で請け取って焼かれていたことになるでしょうが、今のところその様な推察を裏付ける史料は見つかっていません。発掘された炭窯について、「予察」では次の様に記しています。

ところで、こうした歴史的状況において検出された炭窯の歴史的な位置付けは、どのように考えられるのであろうか。ナラサス遺跡で検出された炭窯については、元文2(1737)年4月の青山村との山論の際、その原因となった「奈良さすたいら」の畑内に構築された炭窯との関連が指摘できる。しかし、ナラサス遺跡の炭窯は宝永のスコリアとの関係から、1707年以前の年代が与えられており、時間的にずれが生じる。この矛盾をどう解決するのか今後の課題である。また、ナラサス北遺跡で検出された大規模な炭窯群は、当時の宮ケ瀬で炭の大量生産が組織的に行われたことを裏づける資料になるものと考えられるが、管見した近世文書にナラサス北遺跡の場所や炭窯群での炭焼きの内容を記したものがなく、推定の域をでないのである。

(「予察」263ページより)


とは言え、こうした多数の炭窯遺構が、この地域での炭焼が極めて盛んであったことを物語る存在であることには違いはありません。「予察」では宮ケ瀬村や煤ヶ谷村などに伝わる数々の文書を分析して当時の宮ケ瀬での炭焼について解き明かされており、この山深い秘境の渓谷に位置する村でも炭焼が江戸時代の主要な産物であったことが窺い知れます。この地域でどの様な炭焼が行われていたのかを考える上では、発掘された横穴式土窯はやや特殊な例ということになるのかも知れませんが、かなりの基数の炭窯が発掘されていることからは、ある程度の期間にわたって相当量の炭を量産していたことは確かです。その点で、これらの炭窯遺構から産出されていた炭が宮ケ瀬渓谷での炭焼の中でどの様な性質を持っていたのか、課題を投げ掛ける存在と言えそうです。


相模国の炭焼について、当初の予定よりも大分長くなってしまいました。次回相模野の炭焼と近世以降の動向を簡単に取り上げてまとめとする予定です。



追記(2018/02/27):「地理院地図」を常時SSL化するに伴い、空中写真に地形図が合成される様に表示を調整し直しました。

スポンサーサイト
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

※blogramのサービスが2018/10/31で終了しましたので、ボタンを撤去しました。

この記事へのコメント

トラックバック

URL :