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「新編相模国風土記稿」産物に記された「炭」(その6)

前回に引き続き「新編相模国風土記稿」に記された相模国の炭について見ていきます。今回も前回に引き続き、愛甲郡の炭焼について、特に家康の由緒に関してもう少し掘り下げてみます。

前回は三増村の「御炭山」の位置が「三増峠」の東にあることを示したところで終わりました。「風土記稿」に引用された「甲陽軍鑑」の記述によれば、この辺りは小田原北条氏の頃には芝山になっていたとしており、その後国境の峠の見通しが良いのは軍略上は拙いとする徳川家康の指摘に従い、雑木林にするべく植樹されたとする「大三川志」や古老の言い伝えを引用しています。実際は三増峠は「風土記稿」にある通り愛甲郡と津久井県の間にあり、甲相国境にある訳ではないので、この点は家康が位置関係の誤認を前提にして指示を出したことになりますが、何れにせよ家康の命によって一帯が林になったという訳です。

「風土記稿」で引用されている「甲陽軍鑑」は口述を主体としていることから、細部の記述を史料として扱う場合に問題があることが良く指摘されています。また、「大三川志」も家康没後100年以上経った後の編纂で、「甲陽軍鑑」を参照し得る位置付けにあることが気になります。「徳川実紀」にも

甲相の境なる三增峠といふ所は。そのかみ武田信玄小田原へ攻入し後は。たゞ童山にてありしを御覽じ。北條家末になりて武畧疎きをもて。かゝる山を荒廢せし め。武田が爲に責入られしなり。樹木の茂らんには信玄いかで押入べき。この後は山に木を植そへて林にせよと命ぜられしなり。(常山記談。)

(東照宮御實紀附錄卷五、「J-TEXTS 日本文学電子図書館」より引用)

と記されているものの、この「常山記談」もまた後年の編であり、史料としては「大三川志」と大差ない位置付けということになります。

三増峠と中原付近の放鷹地の位置関係
三増峠と中原付近の放鷹地の位置関係
中原道は後年の道筋で
天正18年時点のものと同一と言えるかは不詳
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
「大三川志」は家康が天正18年(1590年)7月29日に鷹狩をしながら三増峠を見たとしていますが、これは家康が小田原を陥れた後に江戸へと移動中のことであったことになります。この時の家康の移動ルートの詳細は不詳ですが、後に家康が好んで鷹狩を行うのは中原周辺の豊田から田村の渡しにかけての地域で、この時もその道すがらで鷹を放ったと仮定しても、この辺りから三増峠までは20km以上も離れています。三増峠の現在の標高は約320mあり、標高10m程度の中原周辺から見た時に、その間には三増峠の眺望を阻害しそうな標高の山はなさそうなので、地形上は見えてもおかしくはないと言えます。もっとも、夏の湿度の高い盛りに江戸に向けて移動している点からは、よほど視界良好でないと見えなかったのではないかという懸念もあります。

ただ、家康がこれだけの遠方から三増峠を見通せたとするのが事実ならば、遠目でも峠の位置が視認出来る程度に、かなり広範囲にわたって柴山になっていたことになるでしょう。その場合、後に「御炭山」となる三増峠の東側も、位置関係から見てこの頃はまだ柴山であったことになり、とても炭を出せる状態ではなかったことになります。因みに、「甲陽軍鑑」の記述通りであれば「三増峠の戦い」が起った永禄12年(1569年)には既に一帯が柴山と化していたことになり、家康が同地を目撃したとする天正18年時点でも引き続き森林にはなっていなかったとするところから、20年以上同地が柴山として使い続けられていたことになります。つまり、これらの書物の記述の通りなら、前回見た煤ヶ谷村の例ともども、これも小田原北条氏の治政下でかなり広範囲にわたって森林資源に強い負荷がかけられていたことを裏付ける景観ということになるのかも知れません。

また、この記述の通りなら、この地が「御炭山」として使われる様になるには柴山が雑木林になってからということになりますので、相応に年月を経てからということになりますが、慶長年間(1596〜1615年)には炭の産出が可能な状態になっていたとすれば、10年程度で炭焼用の炭材を出せるだけの雑木林への転換を果たしたことになります。これは戦国時代末期に既にそれだけの造林技術を家康一行が持っていたことを意味するのですが、上記の様に史料としての位置付けに課題があることから、更に裏付けとなる史料を探す必要があると思います。「風土記稿」に引用された一連の文献は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての、「御炭山」を含む相模国の山林の変遷を考える上では非常に気掛かりな記述であることは確かです。



さて、「風土記稿」の三増村の項では、「又左衞門、三郎左衞門、市右衞門」という3人の農民を家康の旧領から連れてきてこの地に住まわせて炭を納めさせたとしており、その子孫に伝わる文書が掲載されています。家康は関東へ転封される以前には三河や駿河、遠江などを所領としていましたが、以下で取り上げる文書の記述からは三河国の農民であった可能性が高そうです。では、何故彼ら3人をこの地へ移住させる必要があったのでしょうか。

「御炭山」に指定された5ケ村は、戦国時代に炭の産地であった煤ヶ谷村からさほど隔たっている訳ではありません。戦国時代に炭焼の実績が多々あった煤ヶ谷村からも、江戸時代初期には江戸城に御用炭を納めていました。例えば同地には寛文元年(1661年)12月の請書が次の様に伝えられています。これによれば、明暦元年(1655年)から3ケ年で合計330俵の御用炭を江戸城が確かに受け取ったと証されています。

請取申上納炭之事

合三百三拾俵   但壱俵三歩入

右是明暦元未之歳ゟ酉之年迄三ケ年分、前々ゟ煤ヶ谷村ゟ引付ニ而上納仕由、当丑年請取御本丸御用遣申者也、仍如件、

御賄勘定役人

寛文元年十二月十日

木村藤左衛門(印)

(他4名連署略)

坪井次(右)衛門殿   長谷川藤右衛門(畏守)(印)

(「神奈川県史 資料編6 近世3」529ページより、変体仮名は下付字とし適宜漢字に置き換え)


しかし、煤ヶ谷村には5ヶ村の様には諸役御免の特権は与えられませんでしたし、「風土記稿」もこの「御用炭」については何も触れていません。これに対して5ケ村には敢えて旧領から人を連れて来て炭を焼かせ、その炭に対して特権を与える格差が存在したことになります。

これについては、相模国内での炭焼に何かしらの不足を感じ取ったために、それを補わせる役目をこの3人に担わせた、と考えるのが妥当なところでしょう。当時の相模国の炭焼技術について具体的に記述した史料が見当たらないので、実際にどの様な技術がこの時に伝えられたのか、またそれまで同様の技術が相模国になかったのかは明らかになりません。飽くまでも史料上に伝わる人の動きから技術の動きを類推する以上のことは出来ませんが、武士が帰農したのではなく農民をわざわざ連れてきたと記すことからも、そこに特定の技術導入の目的があったと見るのが自然な流れです。

そして、この炭が茶の湯の席で使われたことと考え合わせると、やはり茶道の「炭点前(てまえ)」に耐えられる炭を焼く技術を持ち合わせた人間を連れて来たと見るのが一番筋が通りそうです。茶の湯において当時から炭の形・質・組み方・火相などが観賞の対象となっていたことは、最初に「日本木炭史」を引いて紹介しました。上記の三増峠の件と併せて見た時には、山林の資源管理技術を持った人間を入植させた線も考えられるのですが、それであればこの3名が炭に特化して名が伝えられることもないと思いますので、やはり炭の質に関しての技術を導入する方に主眼があったのだろうと思われます。

その際に気になるのが、小田原には一時的にせよ、千利休の高弟である山上(やまのうえ)宗二が来ていたことです。豊臣秀吉の怒りに触れて高野山経由で逃れてきた宗二が身を寄せた先が小田原であり、その著書「山上宗二記」にも炭の点前に使う「炭斗(すみとり)」が記されていることからも、彼が小田原の北条氏政・氏直親子の前で茶を点ててみせていれば、炭点前について知らせる機会はあったものと思います。

Hondō of Sōun-ji.jpg

箱根・早雲寺本堂
この地で惨殺された山上宗二の追善碑がある
(By 立花左近 - 投稿者自身による作品,
CC 表示-継承 3.0, via Wikimedia Commons
ただ、宗二が高野山に逃れてきたのが天正16年(1588年)頃、小田原に入るのはそれ以降で、翌々年の天正18年には小田原包囲に際して箱根湯本の早雲寺で秀吉と再び面会するも、改めて秀吉の怒りを買って惨殺されてしまいますから、宗二が小田原にいたのは僅か2年足らずのことです。それでなくても小田原は秀吉との応対に追われている頃であり、茶の湯炭のために新たな炭焼技術を導入する様な余裕は、時間の面でも労力的な面でも到底なかったでしょう。少なくとも、家康が改めて炭焼技術を導入しようとしていることからは、それ以前に宗二をはじめ小田原を訪れたであろう茶人たちが炭点前に耐えられる炭焼をもたらした可能性は薄いことになりそうです。

ところで、「御炭山」5ケ村の由緒の委細について、「神奈川県史 資料編9 近世(6)」所収の史料番号125「愛甲郡下荻野村炭山由緒村方先規仕来書上帳」の冒頭に次の様に書き記されています。因みにこの文書は、天保5年(1834年)に下荻野村で御炭山の支配について争議が起きた際に山中役所に提出されたものですが、5ケ村ではこうした争議などが起きる度に「御炭山」の由緒について繰り返し書き記して関係する役所に都度報告してきたことがわかります。

御炭山御由緒之義、乍恐

権現様三河国ゟ御入国之節、又左衛門・三郎右衛門・市右衛門申者御供仕、三増郷住居仕、三河国御吉例ヲ以、三増郷最寄三増村・上川入村・荻野村三ケ村ニ而山見立、御茶湯炭焼立、右三ケ村ニ而炭六百俵

御本丸御上納仕候御由緒ヲ以、慶長八卯年八月伊丹利右衛門(勝重)様・木部藤左衛門(直方)様ゟ黒印の御書附、三増郷千石之処、御鷹飼之廻り大、惣別諸役御免之御書附被下置候、

御炭山焼場之義、 三増村又左衛門・上川入村三郎右衛門・下荻野村市右衛門焼場由御座候、然ル処、三増村・上川入村・下荻野村右三ケ村共、文(禄)元年辰五月ゟ中原御代官成瀬五左衛門(重能カ)様御支配相成、慶長八卯二月御検地御縄入相成申候、

(上記書856〜857ページより、、変体仮名は下付字とし適宜漢字に置き換え)



これによれば、「御炭山」で焼かれた炭600俵は「御本丸」へと送られたとしていますから、主な送付先は江戸であったことになります。基本的には江戸城での茶の湯の席でこれらの炭が用いられたことになるでしょう。


豊田本郷・清雲寺の位置
「新編相模国風土記稿」卷之43大住郡豊田本郷村清雲寺銚子杯之図
「風土記稿」卷之四十三 大住郡卷之二
豊田本郷の項より清雲寺・銚子杯之図
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より
該当箇所を切り抜き)

他方で、家康が相模国で鷹狩を楽しむ際は中原御殿を使うことが多かったのですが、御殿の造営前は豊田本郷の清雲寺が宿泊に用いられていました。中原御殿造営後もこの清雲寺に鷹狩後に立ち寄って茶を点てていた様です。「風土記稿」では造営後の由緒の方が記されていますが、地元の名主家に伝わる文書からは、それ以前から利用されていたものの様です。

◯淸雲寺 豊年山と號す、臨濟宗、鎌倉壽福寺末、開山樂林妓、文明十三年七月十一日卒、本尊釋迦、慶長四年二月十日、東照宮中原御殿御逗留ありて、此邊御放鷹の時、當寺へ入御あり、境内の井水、淸冷なりとて御茶の水に召上られ、是より當寺を御茶屋寺と稱せり、其時寺領十石の御朱印を賜はり、旦銚子杯を賜りて、今に寺寶とす、其圖左の如し、

(卷之四十三 大住郡卷之二 雄山閣版より)


中原周辺は水田地帯で林が少ない景観ですから、点前に必要な炭は多少なりとも山間から取り寄せるしかなかったでしょう。後に御殿周辺で御林が多数造営される様になったものの、これらは何れも建材として利用する目的の松林で炭焼用の雑木林ではありませんでした。「御炭山」の属する各村が後に中原代官の所領となった際に檢地を行ったことが上記の文書に記されていますが、恐らくは中原での家康の茶の席で用いる炭もこの「御炭山」から供給されたのではないかと思われます。

後に「佐倉炭」が相模国の炭焼に学び、江戸時代の東の茶の湯炭としての地歩を固めていくのも、恐らくはこの「御炭山」の系統の炭焼技術だったのでしょう。残念ながら、この「佐倉炭」にしても、「木炭の博物誌」によれば現在では「技術を失った」(117ページなど)とされていますので、当時の技術の実態を明らかにすることは困難になっている様です。

なお、上記文書で見られる様に中原代官であった成瀬家の預かる地となったこの5ケ村については、その後中原代官が廃止されると元禄年間から越智清武(上野館林藩)や牧野成貞(下総関宿藩)の所領となり、その後も所領が転々と交替します。「御炭山」からの炭の貢上が廃止されて代永銭を領主に納める様になったのは、幕領から私領に切り替えられて以降の元禄11年(1698年)の頃からで、直接的には幕領ではなくなったことが代永への切り替えの理由とされています。

しかし、「日本木炭史」に見られる様に、この頃には江戸での炭の消費が既に飛躍的に伸びていたことから、幕府でも増大する炭の需要を確保することに腐心しており、元禄の頃には既に「天城炭」を始め関東各地の炭が流入する状況になっていました。そうした中では相模国の「御炭山」から産出される炭の地位も相対的に下がってしまい、幕府の「御用炭」としての役目を終えてしまったことも、代永への切り替えの背景にはある様に思えます。

その一方で、炭貢上による助郷や鷹飼人足などの諸役御免はそれ以降も幕末まで堅持されました。「厚木市史 近世資料編(5)」には、これらの村々が享保年間以降に免除された諸役の一覧が挙げられていますが(422ページ)、周辺各村が助郷の負担に苦しむ中で一貫して人足や役金の負担を免れていたことが窺え、「御炭山」を擁する各村に齎した恩恵は小さなものではなかったと言えるでしょう。



さて、「風土記稿」の中荻野村と下荻野村の項では、この「御炭山」に「東照宮」を祀っていたことが記されています。神格化された家康が現地で祀られていた訳ですね。中荻野村に2体、下荻野村に1体の石祠であったとしていますが、このうち下荻野村の1体については天保5年(1834年)5月の日付を持つ「下荻野村公所・子合持御炭山東照宮絵図」という文書が伝えられています(「厚木市史 近世資料編(5)」423ページ所収)。ここには寛政12年(1800年)4月に奉納された「権現様石宮」の正面図が描かれ、「惣丈弐尺三分」(約69cm)間口「壱尺」(約30cm)奥行「壱尺七寸」(約51cm)その他屋根部などの細部の寸法が記されています。そして、名主、組頭、百姓代2名の名前が刻まれていたことが記されています。この絵図には更に木製の鳥居・石灯籠2体(それぞれ文化2年と文政11年の奉納日が刻まれる)、そして他の社地に設置された石碑等の正面図が併せて記され、この東照宮がかなり手厚く、また長期にわたって祀られてきていることがわかります。因みに、この文書が作成された天保5年は上記の下荻野村の争議の年に当たっており、この絵図は恐らくその争議に際して下荻野村の「御炭山」の由緒を代官宛てに明らかにする一環で記されたのでしょう。


厚木市上荻野・荻野神社(ストリートビュー
これらの「東照宮」が現在に伝えられているか、「厚木市文化財調査報告書第42集 厚木の小祠・小堂」(厚木市教育委員会 2003年)の荻野地区の小祠の一覧を確認したところ、1体だけ「東照宮」と呼称されている小祠が現存することが記されていました(222ページ)。それによると、現在は荻野神社の境内に安置されており、総高81cmと石祠としては比較的大形のものです。右側面に「中荻野/馬場中」、左側面に「元和八年(1622年)壬戌建立/嘉永四年(1851年)辛亥再建」と刻まれており、徳川家康が亡くなった元和2年から6年後には祀られる様になり、その後恐らくは幾度かの更新を経てきたその最後の石祠ということになるでしょう。ただ、掲載されている平成12年撮影の写真などから窺える限りでは、これが「東照宮」であることが確認出来るものが付属していない模様で、この石祠については荻野神社を訪れた方々のネット上の訪問記でも話題にされていない様です。荻野神社はかつては「石神社」と呼ばれ、上荻野・中荻野・下荻野3村の鎮守であったことから、この「東照宮」をかつての「御炭山」から遷すことになった際に荻野神社の境内が選ばれたのでしょう。

「厚木の小祠・小堂」では、荻野地区の「東照宮」と記された石祠が1体しか記載されていないため、残りの2体の行方については明らかに出来ませんでした。ただ何れにせよ、これもかつての「御炭山」の存在を現在に伝える史蹟と言えそうです。

次回は、かつての宮ケ瀬周辺で大量に発掘された江戸時代の炭窯跡を取り上げる予定です。




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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

管理人のみ閲覧できます - - 2016年03月29日 19:56:53

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