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【史料集】「新編相模国風土記稿」鎌倉郡各村の街道の記述(その6)

前回に引き続き、「新編相模国風土記稿」中の鎌倉郡の各村の街道の記述を一覧化しています。今回は、鎌倉郡図説で取り上げられた残りの2つの道筋と、図説に紹介されなかった道を取り上げます。

鎌倉郡図説に取り上げられた「大山道」は、一般的には東海道から分岐する村の名を取って「柏尾通り大山道」と呼び慣わされています。「風土記稿」に記されている一連の「大山道」の中では、最も東から端を発することになります。個々の村の記述は比較的簡潔ではありますが、この道に関しては課題となる記述は特に見当たらない様です。

柏尾通り大山道:鎌倉郡中の各村の位置
柏尾通り大山道:鎌倉郡中の各村の位置
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

鎌倉郡図説で最後に取り上げられているのは「中原道」です。北側では東西に狭くなる鎌倉郡域にあって、その北寄りを通過することもあり、更に瀬谷村の村域が広いことも相俟って、郡内の経由地は瀬谷野新田と瀬谷の2村に留まっています。しかし、瀬谷村の継立については小田原北條氏の古文書を引用して由緒を記すなど、比較的記述が厚くなっています。他方、瀬谷野新田の「二ツ橋」は中原道の途上、徳川家康が慶長18年(1613年)に詠んだとされる歌の碑がある場所ですが、関連する由緒は特に記されていません。

中原道:鎌倉郡中の各村の位置
中原道:鎌倉郡中の各村の位置
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

さて、鎌倉郡図説で取り上げられなかった道は既に大鋸町から長谷への「鎌倉道」や数本の「鎌倉古道」を取り上げていますが、他に「浦賀道」と「八王子道」の名が各村の記述の中に見えています。

まず「浦賀道」ですが、以前取り上げた「浦賀道見取絵図」では、下馬からは名越切通を抜けて三浦郡小坪村へと向かう道筋を描いており、切通のある久野谷村の村明細帳でも浦賀奉行の江戸との往復でこの道を使っていることを記しています。鎌倉郡域内ではこの間は全て大町村の属ということになるのですが、「風土記稿」の大町村の項ではこの道筋に関して直接記述した箇所が見られません。名越切通や「墨(炭)売橋」の様に「浦賀道」が経由する場所については語られていても、そこを通過する道について「往還」といった街道の存在を示唆する言葉も用いられていません。

その一方で、乱橋・材木座の2村の項には「浦賀・三崎等への往還海濱を通ず」といった記述が見えます。材木座から小坪に抜ける場合は以前簡単に紹介した様に披露山を越えていく道筋になるのですが、昌平坂学問所はこちらを浦賀への道の本道と考えたのでしょうか。この辺りも、先日江島道の項で指摘したのと同様、「浦賀道見取絵図」との摺り合わせは行われていないと考えられる箇所です。浦賀奉行所の往来や継立で使っている道筋が名越切通経由のものであることを昌平坂学問所が認識していたとしたら、果たしてこの様な記述になったか、少なからず疑問を感じる箇所です。


乱橋碑。碑の下に小さな橋の痕跡が見えている
付近の現在の町名は「材木座」
ストリートビュー

浦賀道:鎌倉郡中の各村の位置
浦賀道:鎌倉郡中の各村の位置
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)


阿久和坂上交差点角の庚申塔に
「八王子道」と刻まれている
(「ストリートビュー」)
この他に、「八王子道」の存在が深谷村と阿久和村に記されています。他の箇所に記述がないので、これらの村から八王子へ向かうとすれば北へ向かう道筋であろうと当たりをつけ、「迅速測図」や明治期の地形図を頼りにこの2村を南北に結ぶ道筋を探すと、現在の神奈川県道402号線に当たる道が該当することが窺えます。実際、この県道の途上「阿久和坂上」交差点角に置かれた庚申塔に「北八王子道」の文字が見えるとのことで、この推定がほぼ妥当なものと考えられます。

ただ、「風土記稿」の記述はこれらの道筋が概ね八王子へ向かうための道であることを示すのみです。「迅速測図」でこの道を南へ向かうと、現在の県道とは少し違う道筋で原宿から田谷を経て長尾台へと南下して柏尾川沿いを進み、岡本で大鋸町から雪下への継立道と合流する道であったかと思われます。この県道の一部は現在でも「かまくらみち」と呼ばれており、当時も南は鎌倉へと達する道であっただろうと思われます。また、北側は瀬谷村の領域を抜けて下鶴間宿へと入って瀧山道と合流する道筋であったかと考えられます。

但し、以下の地図では参考までに鎌倉古道上道の位置を書き添えましたが、鎌倉時代の道は境川に沿った道筋と考えられており、尾根筋で谷戸を横切る箇所の少ないこの道は意外に新しいものであった様です。「風土記稿」もこの道については経由する一部の村の項にごく簡潔に記すに留まっているため、当時のこの道の委細を知るにはは他の史料を探してみる以外にありません。

深谷村から阿久和村の「八王子道」
深谷村から阿久和村の「八王子道」
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)



街道「風土記稿」の説明
大山道 ※柏尾通り下柏尾村百一
(三十三)
東海道南北に通ず幅四間半海道の中程にて西北に岐路を別つ、大山道と云ふ
◯永谷川 村の西界を流る長四間許板橋を架す長四間西隣名瀨村にては、綿戸橋と稱呼す、大山道に値れり、
秋葉村百一
(三十三)
坤方村界に大山道係る、
名瀨村百一
(三十三)
村の巽界に大山道係れり、
◯永谷川 下柏尾村の界を流る幅四間、大山道の係る所板橋を架す長四間、綿戸橋と唱ふ、◯阿久和川 上矢部村の界を流る幅四間、板橋を架す長四間、猿橋と名づく、上矢部村に跨がれり、是も大山道係る所なり、
上矢部村百一
(三十三)
大山道阿久和川に副ひて通ず幅二間、
◯阿久和川 村の中央を流る幅三間、榎橋・歩行橋・鍛冶屋橋各長三間半、など呼べる土橋を架せり 村北名瀨村界に係りて板橋を架す、猿橋と名づく、村東下柏尾村界にて前川[永谷川(柏尾川)]に合す、◯名瀨川 東名瀨村界を流れて直に阿久和川に合す幅二間、羽澤橋と名づくる土橋長三間、を架せり、
岡津村百一
(三十三)
大山道幅二間、村の中程を西東に貫く、
◯川 村の中程を流る幅三間許隣村上矢部村に沃ぎて阿久和川と稱する是なり、土橋三を架す各長五間
中田村百一
(三十三)
大山道東西に貫けり幅七尺、
和泉村百一
(三十三)
村の西北に大山道係れり幅二間、
上飯田村百二
(三十四)
大山道村南に在て東西に貫く幅二間、高座郡千束村に達す、
◯境川 高座郡の堺を流る 二橋を架す長各七間一は大山道に値れり、
中原道瀨谷野新田百二
(三十四)
中原道村内を貫す武州都筑郡川井村より入る、
◯小名 △二ッ橋
瀨谷村百二
(三十四)
中原道村の南邊を東西に貫けり幅三間、西方高座郡上和田村に達す、當村人馬の繼立をなす東方は武州都筑郡佐江戸村迄二里、西方は高座郡用田村迄二里半を繼送る、佐江戸村の傳に、寛文十一年繼立の事により、同郡中山村と爭論に及、佐江戸村より當村に繼立をなす事とはなれりと云ふ、(ママ)ずるに天正六年正月北條氏より出せし傳馬の印狀に下野國安蘇郡天明町、鑄工小島氏藏文書曰、從瀨谷至于小田原、…蚤く當所の地名を載せたれば旣に當時馬次たりしこと識るべきなり、

雄山閣版で「接ずるに」と記されている箇所(その後の再販でも訂正されてない)は鳥跡蟹行社版では「按ずるに」と記されており、雄山閣版の誤植の可能性が高い。

◯境川 西方高座郡界にあり幅六間、武州多磨郡鶴間村より村界に沃ぐ、此川に土橋二を架す長各五間許、

※2本の橋のうちの1つが中原道の属。

*浦賀道大町村八十七
(十九)
◯小名 …△名越町或は那古谷に作る、此町より東南北の三方、山頂に至る迄を、總て名越と唱ふ、此地名も【東鑑】に多く見えたり、
◯名越切通 東方三浦郡久野谷村の界にありて峠を界とす、左右より覆たる巖二所あり、【鎌倉志】に里俗是を大空洞於乎保宇止宇小空洞古乎保宇止宇と云ふとあり、【東鑑】天福元年八月の條に名越坂とあるは此道なるべし曰、… 又北方の山間に淨妙寺村に通ずる孔道あり、◯名越ヶ谷 東方名越町より東南北三方に亘りて總名とす、…◯黄金窟故加禰也貝良 名越谷の内にあり、
◯夷堂川 北より南に流る、座禪川の下流なり當村にての名義は昔橋邊の北方に夷の社今亡す、廢置の年代傳はらず、ありしより起ると云、中程より墨賣川と唱へ南方に至りて閻魔堂川と呼ぶ幅六間餘橋二を架す、北方なるを夷堂橋、中程なるを墨賣橋長各六間餘、と名づく、共に十橋の一なり、 ◯逆川 源は東方名越谷の内黄金窟邊より流出し、名越町の邊にて名越坂及び松葉谷邊より流來る、小流合て一流となり、西南にて前の閻魔堂川に入る幅九尺餘より、三間餘に至る【鎌倉志】曰、名越坂より流て西北に行、故に逆川と云ふとあれば、源一條ならず、橋二つ架す、一は逆川橋長凡九尺と唱へて十橋の一なり、一は大黒橋と名づく、舊三枚橋と唱へしと云ふ、
◯日蓮乞水 名越切通に達する路傍の小井を云ふ、昔日蓮房川より鎌倉に來る時、此所にて淸水を求しに俄に湧出せしとなり、大旱にも涸ることなしとぞ、鎌倉五水の一なりと云ふ、

※街道の記述はなく、小名に見える地名から該当するものを拾った。

雪下村八十二
(十四)
民戸百四十五此内四十戸は、鶴岡社人を勤む、街衢に連住し、旅店を開き生業の資とする家多し、往還五條あり、人馬繼立をなす一は北方戸塚宿へ二里九町、一は西方藤澤宿へ二里餘、一は南方、三浦郡小坪村へ一里餘、一は西方、江ノ島へ二里餘、一は東方武州金澤へ二里餘

※「浦賀道」の道筋が雪下村の内にあったとは言い難いが、継立の起点となっていたことが記されているため、ここに書き加えた。

小町村八十八
(二十)
村の中程を南北に貫きて鶴岡置石係れり置石の事、鶴岡八幡宮條に詳なり、

※「浦賀道」の道筋が小町村の内にあったとは言い難いが、継立の起点となっていた雪下村にはこの道を経ていたと見られるため、ここに書き加えた。

材木座村九十五
(二十七)
正保の改には當村一村たりしを元祿の改に至り分て二村とし、亂橋・材木座村と別稱す、今猶然りと云へども土人は舊に因て一村の如く、村名も二名を合して唱呼す、…其地域北方は亂橋村にて當村は沿海にあり、…三浦郡浦賀・三崎等への往還海濱を通ず、

※「海浜」と明記されていることから、ここで触れられているのは名越の切通へ向かう道ではなく、光明寺裏手から山を越える道筋であろう。

亂橋(らんばし)九十五
(二十七)
村西に三浦郡浦賀・三崎等への往還係れり、
◯橋 亂橋と名づく、通衢の小流に架せる石橋にて鎌倉十橋の一なり、【東鑑】に濫橋と載たる是なり、曰、…

※「乱橋」は現在では専ら「みだればし」と訓付けされるが、「風土記稿」の「亂橋村」の読みには「羅牟波之牟良」と記されており、「らんばし」と読ませていることから、この項のルビも敢えてこちらに従った。

※八王子道深谷村百三
(三十五)
八王子道南北に貫く幅六尺、
阿久和村百一
(三十三)
村西に八王子道係る

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は鎌倉郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「鎌倉郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。


以上、鎌倉郡の各村の街道の記述を鎌倉郡図説の記述と照合してみると、一部に整理し切れていない箇所が散見されることがわかります。特に一連の「鎌倉道」でその傾向が強く、必ずしも当時の実情を反映しているとは言えず、この点は「風土記稿」の特性を考える上では課題となる箇所の1つと思います。また、「江島道見取絵図」や「浦賀道見取絵図」との齟齬が見える点からは、「風土記稿」の編纂に当たって参考に出来た資料に制約があった可能性が窺え、特により大局的な視点が必要となる街道の記述にはその影響が目に見える形で現れたのではないかと思われます。




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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

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