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【史料集】「新編相模国風土記稿」鎌倉郡各村の街道の記述(その4)

前回に引き続き、「新編相模国風土記稿」中の鎌倉郡の各村の街道の記述を一覧化しています。今回は、鎌倉郡図説で「鎌倉道」として取り上げられた道の3本目と4本目です。

3本目の「鎌倉道」は永谷上村から台村へと向かう道筋であるとしています。このうち、小菅ケ谷村から南では次の戸塚からの道筋と合流しており、各村の記述でもこの区間では「戸塚からの道」と記しているため、以下の一覧では小菅ケ谷村までの3村のみを掲げています。この道筋は以前「武相国境」を取り上げた際にも紹介しましたが、北条政子が弘明寺へと参拝する際に使ったとされる古道で、一般には「弘明寺道」と称されることが多いため、ここでもこの別称を付してあります。しかし、永谷上村の記述では「鎌倉古路」と記し、しかも馬洗川に架かる橋を通じていた過去の道筋という扱いになっています。小菅ケ谷村の項では正保の国絵図ではこの道が本道であった様に掛かれているとしているものの、少なくとも鎌倉郡図説に転載された同図ではこの点を識別することは出来ません。

他方、4本目の「鎌倉道」は以前「浦賀道見取絵図」を紹介する際に取り上げた戸塚から鎌倉・雪下へ向かう道筋で、3本目の道とは鼬川を渡る「新橋」の北側で合流するとしています。少なくとも戸塚からこの橋までの区間は江戸時代になって開かれた道筋とされていますので、時代認識としては新橋以南の道を古道の方に結び付けて考えるのは理解出来ます。しかし、鎌倉時代のいわゆる「中道」は小菅ケ谷村の北で分かれて舞岡村へと進む道筋であったと思われ、こちらの道筋については「風土記稿」では特に触れている箇所を見出すことは出来ません。

昌平坂学問所がこの「弘明寺道」を敢えて取り上げて5本の鎌倉道の1つに位置付けた理由は不明です。由緒を重視したということであれば、鎌倉幕府の頃からの道筋として取り上げるべき街道は他にも多数あったと思われます。他方で、現役の街道として「風土記稿」編纂の頃にも盛んに使われていたと考えるには、永谷上村や下野庭村の記述はもっと小規模な村道として使われていたことを思わせる表現になっています。「新編武蔵風土記稿」の久良岐郡別所村(卷之八十 久良岐郡之八)には「また最戸村と當村との堺に古の鎌倉街道といふあり、」と記されていることから、あるいはその道筋の続きが念頭にあってのことだったのかも知れませんが、こちらも「古の」としていることから少なくとも江戸時代には主要な街道としては位置付けられなくなっていたと思われます。前回の「江島道」の例も含め、鎌倉郡図説のこうした「鎌倉道」の取捨選択には疑問点が存在する、ということになるでしょう。

その一方で、戸塚から鎌倉への道筋は江戸時代には東海道を経て鎌倉へ向かう参拝客などによって頻繁に使われました。また「浦賀道見取絵図」がこの区間を含めたのは浦賀奉行の公儀の往復に使った道筋であり、かつ鎌倉へ向かう大名などの利用もあったことが理由として考えられ、「風土記稿」の鎌倉郡図説にこの道が含まれたのは妥当な選択と言えるでしょう。

戸塚—鎌倉道と弘明寺道(北半分)
戸塚—鎌倉道と弘明寺道(北半分)

戸塚—鎌倉道と弘明寺道(南半分)
戸塚—鎌倉道と弘明寺道(南半分)
(以上どちらも「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)


街道「風土記稿」の説明
鎌倉道㈢ ※弘明寺道永谷上村百一
(三十三)
◯馬洗川 南北に貫けり幅三間、元祿國圖にも、馬洗川と載す、鎌倉古路係りし頃、此流にて馬を洗ひしより此名ありと傳ふ、橋を架す長三間半有花寺橋といふ、

※鎌倉郡図説で久良岐郡別所村からこの村に入ると記されているにも拘わらず、鎌倉道への直接の言及はない。しかも馬洗川の記述も「鎌倉古路係り頃」と過去の表現になっている。

下野庭村
(三十二)
鎌倉より武州久良岐郡に達する小徑西北を延亘す、
小菅ヶ谷村
(三十二)
鎌倉道西南の方を通ず幅二間より二間半に至る、又古道と稱するあり、南方笠間村界にて、今の道より北に折れ村の中央を貫き、永谷ヶ村に達す、幅六尺より九尺に至る、按ずるに、正保の國圖には、此道を本道とす、
◯鼬川 南界を流る幅四五間兼好法師が折句の詠歌ありし舊蹟と傳ふ【兼好家集】曰…鎌倉管領武州に發向の時鎌倉を立て此河邊にて晝憇をなし、午飯を吃するを例とす【鎌倉年中行事】曰…鎌倉古道の係る所橋を架す長六間、新橋と唱ふ、

※古道が鎌倉道と分岐するのはこの橋の北側だが、この橋の辺りにまつわる古事の記述と合わせて「古道」としたものか。以下鎌倉までの区間は戸塚からの道筋と重なっており、各村の記述も戸塚からの道筋としているため、笠間村以南は「鎌倉道㈣」参照のこと。

鎌倉道㈣ ※戸塚

鎌倉
戸塚宿九十九
(三十一)
東海道東西に貫く幅凡四間許、鎌倉道中小名田宿より東に分れ、上倉田村に達す幅七尺、
◯柏尾川 東界を流る幅五間、鎌倉道の係る所板橋を架す長八間、高島橋と稱呼す、此餘天王橋・西久保橋・第六天橋・坂上橋など名づくる小橋あり、共に東海道中の小渠に架す、總て官の修理なり、
吉田町九十九
(三十一)
東海道東西に通ず幅四間、鎌倉への捷徑あり大橋邊より南に分れ柏尾川堤上を經て、上倉田村に至り、本路に合す、

※この書き方では飽くまでも本路は富塚八幡宮の前で分岐する道で、柏尾川沿いを進む道は「抜け道」的な存在であったことになる。この一覧では仮に合流地点である上倉田村の前に置いた。

◯柏尾川 西北の方矢部町境を流る幅八間、東海道の係る所板橋を架す長十一間大橋と呼べり此橋吉田・矢部兩町に係れり、河涯に隄防あり高一丈、
上倉田村九十九
(三十一)
鎌倉道係れり幅九尺より二間に至る、戸塚宿より東折して、當村に達す、吉田町大橋邊より、南折して、柏尾川堤上を通ずる捷徑も、村内にて此路に合す、
下倉田村九十九
(三十一)
鎌倉道村北に係る幅二間、

※「村北に」はこの道筋の位置関係から考えると実情を表している様に見えない。あるいは「南北に」の誤記か。

長沼村九十九
(三十一)
鎌倉道係る幅八九尺
飯島村百二
(三十四)
鎌倉道村内を貫けり幅二間、
小菅ヶ谷村
(三十二)
鎌倉道西南の方を通ず幅二間より二間半に至る、又古道と稱するあり、南方笠間村界にて、今の道より北に折れ村の中央を貫き、永谷ヶ村に達す、幅六尺より九尺に至る、按ずるに、正保の國圖には、此道を本道とす、
◯鼬川 南界を流る幅四五間兼好法師が折句の詠歌ありし舊蹟と傳ふ【兼好家集】曰…鎌倉管領武州に發向の時鎌倉を立て此河邊にて晝憇をなし、午飯を吃するを例とす【鎌倉年中行事】曰…鎌倉古道の係る所橋を架す長六間、新橋と唱ふ、

※鎌倉道㈢参照。

笠間村九十九
(三十一)
戸塚宿より鎌倉鶴岡への路村内に係る幅二間、
◯新橋川 村の東北を延亘し戸部川に合す幅六間餘、源は、上之村より出づ、本鄕川とも唱ふ、此水を村内の用水とす、河涯に小堤を設く高五尺許土橋を架す長七間餘、小袋谷と組合持、

※「鼬川」を指すと考えられるが、小菅ケ谷村の記述とは名称が合っていない。また、ここで記す「橋」は、位置から考えて笠間村と小菅谷村との間に架かっていた鎌倉道の「新橋」であると考えられるが、何故か位置関係からは関係がないと思われる「小袋谷村」と協同で普請しているとされている。取り違えによる誤記の可能性もないとは言えないが、記載の通りであれば何故普請に小袋谷村が参画していたのか、不詳。

岩瀨村九十九
(三十一)
戸塚宿より鎌倉への路村の西南界にかゝれり幅二間、
◯砂押川 南方を流る幅二間許此水を延て水田に灌漑す、板橋二を架す、一は切通シ橋、一は離山橋と云ふ、各小橋なり、

※大船村との境に架かっている橋であると考えると、このうちの1つが大船村の記述と同じ橋を指していると考えたくなるものの、ここで示された橋の名前はどちらも大船村の「砂押橋」と異なる。従って岩瀬村の2つの橋はどちらもこの街道のものではないとも考えられる。但し、同じ橋の呼称が両岸で異なる例がないとは言えない上に、「離山」「切通」ともにこの道筋に因んだ名称に見える点が疑問点。

大船村九十八
(三十)
戸塚宿よりの鎌倉道村内を通ず幅二間、
◯離山波奈禮也麻 鎌倉道の南側にあり、八町餘の間に三山並び立り、高各二十間より三十間許に至る中央に在を長山形狀を以て名く、北方を腰山山腹に洞井あり、徑三尺許、井中隧あり其深測るべからず、土俗梶原平三景時が邸跡なりと云ど、景時が宅蹟は、此地にあらず、南方を地藏山山上に地藏の石像を置古塚十三あり、高一丈より六尺に至る、來由を傳へず、と名づけ、槪して離山と稱す、これ山足連續せるを以なり皆芝山にて樹木を生せず、
◯砂押川 北界を流れ戸部川に合す幅二間、板橋を架す、砂押橋と呼ぶ長二間餘此の水を引て水田に灌漑す、

※橋の名称については岩瀬村の項参照のこと。なお、「浦賀道見取絵図」でもこの橋は「砂押橋」と記されている。

小袋谷村九十八
(三十)
戸塚より鎌倉への道、村の中央を通ず幅二間、
臺村九十八
(三十)
藤澤より鎌倉への往還村の北方を通ず巾二間より四間に至る戸塚より鎌倉への路、小袋谷村より入り巾六尺、村界にて前路に合す、
◯戸部川 西界を流る中十二間橋を架す、戸部橋と唱ふ長八間餘古は宮の修理に係る、今は當村・岡本・小袋谷三村の持なり、東隣山之内村より來たる一流小袋谷村界を流れ幅一間より三間に至る西方にて此川に注ぐ、

※小袋谷川に「水堰橋」が架かっていた筈だが、当村にも小袋谷村にも記述がない。

山之内村七十八
(十)
往還一條、村の中央を貫く幅三間餘
◯川 東南の方、建長寺の境内より出て西方に流る幅九尺 ◯十王堂橋 往還に架す長二間餘鎌倉十橋の一なり【鎌倉志】に云、…
雪下村八十二
(十四)
民戸百四十五此内四十戸は、鶴岡社人を勤む、街衢に連住し、旅店を開き生業の資とする家多し、往還五條あり、人馬繼立をなす一は北方戸塚宿へ二里九町、一は西方藤澤宿へ二里餘、一は南方、三浦郡小坪村へ一里餘、一は西方、江ノ島へ二里餘、一は東方武州金澤へ二里餘
◯小名 △置石町 鶴岡赤橋より南由比ヶ濱に到る迄の直道を呼ぶ、此道の中央に八幡宮の置石壽永元年三日、源賴朝の新造する所にて古は千度小路或は千度壇などと稱せり、詳なる事は、鶴岡八幡宮條にあり、あれば則地名とす、古は若宮大路と唱ふ、古書に往々見えたり、…

※「置石町」については「東鑑」から引用されている箇所が多い。他「東鑑脱漏」「本朝鍛冶考」。

△若宮小路 鶴岡赤橋前西の横街を云へり、…△小袋坂町 小袋坂に到る道を云ふ、
◯小袋坂 古は巨福呂、或は巨福路とも書せり、鎌倉七口の一にして、山之内村に通ず登三町程嶺頭を、村堺とせり、…

※「小袋坂」に関連して引用されている文献は「東鑑」「一遍上人六條縁起」「太平記」「神明鏡」「鎌倉志」「異本太平記」「鎌倉九代記」「鶴岡社務職次第」。

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は鎌倉郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「鎌倉郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。


5本目の「鎌倉道」については次回取り上げます。



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この記事へのコメント

- umekou - 2016年02月26日 17:20:15

こんにちは。
以前住んでいた地域なので、うれしくてコメントしました。
小菅ケ谷から雪下への道のりはよくサイクリングしていた道でした。
歴史ありですね。

Re: umekou さま - kanageohis1964 - 2016年02月26日 17:51:40

こんにちは。コメントありがとうございます。

新橋の辺りからは少なくとも鎌倉時代から続く古い道筋ということになりますし、建長寺・円覚寺などの鎌倉を代表する古刹の門前を通る道筋ですから、ある意味最も「鎌倉らしい」道の1つと言えますね。

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