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【史料集】「新編相模国風土記稿」鎌倉郡各村の街道の記述(その1)

「新編相模国風土記稿」中の各村の街道の記述をまとめる作業、今回から鎌倉郡を取り上げます。やはり分量が多いため、今回は東海道だけになりました。

今回も宿場の継立に関連する記述については以前まとめた記事に譲り、ここではそれ以外の記述を拾っています。なお、他の宿場の記述では最初に宿場としての共通の事項をまとめ、その後に宿内の各町の記述が続く、という構成になっているのに対し、戸塚宿ではその位置付けの違いからか、吉田町と矢部町の記述は戸塚宿の記述から独立して取り上げられています。この2つの町にも継立に応じた地子免の記述があるため、先日の記事にこの分を書き加えました。

また、吉田町が街道中で2箇所に分かれて存在する様になった経緯が記されていることに鑑み、以下の地図では吉田町・矢部町と戸塚宿の位置関係を色分けして表現してみました。

小名は1つでも街道筋に関連のあるものを含んでいる場合はその全てを書き出しています。必ずしも街道が係っていない小名が含まれていることに御注意下さい。今回も由緒にまつわる古典の引用は基本的に省略しましたが、「影取」の伝承にまつわる引用については意味が通り難くなるため、敢えて含めました。


東海道:鎌倉郡中の各村の位置(北半分)
東海道:鎌倉郡中の各村の位置(北半分)

東海道:鎌倉郡中の各村の位置(南半分)
東海道:鎌倉郡中の各村の位置(南半分)
(以上どちらも「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)


街道「風土記稿」の説明
東海道品濃村百一
(三十三)
村の東界に東海道係れり幅三間、
◯小名 △西之谷 △道喜谷 △淸水谷 △立野谷 △七次谷奈々都義也止 △荒井ノ谷 △とぶ谷 △谷宿谷 △椎ヶ谷 △瀧ヶ谷 △品濃臺
◯燒餅坂 東海道往還中にて平戸村の接地にあり下一町半坂側に茶鄽ありて熬糕を鬻ぐ、故に名づくと云へど【回國雜記】に蚤くもちひ坂の稱呼見えたるは果して此坂の事にして最舊き唱へなり曰、…又同じ記に摺子鉢坂の名あり曰、…記載の順次を考ふるに此近きあたりと覺ゆれど正しき遺名の考據なし、◯谷宿坂 燒餅坂の南にあり、小名谷宿谷の名に據りて此稱呼あり林羅山、… ◯品濃坂 谷宿坂の南にあり下二町、
◯一里塚 谷宿坂の南にあり雙堠なり、南、吉田町、北、保土ヶ谷武州橘樹郡の屬、の里堠に續けり、
平戸村百一
(三十三)
東海道西方村界に係る幅五間、
◯坂三 一は燒餅坂、一は谷宿坂、一は品濃坂と呼ぶ、皆東海道往還中にありて品濃村界に値れり、名義等彼地に據れば總て彼村の條に詳載す、
前山田村百一
(三十三)
村の巽界に東海道係れり幅三間、
◯赤關川 村の南界を流る幅三間餘南隣上柏尾村にては永谷川と呼ぶ、東海道の係る處に土橋を架す赤關橋と唱ふ此橋上柏尾村に跨れり、彼村の條併せ見るべし、
上柏尾村百一
(三十三)
東海道村の中ほどを東西に貫く幅三間、立場あり、字挑灯立場と呼べり、
◯小名 △赤關 △臺畑 △中ノ町 △鄕ノ前 △さがり下 △流市場出口 △大橋 △小橋
◯永谷川 東北村界を流る幅三間半前村[永谷上村]馬洗川の下流なり、東海道係る所土橋を架す長五間、赤關橋と呼べり赤關の名は、當村小名に因て起れり鄰村前山田にては此川名をも赤關と稱呼す、
下柏尾村百一
(三十三)
東海道南北に通ず幅四間半海道の中程にて西北に岐路を別つ、大山道と云ふ
◯小名 △市場 △宮ヶ谷 △臺 △池ヶ谷 △藥師下 △寺下 △幷木下
◯坂二 東海道に在リ、一は臺坂登一町、一は池ノ谷坂登一町十五間と云ふ
◯川 舞岡村より流れ來る小流なり幅三間半故に或は舞岡川など呼ぶ、東海道を横ぎれり、爰に土橋を架す五太夫橋と云ふ長三間半、ことは吉田町に詳かなり

※字の「池ヶ谷」と坂の「池ノ谷」、当欄の「五太夫橋」と吉田町の「五大夫橋」は何れも原文ママ。

舞岡村
(三十二)
東海道北界に繋る、
吉田町九十九
(三十一)
當所は即戸塚宿三箇町の一なり、…萬治二年便宜のため、彼[戸塚]宿内往還の地を裂賜はりて村民多く彼所に移住す、故に今の村落は矢部町を夾ておのづから區別せるが如し、されば本村の地を呼て元吉田町と云ひ、或は吉田町の内元町とも字せり、…東海道東西に通ず幅四間、又鎌倉への捷徑あり大橋邊より南に分れ柏尾川堤上を經て、上倉田村に至り、本路に合す、
◯一里塚 東海道路傍にあり、雙堠なり、南方は原宿村、北方は品濃村の里堠に續けり、
◯柏尾川 西北の方矢部町境を流る幅八間、東海道の係る所板橋を架す長十一間大橋と呼べり此橋吉田・矢部兩町に係れり、河涯に隄防あり高一丈、此餘東境に舞岡村より東海道を横ぎり北流して此川に沃ぐ小流あり幅三間許往還に値りて土橋を架す、五大夫橋と名く、相傳て東照宮當所通御の時石卷五大夫某旗下の士、七郎左衞門某が祖と云ふ、と云ふもの此橋邊に出て迎へ奉り、恩命を蒙りて中田村を賜へり、夫より橋名は起ると云ふ按ずるに、…
矢部町九十九
(三十一)
當所は即戸塚宿三箇町の一なり、…東海道村東を通ず幅四間、
◯柏尾川 東方吉田町境を流る幅八間、東海道の係る所板橋を架す、大橋と呼べり此橋吉田・矢部兩町に係れり、河涯に隄あり高九尺、
戸塚宿九十九
(三十一)
當所及び隣村吉田・矢部兩町を加へ戸塚三ヶ町と唱へ、東海道五十三驛の一なり、古は富塚と書す、今の文字は正保の改に草創す、中古は町と稱せり…、專宿と書記する事は元祿已後の事なり、…戸数二百六十五數内、本陣、臺宿に一戸、中宿に一戸、脇本陣臺宿に一戸中宿に二戸、旅舍大十九戸、中小各二十戸あり、東海道東西に貫く幅凡四間許、鎌倉道中小名田宿より東に分れ、上倉田村に達す幅七尺、
◯小名 △上宿 △中宿 △臺宿 △天王町 △八幡宿 △田宿 △西ノ久保
◯坂二 海道中南にあり、一番坂登一町餘二番坂登三十町餘、と唱ふ、此餘間道の小坂三あり、矢澤坂登三十間宮ノ谷坂・和田坂登各一町餘、等名づく、
◯柏尾川 東界を流る幅五間、…鎌倉道の係る所板橋を架す長八間、高島橋と稱呼す、此餘天王橋・西久保橋・第六天橋・坂上橋など名づくる小橋あり、共に東海道中の小渠に架す、總て官の修理なり、
汲澤村百三
(三十五)
東海道村の南界を通ず幅四間餘、
原宿村百三
(三十五)
東海道村内の中程を貫く幅四間長廿町二十間、當所は立場なり、字臺と呼り戸塚宿へ、三十三町、藤澤宿へ一里三町
◯一里塚 双堠なり、塚上に松樹を植う、東方戸塚宿西方藤澤宿の里堠に續けり、
東俣野村百四
(三十六)
東海道東西に係れり幅凡五間、
◯小名 △殿久保 △大塚又甲塚とも云ふ、 △代官山 △下鄕地 △北原 △大谷 △比尻谷比茲利也都、 △上屋鋪 △中原 △草木佐宇母久 △中町 △堀込 △鐡鉋宿
◯坂二 一は堂坂古名は道場坂と云へり、遊行道場高座郡西俣野村に有し時、其道場への往來なればかく呼べり、今の地に移りてより唱を改むと傳ふ、一は赤坂と呼ぶ各登一町半幅五尺、

※東海道中の坂ではないが、関連する由緒が書かれているため、ここに採録した。

山谷新田百四
(三十六)
東海道村の西界を達す幅三間より四間半に至る、立場あり、字影取立場と呼り藤澤へ二十六町戸塚へ一里十町村北に古道あり城廻村より、東俣道を横切、東俣野村に通ず、昔鎌倉より武州多摩郡木曾町、及び甲州邊への道と云傳ふ、
◯小名 △影取此所に纔の淸水流る、土俗傳て、昔は池あり、池中に怪魚すみ夕陽に旅客の影、池中に投ずるを喰ひしより、影取の名殘れりと云ふ、按ずるに五行傳曰、蜮如鼈三足、生於南越一名射影在水中、人在岸上影見水中投人影則殺之、故日射影、盖當所の池中に住るも、此類なるべし、 △下原 △上どんと △下どんと △杉並 △中町
大鋸町百三
(三十五)
高座郡藤澤宿三箇町の一なり、此地境川を隔て當郡に隷すれど宿驛に預る事は藤澤宿に屬したれば總て彼所に詳載す、四隣廣袤住民の戸数等も彼宿の條に併記したれば此には分記せず…東海道の驛路南北に貫く幅四間餘又南方にて東に分るゝ岐路あり、鎌倉道と唱ふ、每年七月十一日に市あり、
◯小名 △廣小路 △舟久保 △瑞光
◯境川 南方郡界を流る幅五間より七間に至る東海道の係る所板橋を架す幅十二間大鋸橋と唱ふ、
西村百三
(三十五)
東海道村の東南を通ず幅三間、
◯道場山 諏訪社の後にあり、◯道場坂 東海道中にあり、

※藤澤宿の一里塚が大鋸町と西村に跨って存在した筈だが、記述はない。

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は鎌倉郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「鎌倉郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。






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