
左の写真はその古町橋跡に立っている案内ですが、その位置はこちら。
しかし何れにせよ、これによって宿場が今井川と交錯しながら街道沿いに伸びる形状になりました。現在の今井川はその後の度重なる河川改修で河道が移動させられましたので、現在見られる筋とは若干異なります。「東海道分間延絵図」で確認できるところでは、今井川は幾つかの支流が宿内で土橋の下を抜けており、宿の南側でそれぞれ合わさって本陣の外側で北東へと向きを変えます。ここでは前回も紹介した保土ヶ谷神戸町の神明社の郷土史のページに掲載された該当箇所の絵図をリンクしておきます。現在の地図との比較が出来る様に編集されているので、そちらと併せて御覧になると良いでしょう。

中橋跡にも案内が立っていますが、こちらも改めて位置を示しておきましょう。
因みに今井川について、「新編武蔵風土記稿」では
と記し、そこに掛かる橋も川幅或は三間或は五間に及べり(卷之六十九橘樹郡之十二 保土谷町)
としていることから、江戸時代後期の川幅は概ね10m程度であったと考えて良いでしょう。但し、これらの記述だけでは水深の方は不明です。長六間幅三間(元町にあった土橋)
長五間九尺(上神戸町の金沢橋)
東海道は基本的に海沿いに近い場所を進む関係で、必然的に海に流れ込む川を渡る箇所が増え、流れに沿って進む箇所は少なくなります。しかし、隣の流域に移る際には分水嶺を越えて行かざるを得ません。分水嶺が低い箇所では普通に坂道を付けるだけで済みますが、比較的高い分水嶺を越える箇所では、尾根への登り口に至るまで谷戸の中を流れる沢と並行して進む道筋が現れます。ここもその1つであるわけですが、他には例えば丸子〜岡部、金谷〜掛川等が挙げられます。
が、谷戸底というのは得てして腐葉土などが蓄積しやすいので足元が軟弱になりやすく、そういう所では並行する河川に対して街道に十分な高さを確保するのが基本です。特に宿場を形成する場合には地盤のしっかりした土地を選ぶ必要があり、そのために宿場が山の端に展開するケースが多くなります。当初の保土ヶ谷宿もその様な配置であった可能性が高いのですが、その後の直道化で道筋が山裾を離れてしまい、今井川の谷戸の中央に東海道が寄ってしまう格好になりました。宿場の人口が急速に増えて手狭になったために、従来型のセオリーに寄らずに街場のためのスペースを確保する方を優先したのかも知れませんが、その際に今井川の流路に多少手を入れてしまったことが後に仇となります。
今井川の流路のどの辺に手を入れたのか、詳細なことは記録が見つかっていませんが、上記の「中橋」付近のS字の部分が隘路となってしまい、しばしば溢水する様になってしまったのです。これは永年改善されず、幕末になって幕府からの補助を取り付けて現在の形に近い直流化が行われて中橋が廃止されました。
これには様々な疑問が浮かんできます。そもそも何故最初から直流化しなかったのか。あるいは、そこまで街道の直道化に拘っていなければ、もっと水に浸かりにくい道筋に出来たのではないか。また、宿場が水に浸かる頻度が高ければ、その時点で再度改修を考えても良かった筈だが、永年着手されなかったのは何故か。因みに「保土ヶ谷区史」は再改修の出願を長年行わなかった理由を「今井川の改修願いは結果的には宿場建設の失敗を認めることになるため」としているが、果たして本当にそうでしょうか。
もっとも、こうした疑問は得てして現代を知っている我々だからこそ感じてしまう性質のものであることは念頭に置くべきでしょう。我々は今既にこうして直流化された今井川の姿を目の前にしているので、つい「最初から…」と言ってしまうのですが、その際にここに至るまでの経緯をつい見落としてしまいがちです。帷子川とその支流である今井川の当初の姿を念頭に置きながら、その間に起きたことを私なりに考えてみたいと思います。
続きは次回に送るとして、差し当たり今の今井川の写真を。



ゴイサギの幼鳥ですね。コサギに比べると見掛けることが少ないだけに、ちょっと意外性を感じてしまうのですが、気を付けていると存外こういうコンクリートで囲まれた環境も意に掛けずに獲物を探しに来ている様です。
サギの中では足の短い(失礼)ゴイサギですが、それでも足の半分までしか水に浸かっていません。今井川の普段の水量がそれほど多くないことがわかりますが、これも次回に関係してきます。
追記:
- (2013/11/26):レイアウトを見直しました。
- (2016/01/26):ストリートビューを貼り直しました。