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三浦郡の「草綿」:「新編相模国風土記稿」から(その3)

前回に続き、今回も「新編相模国風土記稿」の三浦郡図説に記された「草綿」について見ていきます。今回は、江戸時代の三浦郡の木綿生産の実態を示す史料を2点ほど取り上げます。


横須賀市太田和の位置(Googleマップより)
戦国時代末期に「三浦木綿」の産地として名が知られる様になった三浦郡では、江戸時代以降も木綿が少なからず生産されていたこと自体は確かです。その具体的な実情を一番明らかにしてくれる史料としては、大田和村(現:横須賀市太田和、他)に伝わる「浜浅葉日記(はまあさばにっき)」を挙げることが出来るでしょう。


大田和村は、三浦半島の南西部近い小田和(こたわ)湾に流れ込む小田和川沿いの平野部を中心に開けた農村でした。現在の番地表記で見ると横須賀市太田和は海には全く面していませんが、これは主に近代に入って浜が埋め立てられたことによるもので、「風土記稿」によれば当時は「潮干一町餘」の海がありました。「横須賀市史 通史編 近世」では「浜浅葉」の名称について

浜浅葉家の本家である浅葉家は大田和村の名主(なぬし)や、三浦半島西部地区一帯を管轄する惣代(そうだい)名主を勤めた家で、浜浅葉家はこの家の分家で同村の浜方に位置したため、本家と区別して「浜」を付けて呼ばれていた。

(上記書317ページより、以下ルビも同書に従う)

と解説しています。但し、その呼称や立地の印象とは違い、

日記には日々の農作業の記事があふれている。浜浅葉家は大田和村の浜方に属するが、日記に漁業関係の記事はあまりみられず、農業関係の記事の方がはるかに多い。…しばしば(さかな)を近村の佐島(さじま)鹿島(かしま)に買いに行かせる記事がみられることからも、浜方とはいえ浜浅葉家の経営の中心が漁業でないことは明らかである。

天保一一年の分家に際して本家から分与された土地は、田二町余、畑一町八反余、屋敷一畝余、山三か所であった。浜浅葉家は、小作米が毎年一一二俵余、小作料が一二両入ってくる村内上層の百姓であった。

(上記書318ページより、…は中略)

と、生業の中心が農業にあったことを記しています。

「浜浅葉日記」全体では天保5年(1834年)から明治35年(1902年)までの長期にわたって書き記されたものですが、今回は「新横須賀市史 通史編 近世」で一覧にまとめられた天保15年(1844年)の農業暦から、綿の栽培や販売に直接・間接に関係するものを拾い上げてみます。なお、日付は何れも旧暦のものです。

月日記事の内容
2月2日綿買いに田戸の者が来る
2月9日5人で綿買い
2月15日長井村の七郎兵衛から買ってあった鰯を積みに舟を遣わす
2月16日鰯を本家へ付あげ
2月20日三ヶ浦へ五兵衛舟で糞取り(弥左衛門雇い)、城ケ島へ藻草積み、三ヶ浦より鰯6樽、下肥2つ積み参る(2つは本家へ)
2月24日本和田より綿買いに来る
3月3日荻野利兵衛母に繰綿代2朱渡す、
4月3日綿の作入(源右衛門雇い)
4月20日綿蒔き(六五郎雇い、上の畑から中の畑、種2斗5升)
4月21日綿蒔き(前の畑)、4月24日まで続く
4月24日綿蒔きしまい、本家で綿蒔き
4月25日四郎兵衛母が糸取りに来る
5月15日綿の草取り
6月1日綿200目に代料400文を添え糸取りに遣わす、
6月6日綿の草取り(日雇料4人半分600文)
6月13日綿の草取り

※「新横須賀市史 通史編 近世」319〜321ページ「表7-9 天保15年(弘化1・1844)の「浜浅葉日記」の主な記事」より、綿栽培・販売に関連すると考えられる事項のみを抜粋。原典は「相州三浦郡大田和村浅葉家文書」1集:46〜62ページ


この一覧では綿の収穫から以降の記事が見られませんが、基本的には旧暦7月下旬に綿取り(収穫)、8月いっぱいをかけて「綿むき」を行う流れであったことが、続く「年間の主な動向」として記されています。

一覧が長くなるので他の作物についての記述を割愛しましたが、綿の栽培時期は稲とかなり重なりますし、綿の草取りの時期には麦の収穫なども行っていますから、その間に綿の栽培に手を掛けるとなるとなかなか労力負荷が高くなることが窺え、実際草取りなどで必要になる労力はその都度人を雇って対処していることがわかります。それでも、浜浅葉家が本家共々かなりの量の綿を栽培していたことが、この一覧から窺えます。「新横須賀市史 通史編 近世」でも

全体の大きな流れとして、麦・菜種→稲・綿というサイクルがうかがえる。…浜浅葉家の全経営の中に各作物がそれぞれどの程度のウェイトを占めたかについては明らかにできないが、農作業の様子からみる限り、麦・菜種・稲・綿の四種が最も重要な位置を占めていたのではないかと考えられる。

(上記書322ページより)

としています。

また、綿栽培で必要となる干鰯は、大田和村の南西に位置する長井村(現:横須賀市長井)や、大田和村からは海岸沿いに北へ向かった場所に位置する三ヶ浦(さんがうら)(現:葉山町堀内の海岸)へ買い求めに行っており、その一部は本家に渡しています。長井村に事前に代金を支払っているのは、鰯の水揚げ後に干鰯にする手間に何かしら経費が必要だからでしょうか。東浦賀に干鰯問屋が多数固まっていたとは言え、地元では別途付近の村々から直接干鰯を買い付けていたことが窺えます。

綿の収穫後から販売にかけての当時の実情について、「新横須賀市史 通史編 近世」では更に次の様に解説しています。

日記には綿と米の販売記事が頻繁にみられる。綿作・加工の作業工程は、綿地作り・播種(まきたね)・草取り・施肥(せひ)摘心(てきしん)・綿取り・綿むきなどとなっている。嘉永五年(一八五二)の記事をみると、七月二五、二八日に綿取りを行い、同二六日から八月二三日まで一五回にわたって、おのぶという女性を雇って綿むきをしている。「夜ニ入おのふわたむきニ参り泊り」などと、綿むきは夜の作業が中心であったようである。このようにして採取した実綿(みわた)は、種を取って繰綿(くりわた)にして販売された。実際の綿の生産量・販売量は日記からでは明らかにしがたいが、毎年正、二月頃に綿販売に関する記事が多くみられ、二、三両くらいから多いときで一三両(文久元年〔一八六一〕二月)も販売している。表7—9の天保一五年の例でも、田戸(たど)本和田(ほんわだ)村(三浦市)から買いに来ている様子がうかがえる。また、綿を糸に紡いで機織(はたお)りもしていたようで、同表の四月二五日、六月一日のところでも人を雇って綿から糸を取っている事例が確認できる。

(上記書322〜323ページより、傍点は下線に置き換え)



横須賀市田戸台の位置(Googleマップより)
干鰯の様な「金肥」や人を雇ったりするのに諸経費がかかるにも拘わらず、浜浅葉家が積極的に木綿栽培に勤しんでいたのも、それが収益に結び付いたからでしょう。販売先として挙げられている田戸(公郷村内の小名、「田津」とも、現:横須賀市田戸台付近)や本和田(現:三浦市初声町和田)は三浦郡内にあり、必ずしも販路が広かったとは言えませんが、それでも田戸は三浦半島の東側に位置し、大田和村とは衣笠城址のある山地を挟んで対岸にあったことを考えると、意外に遠方から綿を求めてやって来る人がいたとも言えそうです。また、「新横須賀市史 通史編 近世」は嘉永3年(1850年)12月に米の販売で取引のあった江戸の米庄に見舞いとして白綿を1反贈った記録について記しており(323ページ)、綿布が贈答に使われる事例もあった様です。

また、大田和村以外の三浦郡内の木綿栽培の記録としては、時代が下って明治初期になりますが「皇国地誌残稿」を挙げることが出来るでしょう。この中では
  • 三浦郡平作村(66ページ):

    民業

    男 農業スル者三百四拾八人 商業スル者六人 雜業スル者四拾弐人

    女 農間採薪スル者三拾人 木綿紡績シ布織スル者三百廿三人

  • 三浦郡衣笠村(72ページ):

    民業

    男 農業スルモノ貮拾五戸 商業スルモノ貮戸 工三戸 雜業スルモノ七戸

    女 農間木綿糸トリ旗織五拾弐人 薪トリ貮拾八人

  • 三浦郡小矢部村(78ページ):

    民業

    男 農業スル者四拾壱戸 雜業スル者十七戸 工拾三戸

    女 農間木綿ヲ紡績シ布ヲ織ルモノ百拾七人

  • 三浦郡大矢部村(85ページ):

    民業

    男 農業スルモノ三拾七戸 雜業スルモノ拾三戸 商業スルモノ貮戸

    女 農間採薪スルモノ八拾人 木綿糸布織等スルモノ四拾八人

  • 三浦郡森崎村(89ページ):

    民業

    男 農業スル者拾四戸

    仝 農間雑業スル者貮戸

    女 〃 商業スル者壱人

    仝 〃 採薪スル者七人

    仝 〃 木綿糸布織スル者拾八人

(「神奈川県郷土資料集成 第4輯 神奈川県皇國地誌残稿 上巻」1963年 神奈川県図書館協会郷土資料編集委員会編 より、ページ数は同書中掲載箇所)

「皇国地誌残稿」三浦郡で女性の木綿紡績や機織りの従事を記された村々
上記に登場する各村と東浦賀の位置関係
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
の様に、女性が多数木綿の紡績から機織りに従事していることを記録した村が幾つか見当たります。「新横須賀市史 通史編 自然・原始・古代・中世」では、「皇国地誌残稿」の周辺の村々には同様の記述が見られないことを根拠に、戦国期の「三浦木綿」の生産の中心地であった可能性を指摘しています(669ページ)。個人的にはここまで時代が隔たった時期の統計がそのまま数百年前の生産地として適用可能かどうかは疑問も感じますが、指摘の通りならば東浦賀で水揚げされて精製された干鰯が半島の内陸まで運ばれて木綿栽培に施されていたことになり、その点では興味深い指摘と思います。ただ、そうしたことを抜きにしても、三浦半島内で江戸時代から明治初期にかけて積極的に木綿栽培や紡績・機織りを行っていた村々があったことは確かです。

こうして見ると、江戸時代にも引き続き三浦郡の木綿栽培が活発であった様に見えてしまいますが、実際は必ずしもそうではありませんでした。今回も引用が長くなってしまったため、次回相模国の他の郡の事情なども含めて三浦郡の木綿栽培を位置付けてみたいと思います。




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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

- aunt carrot - 2016年01月22日 08:49:25

今回の太田和の木綿栽培に関する記事、すぐ近くの地域なので
興味深く拝見いたしました。
今の太田和といえば大きなツツジの丘があり、周りに大きな農家さんの畑などがあり、長閑な風景があるところです。
その昔に田戸から初声からも買い付けに人が来て、干鰯を長井や葉山に買いにいき、城ヶ島から海草も来る。。。。
遠い昔の人の動きや場面を想像すると大変楽しかったです。
ありがとうございました。

Re: aunt carrot さま - kanageohis1964 - 2016年01月22日 09:04:15

こんにちは。コメントありがとうございます。

この大田和村の「浜浅葉日記」は熱心に研究されている郷土史家の方がいらっしゃる様で、その成果が幾つか本になって出ています。今回は「新横須賀市史」の取り上げた箇所を基本にしましたが、日記の翻刻も出版されていますので、何れ一通り目を通したいところです。

城ケ島の海藻も肥料にする目的で取り寄せたものと思いますが、当時の農村が意外に広い地域で繋がりを持っていたことがよく分かりますよね。

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