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三浦郡の「草綿」:「新編相模国風土記稿」から(その2)

前回に続き、今回も「新編相模国風土記稿」の三浦郡図説に記された「草綿」について見ていきます。

戦国時代に「三浦木綿」がその名を馳せる様になっていった経緯を考える上で、気掛かりな点が1つあります。栽培から綿布への加工までに必要となる「技術」と、それを支える物資を、「三浦木綿」の場合はどの様に入手したのか、という点です。

「慶長見聞集」では、熊谷の市で木綿の種を入手して持ち帰ったその年には早くも栽培に成功し、四五年もすると三浦郡での木綿栽培が定着したとされています。「見聞集」自体に史料としての価値に疑問が持たれていることは前回も指摘しましたが、仮に多少年度のズレがあったとしても、戦国時代末期には贈答品として価値を認められる程には品質を向上させていることは前回紹介した複数の文書が示す通りです。何れにせよ、短い期間に急速に木綿栽培が浸透したことは確かです。

そもそも、戦国時代に木綿が急速に求められる様になったのは、その時代情勢が背景としてあったことを、「苧麻・絹・木綿の社会史」(永原慶二 2004年 吉川弘文館)の「Ⅳ 苧麻から木綿へ/6 木綿の用途」の項で「兵衣」「陣幕・幟・陣羽織・馬衣など」「種子島銃の火縄」「帆布」といった軍需の実情を紹介して説明しています(264〜279ページ)。無論、木綿が急速に普及したのは麻に比べて遥かに保温性が高く、生産効率も良いという側面もあったことを同書の別の箇所で繰り返し記していますが、こういう時代背景の下で戦に必要となる木綿を大量にかつ早急に求める状況があったとなれば、領地内での木綿生産の技術習得を領主が悠長に待っていたとは考え難く、領主側から少しでも早く木綿生産を軌道に乗せる様に強く要望されたことでしょう。その様な条件下で、それまで何の前史もない土地で木綿の栽培や紡績が急速に発達するためには、外部から何からの技術移転があったと考える方が自然です。

残念ながら戦国期の木綿栽培の技術に関して、具体的なことを記した史料は見つかっていない様です。「苧麻・絹・木綿の社会史」でも江戸時代初期の農書などを手掛かりに当時の木綿栽培の実情を探ろうとしています。少々長くなりますが、関連する箇所を適宜拾いながら引用します。

木綿栽培の技術ないし経営形態をうかがい知ることのできる史料は、江戸時代以前については、現在のところ残念ながら見出されていない。それを一般的に知らせてくれるのは、やはり『清良記(せいりょうき)』『百姓伝記(ひゃくしょうでんき)』『農業全書(のうぎょうぜんしょ)』さらには成立年代は下るが、もっぱら綿作技術を論じた大蔵永常(おおくらながつね)(一七六人—?)の『綿圃要務(めんぽようむ)』などの農書類であろう。

『百姓伝記』の綿作関係記事は次のとおりである。

一、木綿を蒔に土地にきらひあり。黒ぶく土・赤土・青真土・黒真土・ねばり土・日やけ地・しつ気地・風影・ものかげ・片さがり地・山畑みなあしきなり。ねばりなき白真上・砂地・小石地相応地なり。春の土用四五日を懸蒔初め、夏の季に入五七日のうちまきしまひたるがよし。(中略)根こゑにも上はこやしにも干鰯を用てそだちよく、りん大きにして、わたよくふく也。(中略)国々にて云、六七十年このかた国々に色々種多くなる、(中略)種々善悪あれば平野村のわたさねを五畿内中ヘかいとり植る也、(中略)木一本の根に干いわし一つか半分か穴をふかくつきさし込、土をきせておけ。うらりんまでわたよくふくものなり。(中略)日でりに及んでいたみはやくつくものなり。近処より水を汲、くれぐれに及うねにかけよ。(中略)近処に水なき木綿畑必ず日損にあふべし。五畿内は大かた田を揚げきわた畑に用る。うねもちいさく耕作仕安。(中略)暖国にはきわたよし。第一土地の目利、第二耕作、第三こやしなり。

この『百姓伝記』になると、記述は『清良記』よりはるかに詳細である。土質は概して砂地・小石まじりを良しとし、種をえらび、肥料は干鰯(ほしか)灌水(かんすい)が必要、畿内では揚田(あげた)による綿作が広く行われていることが示されている。

『農業全書』は…

中うちする事、始終五六へんすべし、尤車少しもをくべからず

(こゑ)のしかけは、田畠ともにさのみかはる事なし、先棒糞(ぼうごゑ)とて、二葉に(はへ)そろひたる時、生たる筋の中を苗の少々痛むをもいとはず、四五寸も間を置て、とがりたる棒のさきにて、深さ四五寸に穴をつき、其中へ(いはし)にても油糟(あぶらかす)にても一盃入るべし、(中略)其後又十四五日も過て、一方のわきに糞を入れ、又十日も間を置て、一方に筋をかき、糞を入べし、(中略)凡そ夏の半まで三度糞を入て先やむべし、糞のしかけをそければ桃つかず

と述べ、干鰯・油糟のような購入肥料を多量に施す必要、除草・中耕を「ねんごろ」に行う必要を説いている。

(304〜308ページより、…はブログ主による中略、強調はブログ主による)


全般的に、木綿の栽培過程ではかなりの手数を施す必要があった様で、その実情は恐らくは戦国時代の黎明期にあってもそれほど変わることはなかったのではないかと思われます。

ここで気になってくるのが、「干鰯」や「油糟」の様な肥料を必要としていることです。干鰯はイワシから油を搾り(搾った油は照明などに使います。以前浦賀で燈明堂の火を東浦賀の干鰯問屋が維持していることを記しました)残った糟を干したものです。油糟も菜種油を搾った糟ですから、どちらも成分の似た肥料と言えますが、何れにせよこれらの肥料は栽培家が外部から購入するなどの手段によって入手しなければならず、江戸時代には「金肥」と称されていました。起源ははっきりしていませんが、一説では戦国時代頃まで遡ると言われています。

「三浦木綿」の栽培でも当初から成果を挙げているところから考えると、こうした肥料について木綿の種の入手先から知識を得て、それに従って施肥を行ったと考えるのが妥当なところでしょう。三浦半島がそれほど農業地として注目されている土地ではなかった以上、施肥が重要になる作物を肥料なしでいきなり育てて上手く栽培出来るとは考え難いことです。

そうなると気になってくるのが、後に江戸時代に入って東浦賀で発展する「干鰯問屋」の存在です。「風土記稿」ではこの「干鰯問屋」について

斯地舟船輻湊の地にして戸口櫛比し、今四百五十烟皆商賣なり、其内干鰯問屋三十戸あり、天正の頃は十五戸なりしに漸々增加し、元祿五年より税錢を貢すと言ふ村民八右衞門・三郎兵衞・曾右衞門等は天正の頃より其事を業とし、此地に在りと云ふ、

(卷之百十三 三浦郡卷之七 東浦賀の項、雄山閣版より)

と記しており、東浦賀の干鰯の生産に従事していた家が古くは天正の頃から、つまり戦国時代末期から存在していたとしています。天正の頃には15軒でしたが、後に軒数が増えて「風土記稿」が記された頃までには倍の30軒に達していました。


東浦賀の干鰯問屋跡(ストリートビュー
現在はコンビニになっている敷地が
かつての干鰯問屋の1つ「湯浅屋」のあったところ
コンビニの傍らに立っているガイドのみが
かつての所在を伝えている
今のところ、「三浦木綿」と東浦賀の干鰯を直接繋ぐのに足るだけの史料がなく、以下は全くの類推でしかありませんが、私としてはやはりこの東浦賀の干鰯が「三浦木綿」の急速な発展の下支えになった可能性を強く感じます。そうであれば、恐らく浦賀の干鰯の歴史は「風土記稿」が記す時期よりももっと遡る可能性が高いでしょう。また、後には農家が金銭を支払って干鰯を購入する様になるとは言え、木綿の栽培開始当初から干鰯の入手しやすい状況があったとは考え難く、そこには干鰯の施肥に関して具体的な技術指導と、領主の何らかの後押しがなければ「三浦木綿」と干鰯の生産体制は整わなかったのではないかと思われます。

東浦賀の干鰯問屋は後に地元の三浦郡だけではなく、一時期は西国に向けても干鰯を出荷して同地の木綿栽培を支える様になりますが、その切っ掛けを与えたのが「三浦木綿」であった、という構図は更に検討してみたい課題です。戦国期の干鰯や三浦木綿にまつわる更なる史料が発見されることを期待したいところです。



ところで、「風土記稿」の三浦郡図説では「『もめん』と称して『木綿』の字を使っているがそれはパンヤ(波無夜)であって国産はない筈、諸国で栽培しているものは『草綿』だろう」と書き記しています。そこで、「風土記稿」の指摘する「木綿」「草綿」の表記についてもう少し確認してみましょう。

「和漢三才図会」には「木綿」の項と「草綿」の双方が記されています。

木綿

きわた/ぱんや

古貝 斑枝花/攀枝花/睒婆梵書/迦羅婆劫

今云波牟夜

本綱有木綿草綿二種 草綿詳干濕草部古貝樹交州廣州等南方之高(ハカ)(ヒトカカエ)其枝似其葉大胡桃(クルミ)ニシテ山茶花(サザンクワ)黃蘂アリ花片極スコト甚繁短側相比(コブシ)白綿綿子今人謂斑枝(ハンニヤ)木綿也可[糸昷]絮(ナカワタ)又抽(イトクチ)

(「国立国会図書館近代デジタルライブラリー」より、表題の順序を適宜入れ替え、送り仮名を上付き文字で、返り点を下付き文字で表現、合略仮名はカタカナに展開、字母を拾えなかった漢字については[ ]内にその旁を示した)

草綿

くさわた/きわた

古終/久佐和多

俗云木綿

綿眞綿(マワタ)故稱木綿/別木綿斑枝花(ハンヤ) 灌木類

本綱有草木二種(ニタル)古貝 干灌木類即班枝花也古終種出南番ヨリ江南則徧江北中州矣不シテ(コガヒセ)而綿アリシテ(アサツクラ)而布アリ(カフム)天下益大ナル哉四月下莖弱如者四五尺葉(カヘテ)黃色如ニシテ葵花而小亦有紅色フコト白綿綿()梧子亦有紫綿ナル八月采𣏕(モヽ)綿花(ツムヒ)(ホソ)(カセ)カニ

(「国立国会図書館近代デジタルライブラリー」より、翻刻時の取り扱いは上記に準ず、なお、「コガヒセ」とルビの振られている一字は正確な字形を判読出来なかったので空欄とした)


「本草綱目」で記されている「木綿」「草綿」それぞれについて、「木綿」と記されているものは中国南部で栽培されている木であって、日本で俗に「木綿」と呼ばれて栽培されているものは「草綿」の方であることが明記されています。この辺りの記述の使い分けは本草学の書物では共通しており、「本草綱目啓蒙」でも

木綿

パンヤ

〔一名〕…

草綿 キワタ トウワタ ワタ

〔一名〕…

木綿草綿の別あり木綿はパンヤ草綿はトウワタ即今本邦に栽ゆる所の者なり

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、種名以外のカタカナをひらがらに置き換え、…は中略)

の様に記されています。


本草図譜巻92「木綿」
「本草図譜」より「木綿」の実の図
このページ以降に「木綿」や「草綿」の種や花などの画が
多数収められている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
梅園草木花譜夏之部「綿花」
「梅園草木花譜夏之部」より「綿花」
「木綿」と「草綿」について
それぞれ解説が載せられている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

本草学の表記に倣う傾向にあった「風土記稿」としては、この点に忠実に従おうとしたのでしょう。こうした点は以前までに取り上げた産物でも「青芋」で典型的に見られました。蕨や独活などの山菜では必ずしも本草学の指摘に従い切ることは出来なかった様ですが、「木綿/草綿」の例では同定が比較的容易であったので、迷うことなく本草学の「草綿」の表記を採用したのでしょう。

今であれば、こうした表記には「学名」を用いるところです。「跡見群芳譜」に従えば、本草学の「木綿」は学名では「Gossypium arboreum」、「草綿」は「Gossypium herbaceum」ということになる様です。国際的にも統一された表記を用いることで、国や地域によって異なる呼称を相互に束ねることが出来る様になっています。こうした近代的な「学名」は「風土記稿」が書かれた頃にはまだ整備途上で、日本国内で用いられる様になるのは明治時代に入ってからのことですから、「風土記稿」編纂の際にはまだ採用される状況ではありませんでした。各地の動植物の呼称の差異を一覧化する作業の成果としては、小野蘭山の「本草綱目啓蒙」が最も典型的なもので、昌平坂学問所が「風土記稿」編纂に当たって本草学の表記に拘った理由も、恐らくは各地の呼称の差異による混乱を排除する意図があったのだろうと思います。

次回、三浦郡の江戸時代以降の木綿の実情について、もう少し掘り下げて見てみます。



追記(2018/02/11):「跡見群芳譜」の閉鎖に伴い、リンクを撤去致しました。委細はこちらの記事を参照下さい。因みに、従前のリンク先は「http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/Flower%20Information%20by%20Vps/Flower%20Albumn/ch4-vegitables/wata.htm(木綿)」及び「http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/Flower%20Information%20by%20Vps/Flower%20Albumn/ch4-vegitables/wata2.htm(草綿)」でした。
(2018/05/25):「跡見群芳譜」の復活に伴い、新URLへのリンクを再設置しました。

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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

- aunt carrot - 2016年01月18日 21:36:00

前回からの三浦郡の木綿について、大変興味深い記事です。
東浦賀の干鰯問屋がこれを支えていたとは。
続きも楽しみです。
いつもありがとうございます。

Re: aunt carrot さま - kanageohis1964 - 2016年01月18日 21:45:54

こんにちは。コメントありがとうございます。

そこがもっと明言出来る状況であれば「新横須賀市史」辺りでも間違いなくその様に解説しているだろうと思います。干鰯問屋は浦賀の歴史を語る上では欠かせない事項ですからね。
それがなされていないのも、結局のところは裏付けとなるべき史料が見つかっていないことに尽きます。特に「三浦木綿」について伝わっているものが乏しいのが痛いですね。ただ、両者の関係を否定する様なものもないですし、木綿栽培に必要となる筈のものを考えていくと、やはり干鰯抜きで考えるのも難しいのではないか、と個人的には考えています。

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