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三浦郡の「草綿」:「新編相模国風土記稿」から(その1)

「新編相模国風土記稿」の産物一覧から、今回は三浦郡の「草綿」を取り上げます。

  • 山川編(卷之三):

    ◯綿布和名、毛女牟◯大永の初、三浦郡に種を植しより郡中に多くして三浦木綿と稱美す、此名、文祿中の文書にも見ゆ、今尙播殖すれど郡名の稱は聞えず、

  • 三浦郡図説(卷之百七 三浦郡卷之一):

    ◯草綿毛女牟と稱し木綿の字を用ゆ、されども木綿は波無夜にして和產なし、今諸國栽る所のものは草綿なり、【見聞集】曰、三浦に六十計の翁あり、語りしは大永元年武藏國熊谷の市に西國の者木綿種を賣買す、買取て植ければ生たり、皆人是を見て次の年熊谷の市に買取植ぬれば四五年の中に三浦に木綿多し、三浦木綿と號し國に賞翫す、夫より關東にて諸人木綿を着ると語る云々、又高座郡河口村總持院所藏文書曰、遠路爲御音信代僧殊三浦木綿被指越祝着候云々、壺の御印あり、今も郡中に播殖すれど三浦木綿とて稱美する事は聞えず、

(以下、「風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より)


山川編が「綿布」と書くのに対して三浦郡図説は「草綿」と記す点と、山川編の記述が三浦郡図説に比べるとかなり簡略化されている点に違いがあるものの、基本的にはどちらもかつて「三浦木綿」と称されて賛美されていたこと、「風土記稿」の編纂された頃には綿の生産は引き続き行われているものの「三浦木綿」と称して賛美されることはなくなったことを記しています。


海老名・総持院の位置
南側を矢倉沢往還が通っており
北には有鹿神社が位置している
Soji-in 2015-10-04 2.jpg
総持院本堂
("Soji-in 2015-10-04 2"
by Araisyohei - 投稿者自身による作品.
Licensed under CC 表示-継承 3.0
via ウィキメディア・コモンズ.)

三浦郡図説の記述の中に「高座郡河口村」と記されていますが、高座郡に属する村で「総持院」が存在する村の名前は「河原口村」(現:海老名市河原口、他)で、「風土記稿」の同村の記述の中にも

◯總持院 海老山滿藏寺と號す、古義眞言宗京東寺寶菩提院末…【寺寶】△東照宮御判物一通文祿中、名護屋御陣中に住僧木綿を献ず、其御返翰なり、△谷全阿彌奉書一通前と同時の書なり、文中爲御音信、從六箇寺、三浦木綿十端進上云々、按ずるに、六箇寺其指所、今考べからず、

(卷之六十五 高座郡卷之七、…は中略、強調はブログ主)

とあることから、「風土記稿」の三浦郡図説のこの箇所は誤記と考えて良いでしょう。鳥跡蟹行社版の該当箇所でも「河口村」になっているので、恐らく元にある誤記と考えられます。山川編の「文祿中の文書にも見ゆ」がこの総持院に伝わる文書を指していることは言うまでもありません。

「風土記稿」の三浦郡各村々の記述には、綿の生産に関する記述を見出すことは出来ません。他方、三浦郡図説の「草綿」に関する記述は、文中に「見聞集」の引用を含んでいるとは言え、各郡の産物に関する記述の中では最も長いものになっています。過去の産物について記しているものとしては波多野大根の例がありましたが、こちらの例では香雲寺の文書に記述があることだけを記していました。「見聞集」については各村の記述で紹介されなかったため、図説で引用文を掲載せざるを得なくなり、この様な記述になったのでしょう。

そこで、今回はまずこの「見聞集」の記述について検討するところから始めます。「風土記稿」が「見聞集」と略記するこの書物は「慶長見聞(けんもん)」を指します。これは江戸時代初期に三浦浄心が著した随想集で、浄心が見聞きしたものを書き留めるという構成になっています。もっとも、事実誤認と思われる記述や、三浦浄心に仮託して後世の人間が書いたとする説もあり、この文献の信憑性については議論の残るところがあります。ただ、三浦浄心自身、戦国期には三浦郡に本拠を持っていた一族の末裔ですから、三浦郡で見聞きしたものは彼の領内でのことであったと言え、その限りでは整合性が取れています。「風土記稿」に引用されているのはこの「慶長見聞集」の巻の三「関東衣服昔に替る事」の中の一節です。「風土記稿」に引用された箇所と一部重複しますが、多少の文言の差異も見られますので、その前後を含めて一通り書き出してみます。

見しは昔。關東にての體裁。愚老若き頃までは、諸人の衣裳、木綿布子なり。麻は絹に似たればとて、麻布を色々に染め、わたを入れ、おひへと云うて上着にせしなり。布は出所多し。木曾の麻布は信濃にて織り、手作りは武藏に詠めり。奥布、信夫(しのぶ)文字摺は忍郡(しのぶこほり)にて織る。氣布(けふ)の細布は油中折に、(くだん)の布は兎の毛にて織ると云々(しかじか)。此説樣々に記せリ。(さて)又我若き頃、三浦に六十ばかりの翁あり、語りしは、大永元年の春、武藏の國熊ヶ谷の市に立ちしに、西國の者木綿種を持來りて賣買す。是を調法の者かなと、買ひとりて植ゑつれば生ひたり。皆人是を見て、次の年又西國の者持ち來るを、三浦の者共、熊ヶ谷の市に出でて買ひ取り、植ゑぬれば、四五年の内三浦に木綿多し。三浦木綿と號し諸國に賞翫す。夫より此方關東にて諸人木綿を着ると語る。然る時は木綿、關東に出來始まること、大永元年より慶長十九年、當年までは九十四年此方と知られたり。

(「袖珍名著文庫 巻25」1906年 富山房版より、「国立国会図書館デジタルコレクション」より引用、振り仮名は一部を除き省略)


上記の通り、浄心が領内の古老に聞いたとするこの由緒を何処まで史実として受け入れるべきかは悩ましいところですが、ひとまずこの記述の意味するところをもう少し掘り下げてみたいと思います。当時の木綿の生産の実情については、次の本を参照しました。

苧麻・絹・木綿の社会史」 永原慶二 2004年 吉川弘文館


それによると、日本では14世紀末から15世紀にかけての頃から朝鮮や中国との交易で木綿を大量に輸入する様になり、特に戦国期に入ってくると防寒性に優れた木綿が兵衣として重視されたことも相俟って、朝鮮の内需を脅かす程になって輸出に制限をかけ始めます。日本の木綿の国産についての史料が登場するのは、こうして海外からの木綿の輸入が困難になってくる応仁の乱の頃からである様です(215〜230ページ)。そして、同書では

おそらく日本の国内における木綿栽培は、九州からはじまったであろう。しかしそれはかつて稲作が北九州から逐次東方に広まっていったのと同じような足どりをとったわけではあるまい。そうではなく、ほとんど同時的に、三河をはじめとする各地に併行して種子が伝わり、そこここで綿作が行われるようになったのではないか。その際、北陸・東北方面が立ちおくれていたことは事実だが、全体として国内木綿の栽培の開始と広まりを、江戸前期中心に見る通説的理解は訂正される必要がある。実際はそれよりも早く、一六世紀中における展開の度合いを、これまでよりは高く評価すべきであると考えられるのである。

(上記書261〜262ページより)

と、戦国時代の間に国内の木綿生産が急速に展開したことを、各地に伝わる史料を検討して明らかにしています。

「見聞集」に登場する熊谷(現:埼玉県熊谷市)について、「苧麻・絹・木綿の社会史」は、

越生から東北方向にさして遠くない熊谷(くまがや)(現、埼玉県熊谷市)には、一五八〇年(天正八)ころ、木綿売買の「宿(しゅく)」(取引所)があった。同年一二月一二日付の成田氏長印判状(『新編武州文書 上』大里郡三号)には、

熊谷の町に於て、木綿売買之宿、長野喜三所にて致すべきの由、申し付くべき者也

の文言が見える。成田氏長は小田原北条氏の傘下にあって当地方を支配していたのであるから、実際は、北条氏の政策によって、木綿取引の「宿」が指定されていたといってよい。この熊谷の「宿」にもちこまれる木綿の産地や、そこに集まってくる商人の本拠地などについては、残念ながら知る手がかりがほとんどない。

(上記書241~242ページより、ルビも同書に従う)

と記しており、戦国時代後期には木綿の集散する一大拠点としての地歩を確立していた様です。天正年間となると「見聞集」の記す大永元年より60年近く後年ということになり、その頃から既に熊谷が木綿の主要な宿となっていたかが気になりますが、これについても同書ではこの「見聞集」について

戦国時代、熊谷周辺の地域では、すでに木綿の生産が進みだし、熊谷の市では木綿取引も開始されていたから、「西国のもの」も種子を運んできたにちがいない。

(上記書243ページより)

としており、既に大永年間には熊谷で木綿が取引される市が立っていたということになる様です。

三浦半島〜熊谷間の直線距離
三浦半島〜熊谷間の直線距離
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
興味深いのは、三浦半島からこの熊谷の木綿市まではるばると出かけていることです。直線距離でも三浦半島から熊谷までは100kmあまりも隔たっており、往復には何日も掛かる距離であることは確かです。一貫して陸路を進んで往復したのか、あるいは熊谷から最寄りの利根川の河岸を経由して水運で三浦半島との間を行き来したのかは定かではありませんが、どちらにせよその往復だけでも相当に経費と時間を要することは確実でしょう。となれば、それだけの支出を裏付けられる程の動機を熊谷の市が持っていたことになると思われます。

その熊谷が木綿の集散地としての地歩を固めていたとすれば、当然三浦郡から熊谷へと往復したのも、元々その木綿を求めてのことではあったと考えるのが妥当でしょう。遠征した当人が木綿の種を持ち込んでいる商人がいることまで考えていたかどうかはわからないまでも、そこまでの労力を負っても木綿を買い出しに遠征しなければならなかったということです。

これが幕府が置かれていた鎌倉時代のことであれば、あるいは鎌倉公方が鎌倉に本拠を置いていた頃までであれば、権力の中枢地である鎌倉を中心に商人たちも数多く集っていた訳ですから、相模国には入らない商品を求めて遠征を強いられる様な状況はなかなか考え難かったかも知れません。しかし、鎌倉公方が古河へと転出してしまったのは享徳3年(1454年)、従って大永元年は鎌倉から有力な権力の中枢が居なくなってしまってから40年以上が経過した頃に当たります。他方で、後に関東一帯を治める様になる小田原北条氏は大永元年には2代目の氏綱の頃ですが、この時にはまだ「北条」を名乗る前で関東一円に乗り出す前の時期です。つまり、大永元年という年は鎌倉が衰退する一方で、小田原が新たな中枢として力をつける前の中間期であったということになります。そういう時世の中では、有力な商人たちは既に鎌倉を離れて新天地へと移ってしまっていたでしょう。

これを三浦郡から見れば、かつてであれば鎌倉を中心に集まってくる産物をあてに出来たものが、より遠方の市へと足を伸ばさなければならない状況へと変わってしまっていたということになります。「慶長見聞集」の記す通りならば、これは当時の鎌倉の衰退を背景に遠征を強いられる事態へと追い込まれてしまっていたことを裏付ける証言ということになるのかも知れません。また、その様な状況でも敢えて木綿を求めに遠く熊谷まで向かったとすれば、そこには領主であった三浦氏の求めがあったとも考えられ、更には遠征に際しての援助をしていたとしてもおかしくなさそうです。

こうして見て行くと、「慶長見聞集」のこの「三浦木綿」についての記述は、信憑性についてその是非を考えるには更に他の史料による検証が必要とは言えるものの、少なくとも当時の実情に照した時に矛盾を生じる様な記述ではなく、相応に筋の通ったものであると言えそうです。


野比・最宝寺の位置
「新編相模国風土記稿」卷之百十五「最寶寺境内圖」
「新編相模国風土記稿」卷之百十五より
「最寶寺境内圖」(雄山閣版より)

そして、「風土記稿」が記す総持院の文書にある通り、この「三浦木綿」が徳川家康や谷全阿彌に贈られ、その返礼が奉書として残されていることからも、「三浦木綿」がその後贈答に用いられるに質を高めていったことは確かです。三浦郡で生産された木綿を高座郡の寺院がわざわざ手に入れて贈っているくらいですから、生産を始めてからさほど日が経っていないと考えられるにも拘わらず、外部から評価される程にまで急速にその品質を上げることに成功していたことになるでしょう。「苧麻・絹・木綿の社会史」では更に

なお三浦木綿については、相模三浦郡野比(のび)(現、横須賀市野比)の最宝寺(さいほうじ)に宛てた按察(あぜち)法橋具明の年欠五月二三日付文書に、

志として木綿卅端進上の趣、具さに披露せしめ候処、遠路合期せざるの時分、誠に似て懇志之至りに思召され候……

という文言が見える。おそらく京都に居た具明の主筋に、最宝寺側から三浦木綿三〇端が送られたことの礼状であろう。『舜舊記(しゅんきゅうき)』(吉田一族梵舜(ぼんしゅん)の日記)一五八五年(天正一三)の一二月一三日条にも「幸円弟子関係ヨリ上、ミヤケ(土産)に木綿一端送之」とある。

(上記書243ページより)

と、やはり木綿が贈られた記録が紹介されています。この文書は「風土記稿」の野比村の項(卷之百十五 三浦郡卷之九)には掲載されていませんが、これも当時の「三浦木綿」の質の高さを示すものと見て良いでしょう。

こうした「三浦木綿」が、「風土記稿」が編纂された頃には既にその名が称えられることがなくなってしまったと記されている訳ですが、その前に次回戦国時代の「三浦木綿」について気掛かりな点を取り上げるところから、次回に続きます。



追記(2018/01/16):「国立国会図書館近代デジタルライブラリー」へのリンクを「国立国会図書館デジタルコレクション」のURLに書き換えました。その他、常時SSL化に伴うURLの書き換えを行っています。

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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

- むく - 2016年01月16日 12:51:40

木綿の歴史、考えてみるとすごいものですね。
雨月物語の浅茅が宿には京から葛飾に織物を売りにくる男が登場します。
その話のもとになったのは万葉集の真間の手児奈。
その頃は木綿はまだなかったのか…。
インドは昔から綿の産地として知られてきましたが、そのインドの綿にもさまざまな歴史的なドラマが。
大航海時代にも思いが飛んでいきます。
子供の頃、村には反物売りの行商人が遠くからやってきていました。
草綿の話、興味が尽きません。

Re: むく さま - kanageohis1964 - 2016年01月16日 13:00:46

こんにちは。コメントありがとうございます。

今回は「風土記稿」にまつわる話に限定するため、戦国時代以前の「木綿」の歴史についてはごく手短にしか触れられなかったのですが、実際は古代の文書に現れる「木綿」が何を指しているかなどの問題があります。ただ何れにせよ、中国や朝鮮に今で言う「木綿」が伝播したのもそれほど古いことではなく、その点では東アジアは確かに世界的にはかなり遅れて木綿が普及した地域であることは確かな様ですね。

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