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「慊堂日暦」の箱根行き以外の道中の記録について

先日来読み返していた松崎慊堂の「慊堂日暦」について、大雑把ではありますがひと通り目を通し終えました。その際に目に止めたケンペルにまつわる記述を元にして、前々回前回の2回で「はこねぐさ」についてまとめた訳ですが、この日記を読み返したもう1つの目的は、「「湯治の道」関係資料調査報告書」(箱根町立郷土資料館編 1997年、以下「報告書」)に記された6回の箱根の記録の他に旅の記録が、特に相模国を経由した際の記録がないかを探すことでした。今回はその結果を簡単にまとめておきます。

結論から先に言うと、慊堂はあまり積極的に旅をする人ではなく、湯治目的の箱根行き以外は基本的に主君に随伴して遠征したり、講義などの目的があって出掛けたケースに限られる様です。そのためもあってか、相模国内を経由した旅の記録は、上記の6回以外では文政12年(1829年)3月9日に江戸を発って大坂へと向かい、同年10月25日に江戸へ帰り着いた際の1回のみということになる様です。

この往復は、主君であった掛川藩主・太田資始(すけもと)が大坂城代として赴任するのに随伴してのものです。日記では前年の文政11年11月22日の項に「この日、主君は大坂城総督を拝す」(「慊堂日暦2」223ページ、以下巻号とページ数は何れも平凡社東洋文庫版より)とありますから、それから諸々出発に向けて手筈を整え、翌春に大坂に向けて発った訳です。因みに当初の出発予定は7日だったものが、9日に延期されています。

往路は東海道を経由していますから、当然この時も箱根を通過しているのですが、「報告書」ではこの1回は数え上げられていません。これは恐らく、この往路の道中の記述がごく簡潔で、箱根に関する記事が殆どないことによるものと思われます。実際、3月10〜11日の記述は

十日 晴。夜、小田原に宿す。富岡の女、十束の女はみな轎にて往き、途にありて甚だ困しむ。

十一日 陰。関門を()たり。吏は帯びるところの妻孥(さいど)を検す。三島駅本陣(樋口伝左衛門、父は林平。朝日与右衛門はその冠賓なり。依田善六の父左二兵衛は林平の弟なり)。

(「慊堂日暦2」242ページより)

と、箱根の関を越えた際のことのみが記されています。因みに「轎」とは駕籠の様な乗り物を指しますが、この時は主君に帯同した家来の家族も随伴していたため、箱根の関所ではそのうちの女子の改めを受けた、と記している訳です。なお、平時駕籠を使うことが多かった慊堂自身もこの往路で駕籠に乗っていたと考えられ、記述が簡潔なのもその表れと思われますが、その点に関する明記はありません。

同月14日には領地である掛川に着いたものの、翌日三箇野橋(袋井〜見附間、太田川)の落橋の知らせを受けて出発が1日延期され、大坂城に着いたのは23日でした。以後慊堂は同地に滞在しながら多くの人と会い、時には揮毫に応じたりしています。日記には「◯大塩平八郎。天満組屋敷与力(よりき)盗賊方」(「慊堂日暦2」245ページ、3月末尾)「◯大塩平八郎。号は洗心洞、三十七八歳。」(「慊堂日暦2」308ページ、9月13日)と2度にわたって記されていることから、この滞在中に大塩平八郎とも会ったのかも知れません。

9月27日には主君の大阪城代の任が終了し、翌日には江戸に向けて出発していますが、雨季に川止めに遭うことを警戒したためか、この復路では東海道を経ずに中山道へと向かっています。この道中では「余は轎中にあり、ただ山を看るべからざるを苦しみ、」(「慊堂日暦3」4ページより)と書いていますから、やはり駕籠に乗っていて外の景色を見られなかったことが、道中の記述の簡素化に繋がったと見て良さそうです。途中木曽福島に数日滞在し、同地の領主に論語などを講義しています。また、慊堂は蕎麦が好物であった様で、日記には蕎麦を食したという記述が至る所で見られるのですが、同地で食した蕎麦について

十五日 …蕎麪(そば)条を進むれば甚だ佳し。ここに来ってしばしばこの味を享す、妙は言うべからず。

(「慊堂日暦3」6ページより、…は中略)

と、その味を賞賛しています。

下諏訪からは中山道ではなく甲州道中へと向かっているのは、少しでも江戸に早く着くための配慮でしょうか。通常の参勤交代とは違い、同伴した家来の数も多くはなかった様なので、沿道の施設が比較的小規模な甲州道中でもさほどの支障とはならなかったのかも知れません。何れにせよ、甲州道中を経由したことで復路は津久井県を経由することになりました。

甲州道中が相模国内を経由する区間はあまり長くなく、鳥沢を出発した一行は翌日には相模国を経て武蔵国に入ってしまいます。このためもあって、日記の記述もそれほどの文量にはなっていません。

二十三日 暁行して犬目駅に至れば天明(てんめい)なり。三十丁にて野田尻、一里にて鶴川駅、駅外の鶴川は左より来り、南行して桂川に入る。十八丁にて上の原駅、二十余丁にて諏訪村と曰い、関あれども呵せず。関の西を諏訪村と曰い、絹商駅あり。関外の下坂は頗る険しく、桂川は西より来り、猿橋に比すれば見るところ大を加う。小水が左より来るを界川と曰う、(かい)(さがみ)の界なり。界の東はすなわち津久井駅、石壁は嶄立(ざんりつ)し、桂水はこれがために屈曲し、反流するものの如し。路はまた曲屈して上り、上り窮まる処を関野駅(代官江川氏)と曰う。十六町にて吉野駅と曰い、駅は与瀬に距ること一里、駅外に間道あり、南して舟を桂水に下す。一村を経て、村外にて再び桂水を渡り、左行して崖を()ずれば険悪を極む。凡そ四丁にて与瀬に(いた)る。官道に比すれば近きこと六の四。与瀬よりまた山行すること半里、小原と曰う。小原より上れば小仏嶺、嶺頭より直ちに下れば、小仏駅を経て駒木野関に入るべし。余は南行すること五十町、高雄山寺に入って宿す。香廚(こうちゅう)は極めて草々にして、ただ一酌あり口によろし。

(みの)より(しなの)を経て(かい)に入り、千山万水、変態百出し、小仏嶺に至れば、すなわち山囲は忽ち開け、水勢は平流す。感じてこの詩をつくる。

中山の路千里、跛渉(ばつしよう)して高深に()む。折れて入る仙禽郡、回看す小仏岑。昂低(こうてい)の山に意あり、険易(けんい)の水に心なし。ただに峨漾(がよう)を窮むるのみならず、併せて世事を(そらん)ずるに堪えたり。

二十四日 早起すれば、寺の四辺はみな大木、木の間に鎌倉絵島を俯視す。禽声は啁哳(とうたつ)人間(じんかん)にて聞くところに非ず、寺僧に問えば知らず。寺北の飯綱祠は頗る壮厳、石階は百級に近く、香火は近郡の最たりと云う。山を下ること十余丁、右に降ることまた十余丁、琵琶瀑を観る。瀑は極めて小、高さは三丈ばかり、失心の人が来り浴すれば効あり。余は灌水癖あるも、早辰にて霜氷は地に満ち、地はまた陰峭、すなわち去る。北行すること十余丁、駒木野駅にいたれば、子肅は輿馬を整頓して()つこと久し。二里にて八王子駅、頗る繁盛、繭糸を売る者街に満つ。肉舗(三河屋)に就き野豕を食す。二里にて日野駅、玉川を渡り、二里にて府中に宿す。

(11〜12ページより)




原付で甲州街道を走ってみた(その28)与瀬-勝瀬-吉野
慊堂にとっては普段通り慣れない道筋だけに、往路に比べると甲州道中では多少文量が増えています。とは言え、基本的には宿場の名前とその間の里程を記すに留まっている区間が殆どで、相模国内では宿場の名称以外の記述は所謂「二瀬越え」の間道について触れているのが殆ど唯一となっています。もう少しゆっくり滞在することが出来ていれば、駒木野ではなく高尾山に宿泊した折の記述程度には委細が記された可能性があったでしょうが、結局相模国内は通過しただけのためか、漢詩を詠む際にも相模国のことに触れずに周囲の景観を詠み込んでいます。

この「二瀬越え」については、umegoldさんの動画による詳細なレポートがありますので委細はそちらに譲ります。その他、甲州街道の様子についてはumegoldさんの一連の動画が非常に詳しく解説されています。この区間の「新編相模国風土記稿」の記述については後日津久井県内の各村の記述をまとめる際に改めて取り上げる予定です。

他方、相模国を経由しない道中の記録としては、文政10年10月28日に佐倉藩へ出発したものがあります(「慊堂日暦2」127〜129ページ)。これは同藩主堀田正睦(まさよし)向けに講義を行っていたよしみから佐倉へ招かれたものの様で、往路は八幡から舟で中川関を経て白井で一泊し、29日に佐倉に到着しています。その後11月5日まで佐倉に滞在して同地の藩士などに会っていますが、その間に「印旛湖」(印旛沼のことと思われる)を訪れてその風景を賛美しています。帰路では千葉を経由して千葉寺や佐倉藩の海防所を視て、舟で江戸へと戻っています。

また、天保12年(1841年)6月15日には再び舟で江戸橋から木更津へ渡り、そこから陸路で富津へと向かっています(「慊堂日暦6」121〜122ページ)。18日には江戸へ戻ろうとしたものの、舟が出ずに22日まで滞在しています。帰る直前には浦賀奉行と会っていますが、この頃には浦賀奉行の職務に江戸湾の警備が加わっていたために、その巡視の過程で房総半島に渡っていたものの様です。この木更津・富津行きが、松崎慊堂にとって事実上最後の「旅」となりました。




迅速測図上の「石経山房跡」付近
東側を南北に流れる沢が「羽沢」で水田になっていた
※地図の「不透明度」を100%に切り替えると現在の地形図に切り替わる
(「今昔マップ on the web」より)
ところで、松崎慊堂は日記中で居宅について「荘」「山荘」などの表記を用いていました。と言っても江戸からさほど離れた場所にあった訳ではなく、現在の渋谷区広尾3丁目の辺りに広がっていた田畑の中に建てた荘で隠居がてら弟子に講義を行いつつ、桜田にあった児舎や主君などの元へも出掛けて講義をしていました。山荘の東側には「羽沢」が流れていて、そこには水田が開かれていました。江戸町奉行の支配下に当る地域でしたが、その外縁に近いこの付近は農村となっていた訳です。「羽沢」の地名は昭和22年の地形図でも確認出来ますが、その後は新番地表記の施行に伴って消滅した様です。

この農村も明治時代に入ると市街化が進み、現在の一帯はマンションなどが建ち並ぶ高級住宅街に様変わりして当時を偲ばせる様な景観の残る区画はありませんが、浅い谷地形の底にかつての羽沢に沿って「いもり川」と呼ぶ緑道が通っているのが、その名残と言えそうです。以前「はげいとう」のことを取り上げましたが、慊堂が時に様々な作物を植えたりしていたのも、こうした田畑の中であったということは、当時の景観を考える上では記憶に留めておくべきでしょう。
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この記事へのコメント

- たんめん老人 - 2015年11月13日 11:55:02

松崎慊堂については森鴎外の「安井夫人」で名前だけは記憶していました。大塩中斎と交流があったということで、ウィキペディアを調べてみたのですが、墓所が目黒の長泉院にあるというのでびっくりしました。武田泰淳の父親が住職をしていた寺で、泰淳・百合子夫妻の墓所もあるそうです(要確認とありました)。

Re: たんめん老人 さま - kanageohis1964 - 2015年11月13日 12:27:20

こんにちは。コメントありがとうございます。

森鷗外は「慊堂日暦」の中の「游豆日記」と呼ばれる伊豆行きの船旅の部分を筆写していますし、幕末のこうした学者や門下生の動向に少なからず関心を持っていた様ですね。彼の「伊沢蘭軒」の中でもしばしば慊堂の名前が登場しますね。

長泉院の松崎慊堂の墓表の拓本と翻刻が「慊堂日暦」6巻の末尾に付録として掲載されています。弟子たちがここを墓所と定めたことがこの文の末尾に刻まれています。ここを選んだ理由は定かではないですが、長泉院の位置を「迅速測図」で見るとやはり当時は畑の中にあった様ですから、生前の「山荘」に近い環境を選んだのかも知れませんね。

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