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【史料集】「新編相模国風土記稿」大住郡各村の街道の記述(その1)

「新編相模国風土記稿」の各村の記述に現れる街道の記述を、ここまで足柄上郡足柄下郡淘綾郡と一覧にしてきましたが、今回は大住郡の一覧を取り上げます。

足柄下郡では東海道の分だけでもかなりの分量になったので、それ以外の脇往還とは分けて提示しました。大住郡の場合、東海道の通過する距離が相対的に短く、沿道の村が宿場を含めて3つと少ないので、分量的には別立てにする意味はあまりなさそうですが、それ以外の街道の記述が多いこと、更に以下に述べる様な問題があって一覧をまとめるのに時間が掛かりそうなので、敢えて東海道の分だけを先に出してしまうことにしました。

なお、小田原宿の時と同様、平塚宿についても宿場の継立に関する記述は以前まとめたものに譲り、ここではそれ以外の記述に限定しました。

ここで名前が登場する村や宿場の位置関係をプロットしてみました。

東海道:大住郡中の各村の位置
東海道筋の大住郡中の各村の位置
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャし、リサイズ)


また、馬入の渡しの記述に登場する助郷の村々の位置関係を示すと次の様になります。定助郷については須賀・柳島以外は必ずしも相模川沿いの村が受け持っていた訳ではないので、飽くまでも人足を出していたのに対して、大通行の際には船が不足することになるので、必要に応じて船を出せる相模川沿いや海岸沿いの村々に応援を頼むことになっていたことがわかります。また、中にはかなり遠方からの出張を強いられることになった村が含まれていたことも窺い知ることが出来ると思います。厚木から馬入の渡しまでで約12km、鎌倉・材木座から浜伝いに馬入の渡しまでは20km近く隔たっています。

馬入の渡し:助郷の村々
馬入の渡しの助郷の村々、青が定助郷、緑は大通行時の加助郷の村々
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャし、合成の上でリサイズ、
「色別標高図」「明治期の低湿地」を合成)



「風土記稿」の説明
東海道馬入村四十三(二)東海道往還、村内を東西に貫く、道幅三間餘、爰に一里塚、高六尺、上に榎樹あり、東方は高座郡、茅ヶ崎村、西方は淘綾郡、大磯宿への一里塚なり、あり、又北方に、東海道古往還と稱する小徑あり、幅二間、往古は今の渡馬入渡、より、五町許、川上を渡りて、往來せしと云傳ふ、其頃の海道なり、按ずるに、此地舊くより、海道にして、相模川の係る所なれば、古書に、相模川を渡りしなど記し、或は相模川合戰とあるは、皆當所の事なるべし、故に今爰に載す、
※この「東海道古往還」について、具体的にどの道筋を指すのか、またこの言い伝えの是非等について不詳。
◯相模川 村の中程を流る、幅七十間餘、當村にては馬入【豆相記】馬生に作る、川とも唱ふ、…◯渡船場 相模川にあり、東海道の往還にて、馬入渡と唱ふ、渡幅七十間餘、是平水の時なり、常は船六艘渡船三、平田船二、御召船と稱する一を置、但一艘に水主三人宛なり、是は當村及定助鄕の村より出す 其村々は、高座郡、萩園・下町屋・今宿・松尾村等なり、又郡中須賀村、高座郡、柳嶋村も定掛りにして、獵船二艘を出せり、を置、往來を渡す、蓋通行多き時は、助鄕の村々高座郡、田端・一之宮・門澤橋・中新田・河原口等五村、當郡、戸田・大神・田村三村、愛甲郡、厚木村、鎌倉郡、材木座・坂之下二村等なり、但大神・田村の兩村は、五年づゝ、相替て勤むと云、より、若干の船を出せり、當所渡守へ、二十石の畑七町六畝五歩、地を賜ひ又寛文年中より、船頭等に月俸十口を賜ふ、川會所一宇あり、川年寄と稱し、渡船の事に與る者、爰に在て、其指揮をなす、
平塚新宿四十八(七)本宿の東に續けり、此地は慶安四年、八幡村を割きて本宿に加へられ、宿驛の事を勤めしめらる貢税等其地に係る事は、おのづから別にして、本宿には與らず、されば當時は八幡新宿或は新宿村と稱す、今の唱へに改めし、年代詳ならず按ずるに、正保國圖に、八幡新宿、寛文五年の水帳、及元祿國圖は、新宿村と載せ、元祿十六年の割付の書に、始て今の唱を記せり、…東海道は東西に通じ、其左右に民戸百十九内二十四戸は本宿に住す、連住す家並長四町五十七間、…海道中に市立り、歳首に用ゐる諸物を鬻ぐを以て、餝市と稱す、
◯小名 △西町 △東町
平塚宿四十八(七)東海道宿驛の一にして、江戸日本橋より十五里半、…此地宿驛となりし、始め詳ならざれど、古書に往々所見あれば舊く置れし事論なし、後世正保元祿の頃は平塚村と稱す正保元祿國圖其後宿と改めし年代詳ならず按ずるに、元文中の物に平塚町と記せしあり、…慶安四年當宿困窮なるに依て、平塚新宿を以て宿内に加へられ、役夫傳馬等は勿論、都て宿驛に與る事は本宿と同く勤めしめらる、…東海道往還は東西に貫く幅四間一尺より六間に至る、民戸二百八十九、多くは往還の左右に、連住す宿の家並、九町五間、本陣脇本陣及旅籠屋四十八二等あり、中十五、小三十三、あり、
◯小名 …△二十四軒町新宿の民廿四戸爰に移る、故に此唱あり、 △十八軒町二十四軒町より東方の民戸十八爰に移る、依て名とす、 △柳町 △西仲町 △東仲町
◯花水川 西境を流る幅十三間より十五間に至る、南原村にて新川と稱する川筋なり、宿の乾の方山下淘綾郡の屬、德延村等の境にて、金目川・玉川の兩新川落合ひ、是より花水川の名あり流末海に注す、…但此川もとは今の流より少く南にありしが、水流不便なる故、寶永六年堀改めらる、古の川蹟今に細流幅一二間、あり、古花水川と呼ぶ、末は丸池に入、夫より花水川に沃ぐ、土橋一、古花水川に架す長六間、

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は大住郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「大住郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。


さて、ここまでの一覧を作るに当っては、基本的に各郡図説の街道の記述を参照しながら、各村の記述に見える街道の記述を振り分けていくという手法で作業を進めました。街道内の順序を決める際には、各種地図を参照して位置関係を把握しながら、各村の四隣に現れる村の名称や記述を照合して判断していました。足柄下郡には一部「小田原道」の記述に図説中にない道筋を指すと考えられるものが若干含まれていましたが、それ以外は大筋で照合に問題を感じる点は少なかったと感じています。

これに対し、大住郡の各村の記述はかなり「混乱」している様に見えます。例えば図説中には全部で5本の「大山道」が示唆されていますが、各村の「大山道」の中にはその5本の何れにも当て嵌まらない道筋を指しているものが多数見つかります。また、図説中にはない名称の街道も多数見つかりますが、これらの中には「大山道」と別称されているものも含まれている様でもあり、これが更に照合を難しいものにしています。更に、明らかに村域を通過している筈の街道の記述が抜けているケースも幾つか存在しています。大住郡図説に掲示されている「今考定図」と照合しても、各村に記されている街道が図上には見当たらないものも少なくありません。

このため、大住郡の街道の照合には「風土記稿」以外の資料を参照しながら判断する必要がある箇所が多く、果たしてこれらをどこまで整理し切れるかが課題になってきます。また、ここまで見てきた各郡に対して大住郡の記述が何故この様な状態になっているのかも、「風土記稿」の記述の性格を考える上では重要な手掛かりになるのではないかと考えています。

次回は東海道以外の街道の一覧を掲げる予定ですが、もうしばらく時間が必要になるかも知れません。




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