
(雄山閣版より)
地域が狭いことと、南に海、北側に大磯丘陵が広がる地域で地形の特徴がはっきりしていることから、この地域の街道も、海岸沿いに東西に通過する東海道をハブとして、そこから数本の脇往還が北へと分岐する、比較的単純な交通網になっていると言えそうです。ただ、脇往還に関する記述は何れも簡略で、これだけでは当時の脇往還の様子を解き明かすには少々不足と言わざるを得ないでしょう。該当地域に更に史料がないか、探してみる必要がありそうです。
今回は東海道と大山道、更に土や道について、各村の位置をプロットした地図を作りました。大山道については以前「湘南軽便鉄道」を取り上げた際に登場しましたね。土屋道の道筋は「迅速測図」上に描かれた道筋から大住郡土屋村へと向かうものを見繕って仮に線を引いてみたもので、江戸時代当時のものを反映している保証はありませんが、沿道の村の位置関係は確認出来ると思います。この道については大住郡側に記述がなく、その位置付け等について更に検証が必要です。



街 道 | 村 | 卷 | 「風土記稿」の説明 |
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東海道 | 高麗寺村 | 四十一(三) | 東海道南北に貫く幅三間半、 ※花水川で平塚宿域と接しているのは大磯宿域だが、宿場町より手前で高麗寺村域を通過するので、ここでは高麗寺村を先に持って来た。 |
大磯宿 | 四十一(三) | 當所は東海道五十三驛の一なり、…戸數六百七十八、内本陣三、一は小名北本町、二は南本町にあり、旅籠屋八十五、此内大家の分を脇本陣に充ると云、又此内東小磯村に住する民數戸あり、往還の左右に連住す、當所北方は山にて、東南は海濱なり、按ずるに…故に屢風波の難あるに據り、悉く平家造りなり、板葺のさま、小田原葺に似て少しく異なり、鳥葺と名づく、其製鳥の羽を重ねたるに似たればなり、農隙には、其居の便宜に任せ、或は行旅の少憩に酒食を鬻ぎ、或は海濱の漁業を以て生產を資く、…東海道宿内中央を貫く、幅三間より五間に至る、土人傳へて今村の北方字駒留橋邊より凡二町許西に入り宿裏直道にて愛宕御林裏通り、東小磯妙大寺及び御嶽社前通り字池ノ下立野より西小磯村に通ずる野道あり、是古海道なりと云、是非詳ならず、 ◯小名 △山王町 △神明街 △南本町 △北本町 … ◯一里塚 宿の東、並木中にあり、方三間、高七尺、雙堠なり、北側には栴檀樹を植う、南側は古榎樹ありしが、寛政九年枯槁せりと云、西方國府本鄕、東方大住郡馬入村の里堠に續けり、 ◯化粧坂 東方並木の中間、小高き地所を云、 ◯花水川 北方にあり、幅二十四間、板橋長廿五間を架せり、… ◯古花水川 北界を流る、濱寄にて前川に合す、幅二間、土橋を架す、長六間、幅二間半、 ◯三澤川 西方王城山谷間より出東流して海に入、幅三間、 ◯鴫立川 東小磯の山間より出、南流して海に入、幅二間、海邊に近き所鴫立澤と云、是西行が秋夕の詠に因れる舊跡なりとぞ、古歌及事實は鴫立庵條に詳なり、故に此川名あり、 ※花水川や古花水川の位置を「北方」と記すのはやや違和感があるが、宿の四隣に「東、古花水川を隔て大住郡平塚宿」と記していることから、ここで記す橋がどちらも東海道中の橋を指していると判断して大過ない。 ◯石橋四 共に東海道往還の惡水堀に架せり、駒留橋・三味線橋・山王橋・境橋・筋違橋等の名あり、各長四尺餘の小橋なり、 | |
加宿、 東小磯村 | 四十一(三) | 東海道村南を通ず、幅本宿に同じ、 | |
西小磯村 | 四十一(三) | 東海道幅三間、中央を貫く、傳へ云、村内切通開けざる已前は、北の方宇賀神森の後通り、山に添て往還せしと云、今野道あり則大磯宿の條にも辨ぜし、古海道是なり、 ◯切通 國府本鄕村境にあり、幅三間許、卽東海道往還なり、 ◯切通川 村北の山水二條、會合して南流し、幅二間半、東海道往還、字切通を横ぎる、故に此の川名を得直に村内にて海に沃ぐ、 | |
國府本鄕村 | 四十(二) | 東海道村の中程を貫く、幅三間餘、當所卽立場なり、東方、大磯宿へ一里、西方、山西村の内梅澤へ一里の行程なり、 ◯切通東方、西小堺磯村、東海道の往還なり、高八尺、幅二間半 ◯一里塚 雙堠なり、東海道の左右に對す、塚上に各榎一株を植、東方、大磯宿・西方・山西村の里につゞけり、 ◯川二 一は本鄕川と唱へ村東を流れ、南方にて海に沃ぐ、幅五間許、東海道の係る所、土橋長十二間、を架す、中丸橋とも云、是は此邊の小名をもて呼べるなり、 | |
國府新宿村 | 四十(二) | 東海道東西に亘りて、村の中央を貫く、幅三間餘、 | |
二ノ宮村 | 四十(二) | 東海道往還、南方海瀕を通ず、幅三間、 ◯小名 △鹽海、志保美◯正保の改には別村とす、元祿の改には二ノ宮村の内と傍記して、村高も本村に合す、其後村内に併入して、全く小名となりし年代詳ならず、…永祿元年【海道宿次記】に酒勾・郡水・志保見・平塚云々とあり、…【東海道名所記】に鹽見、… ◯宇田川 村の中央を流れ、國府新宿に達す、幅三間許、中里村鹽海川の下流なり、田間の用水とsす、圦樋を設く、東海道の係る所、土橋長六間、を架す、宇田川土橋と稱す、舊くは鹽海橋と呼しとぞ、 | |
山西村 | 四十(二) | …古此地梅樹多し、故に名とすと云、…今或は舊名を存して、梅澤の里とも呼べり、…東海道南方を通ず、幅三間半より四間に至る、小名越地に立場あり、梅澤の立場と呼ぶ、茶屋軒を連ね、諸侯の憩息所等もありて、頗繁榮なり、 ◯一里塚 立場茶屋の東にあり、雙堠相對す、南側高一丈餘、榎樹を植、北側高一丈二尺餘、槻樹を植、東は郡中國府新宿、西は足柄下郡小八幡村の里堠に續く、 ◯坂四 一は押切坂、登九十間、二は共に梅澤坂、各登四十間許、と唱ふ、各海道中にあり、…◯押切川 西境を流れ、幅二十間許、海え入る、東海道の係る所土橋長十六間、を架す、…◯梅澤川 村内山間より湧出し、幅二間、南流して海に入る、東海道の係る所土橋長七間、を架せり、 | |
川勾村 | 四十(二) | 東海道南方を通ず、幅五間、 ◯小名 △押切、東海道係る所にして、足柄下郡羽根尾村入會地なり、 | |
波多野道 | 高麗寺村 | 四十一(三) | ※淘綾郡図説では波多野道が高麗寺村から分かれることが記されており、「今考定図」でも確認出来るが、本項には関連する記述は見当たらない。 |
山下村 | 四十一(三) | 南境に波多野道幅八尺、係れり、 | |
高根村 | 四十一(三) | 北境に波多野道係れり、幅八尺、 | |
萬田村 | 四十一(三) | 波多野道幅九尺、…村内に係れり、 | |
出繩村 | 四十一(三) | …波多野道東西に亘る、[伊勢原道共]各幅九尺、 | |
伊勢原道㈠ | 西小磯村 | 四十一(三) | …又[東海道より]北方に分るゝ岐路あり、伊勢原道と云、小名中分より分れて、萬田村に達す、 |
萬田村 | 四十一(三) | …伊勢原道幅六尺、村内に係れり、 | |
出繩村 | 四十一(三) | 伊勢原道南北を貫き…[波多野道共]各幅九尺、 | |
伊勢原道㈡ | 國府新宿村 | 四十(二) | 村東にて、北方に達する岐路あり、幅三尺許、伊勢原道と云、 |
生澤村 | 四十(二) | 伊勢原道村南より北東に達す 幅九尺、と云、 | |
寺坂村 | 四十(二) | 伊勢原道村の中央を通ず、幅九尺、艮方大住郡下吉澤村に達す、と云、 | |
大山道 | 二ノ宮村 | 四十(二) | 大山道東北に貫く幅九尺、 |
中里村 | 四十(二) | 大山道村の中央を通ず、幅九尺、 | |
一色村 | 四十(二) | 村南より西北に亘りて、大山道係れり、西隣足柄上郡井ノ口村に達す、幅九尺、 | |
土屋道 | 二ノ宮村 | 四十(二) | [大山道の]北道の中程に岐路あり、土屋道と呼べリ、 ◯坂 北方にあり、登五町許、土屋道係る所なり、 |
虫窪村 | 四十(二) | 村西に土屋道係れり幅六尺、 | |
黑岩村 | 四十(二) | 西北に亘りて土屋道係れり幅六尺、北方大住郡土屋村に達す、 | |
西ノ久保村 | 四十(二) | 土屋道村東を通ず、北方大住郡土屋村に達す、幅六尺、 | |
注: ※何れも雄山閣版より ※巻数中、括弧内は淘綾郡中の巻数。 ※街道名のリンクは地図へ。なお、別の記事に地図が掲載されている場合は別窓で開くが、この記事中に掲載されている場合は基本的に同一ウィンドウ内での移動となる。 ※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。 ※村の配列は、「淘綾郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。 ※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。 |
追記(2015/08/06):各街道へのリンクを入れ忘れていたので追加しました。
(2015/10/08):各街道の名称にそれぞれの地図へのリンクを埋め込みました。