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「玉匣両温泉路記」より箱根からの帰路(その1)

前回に続いて、今回も「玉匣両温泉路記」より、道筋の記述で気に掛かった箇所を取り上げてみます。今回取り上げるのは箱根からの帰路の足取りです。

自らの持病に対して湯治の効果が思った様に上がって来ないと感じた原正興一行は、予定を切り上げて端午の節句に箱根を後にすることにします。前日の記述では、熱海ではそこそこ効能があった様ですが、再び箱根関所を越えてまで熱海に戻る気にはならなかったと記しています。

光興ぬしの歯の痛つよく(おこ)れりとて、湯あみも怠りがちなり。おのれも目あしきは、ゆのふさわしからぬにこそあらめ。さ(ママ)とて、玉くしげふたたび熱海へゆかんには、関あれば心にまかせず。せんすべなければ、み暇給はりたる日数にはみたざれども、「明日はこの宿立出ん」とあるじにつげて、とまり居たる程の(つひえ)する也。あるじと、朝夕つかひたる女、それぞれ少しの白がねなど取らせ、「しのゝめには立出べし」とまうけ(準備)したり。

(「江戸温泉紀行」板坂 耀子編 1987年 平凡社東洋文庫472 190ページより、ルビも同書に従う、くの字点はひらがなに展開、以下「玉匣両温泉路記」引用の扱いについても同様)


その点では、休暇を多少余らせて帰路についたたことになりますから、さほど急ぐ必要はなかったのは確かでしょう。その分、復路を進む途上で往路では立ち寄れなかった史跡などを巡る件数が増える結果になったのではないかと思います。前回の記事で取り上げた「浦島寺」に復路途上に立ち寄ったのも、そうした事情が背景にありそうです。

翌朝まだ仄暗いうちに、一行は宮の下の温泉宿を出て麓へと下っていきます。その部分の記述は次の様になっています。

しらぬ山道たどりゆくに、谷ふかく木立しげりたれば、岩まゆく水の音のみして流れ見えず。(やうやう)日影みねにのぼれば、ふる巣にかへりき(来)なく(うぐひす)、こゑきこえて、春の名残をおもふ。うらめづらしく、あなたこなた打ながめつゝゆくに、大平台と云里過て、塔沢にいたる。温泉ありて賑ふ。宮城野より流れいづる谷川、少し打ひらけ、みなぎり落る(たきつ)せに柴橋わたせるさま、絵のごとし。此柴橋わたり、壱里下れば湯本の里也。近きころ火の災ありしと見えて、家も建揃はず。湯は入ごみも見ゆ。おなじ里のうちを弐丁程ゆけば、大路へ出づ。筥根は石をたゝみたる道にて、ひとも馬もなづむとき(聞)ゝしに、野づらの青石(しき)ならべたれば、ひとつ高ければ、ひとつはひき(低)く、うべ(諾)こそ(ゆき)なづむらめ。

挽物(ひきもの)の細工うる家にて休み、大路少し下れば、左に早雲寺あり。入て案内をたのみ、本堂へ行て見るに、古きさま也。三方折廻し、竜虎(りゅうこ)を大形にかきたり。(狩野)元信の筆なりといへども、名・印はなし。裏に北条五代のみ墓あり。其五代は、長氏俗称伊勢新九郎法名早雲、次は氏綱、氏康、氏政、氏直也。古きみはかにはあらず。「寛文十二年秋八月十五日、従五位下北条伊勢守平朝臣氏治」と、み墓の裏に彫付られたれば、この君の改め(たて)給ひしならん。

(同書192〜193ページより)


箱根七湯図会「塔の沢」
歌川広重「箱根七湯図会」より「塔の沢」
中央に早川を渡る土橋が描かれている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
旧暦天保10年の5月5日はグレゴリオ暦に直すと1839年6月15日、従って既に初夏と言って良い頃で、その様な季節にまだウグイスが囀るのが聞こえるのが珍しいと言う訳です。「宮城野より流れいづる谷川」とは早川のことを指し、宮の下から塔之沢までは早川の南側を進みますが、塔之沢で橋を渡って北側へと登ります。「新編相模国風土記稿」では

◯土橋 早川に架す、長十五間幅六尺、玉ノ緒橋と名付、近隣五村組合て修理す、

(卷之三十 足柄下郡卷之九 「塔之沢」の項、以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より)

と「土橋」であることを記していますが、正興の「柴橋」という表現からは、かなりか細い橋であったという印象が伝わってきます。

「玉匣両温泉路記」塔之沢→駒留橋の足取り
「玉匣両温泉路記」塔之沢→駒留橋の足取り(概要)
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

箱根七湯図会「湯もと」
「箱根七湯図会」より「湯もと」
箱根湯治場道から湯本へと下りる地点からの
遠景が描かれている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

湯本付近の箱根湯治場道のルート(推定)
現在の国道1号線よりも高い位置を進んでいた

この塔之沢から更に1里ほど下って湯本に着いたと書いていますが、湯本の温泉場である「湯場」は早川の南側にあり、湯場に入るには塔之沢で一旦渡った早川を再び渡ることになります。これに対して、箱根湯治場道はこの辺りでは一貫して早川の北側を進んでいました。因みに、現在の国道1号線は明治時代初期に馬車などの通行を意識して付け替えられた道が元になっており、湯本付近の道は国道1号線よりももう1本北側のより高い場所を進む道(現在の「箱根北原ミュージアム」前から箱根登山鉄道・箱根湯本駅の北側を過ぎて白石地蔵堂に至る道がその名残)でした。

従って、正興一行は道なりに進んで結果的に湯本を経由したのではなく、わざわざ湯治場道を逸れて湯本へと入ったことになります。湯場の茶屋で一服したあと、その先で「大路」つまり東海道へ合流して石畳道を早雲寺へと向かっていることから、恐らくこの日の出発時点から早雲寺へ参拝するつもりでいたのでしょう。早雲寺では狩野派の筆と伝えられる龍虎図や北条五代の墓を見て回っているものの、その落款や銘を確認するなどかなり冷静にその由緒を確認しています。

湯場から東海道へと向かうためには、その間で早川の支流である須雲川を渡らなければなりませんが、正興は湯本付近で川を2回渡っていることについては触れていません。また、湯治場道にしても東海道にしても、早川や須雲川沿いよりもかなり高い場所を進んでいますので、ここで少なからぬアップダウンを経ることになるのですが、その点についても正興の記述には盛り込まれていません。

湯場で正興らが立ち寄った茶屋が「挽物」つまり箱根細工を扱っていることを記しているものの、あまり興味を引かれた風ではないのは、既に熱海や宮の下で挽物細工を売りに来る売り子を散々見ていたからでしょう。
  • (注:熱海にて、四月)二十日 朝起て湯に入こと、きのふのごとし。遠州屋と云、(ひき)ものうる家の手代来りて、「江戸へのつと(土産)買給へ」といふ。見るに手遊(てあそび)(玩具)などには、めな(目馴)れざるもあれば、「帰るときにはもとめん」とちぎりて帰しぬ。
  • 廿一日 空晴たれども、北風吹て寒し。遠州屋来り、「例の挽物(ひきもの)の細工買給へ」と云。
  • (注:宮の下にて)廿七日 をやみなく雨ふる。午どき過るころ、神鳴、雨わきてつよし。挽物細工うる女、もちひ・くだものなどうる女、をりをりと(訪)ふばかりにて、けふもくれぬ。

(「江戸温泉紀行」153、161、181ページより)

箱根だけではなく、熱海でも挽物細工の製造販売を手掛けていたことが窺えます。さておき、雨で気分転換に出掛けるのもままならず、長期の滞在中に挽物をはじめ様々なものを入れ替わり立ち替わり持ち込んで来る売り子を相手し続けるのでは、しまいには疎ましくなって来るのも道理でしょう。

さて、早雲寺を出てからの記述は次の様に続きます。

こゝを出て少し下れば、清水僅ばかり流れいづる。大路の橋にわたせる青石に、名馬の(ひづめ)の跡と(いふ)あり。かたはらのふせ屋にて線香うり、「其石に手向(たむけ)せよ」と云。「手向すれば、足の(つかれ)なし」とて、線香(ふくろ)のまゝにてくゆらせ(ゆく)人あり。名馬は、頼朝公、佐々木高綱に給はりて、宇治川わたしたる、かの生唼(いけづき)のこと也。「この馬、阿州勝浦にて(たふれ)、化して石となる。これを俗に馬石と云」と、後太平記に見えたり。これらのことより、いひ伝へたるならん。

又少し下れば、流れ見つゝ来たる谷川の、こゝかしこより沢水落入(おちいり)、流れつよく、十杖あまりの板橋渡し、名も早川と(よぶ)。早川村はこの末にて、熱海の道也。

(「江戸温泉紀行」192〜193ページより)


「駒留橋」に頼朝の馬の蹄が残っているという言い伝えについては「風土記稿も」

○駒留橋 東海道中湯本村界の清水に架す。石橋なり、長三尺、幅二間、兩村の持、橋上に賴朝卿馬蹄の跡と云あり、旅人此橋に足痛の立願す、此餘二の小石橋あり、宮澤橋淸水橋と稱す、皆海道中の淸水に架す、

(卷之二十六 足柄下郡卷之五 「入生田村」の項より)

と記し、ここで祈願すれば旅で足を痛めることがなくなるとしており、正興の記述を裏付けていると言えます。

問題はその次の早川を渡る「十杖あまりの板橋」についての記述です。東海道が早川を渡るのは「三枚橋」ということになり、「風土記稿」では「長二十二間」と40m近い長さがあったことを記していますので、確かに「十杖あまり」、つまり30m以上という点ではそれに見合う長さと表現していると見て良いでしょう。しかし、上の地図に示した通り、この橋は「駒留橋」よりもかなり湯本寄りに位置しています。「風土記稿」は「駒留橋」の他にも小さな沢を渡る橋が2本入生田村にあったことを記しており、実際現在も北側から流れ下ってくる沢が今でも多数見られるのですが、何れも三枚橋を渡った先の様子の筈です。


明治31年発行地形図に見える早川橋
この頃になっても付近には他に早川に架かる橋が見当たらない
(「今昔マップ on the web」より)
正興は早川の流末が早川村に達しており、そこを熱海道が橋で越えていくことを記しています。実際、「風土記稿」にも

◯早川 村の北東界を延亘し、村内にて海に入、幅廿五間、土橋を架す、長六間、川涯に石にて築る堤防あり、高七八尺、長四百九十五間、

(卷之三十一 足柄下郡卷之十 「早川村」の項より)

と、早川に土橋が架かっていたことを記しています。三枚橋と早川村の土橋の間には、他に早川に架けられた主だった橋はこれといってありませんでした。その南側が石垣山で要害地となっていたため、一般の往来でそちらに渡る想定がなかったからでしょう。従って、正興の記した「十杖あまりの板橋」を三枚橋以外の橋と考えるのはかなり無理がありそうで、これも正興の取り違えと見立てるのが妥当な様です。湯本に入る辺りの道筋についてもその橋の位置やアップダウンについて記していないのも、あるいはこの辺りの記憶が曖昧であったことの表れなのかも知れません。

次回もう少し「玉匣両温泉路記」の復路を取り上げてみようと思います。




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↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

- 白猫 - 2015年06月18日 01:42:46

blogramの自動的にカテゴリを読み取る機能は、設定の所から
これは違うと思われるカテゴリのキーワードを「間違い成分ブロック」
からブロックして行くと、それ以外のキーワードを読み取って、
だんだん自分の思うようなものにカテゴライズされるようになっております。

既にご存知かもしれませんが、もしお困りだったらと思い、
コメントさせていただきました。

Re: 白猫 さま - kanageohis1964 - 2015年06月18日 05:46:30

こんにちは。コメントありがとうございます。

blogramのブロック機能は既に使っているのですが、一番問題なのはこちらの本来意図したカテゴリーがなかなか付かないことなんですよね。今のままだとブロックするカテゴリーが増え過ぎてしまうので、「当たらずといえども遠からず」なカテゴリーばかりが多く残ってしまっています。

例えばこちらの意図としては大半の記事が「神奈川県」のカテゴリーに入って欲しいのに、なかなかそこを拾ってくれません。その点は既にblogram側にも改善要望を送っている(「相模国」がキーワードになる筈なので、そこをチェックするようにして欲しい)のですが、実現しないですね…。

- http://hiroohiro.exblog.jp/ - 2015年06月18日 22:26:06

ご訪問ありがとうございます。
ホタルの写真ですが、二枚の写真を比較明合成しています。
大きな光は蛍をアップで撮影したものなんです。
歴史的な考証は素敵ですね!
ますますのご健勝お祈り申し上げます。

Re: Hirohiko-I さま - kanageohis1964 - 2015年06月19日 17:56:21

こんにちは。こちらまでお越しいただいてお返事ありがとうございます。

真ん中にボヤッと浮いたホタルの光が魅力的な写真でした。

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