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「玉匣両温泉路記」より生麦付近の道筋について

「新編相模国風土記稿」の産物の調査が思う様に進んでいないので、再び「玉匣両温泉路記(たまくしげふたついでゆみちのき)」(天保10年・1839年)から軽い話題を取り上げて間を繋ぎます。今回は、箱根へ向かう途上、原正興(はらまさおき)一行が東海道を逸れた箇所を検討します。

同年の4月14日(グレゴリオ暦:5月26日)に江戸を発った一行は、鶴見に差し掛かった所で東海道から外れた道筋を進んでいます。そのくだりは次の様に記されています。

此駅(注:川崎宿のこと)を出はなれて十杖(とつゑ)(丈)あまりの板橋あり。是を鶴見橋と云。渡れば鶴見村也。右のもちひ(餅)うる家にて休む〔よね鰻頭(まんぢう)と云。今坂餅の如し〕。(ここ)を出て六七丁(ゆき)、右の方に、子生山と(いふ)寺(東福寺)あり。観世音の像を祭る。江都(えど)よりも(ゆき)をがむ人多し。観国院君(土岐頼布)にも御帰依ありて、をりにはみ館へ(まねか)せ給ひ、ひと日、御かちより行せ給ひしときく。おのれも「ひとたび行見む」と思ひしことなればうれしく、其道をたどり行に、五六丁にして石の作り坂あり。二十杖あまりのぼりて観世音の堂あり。額は(さき)の白川少将楽翁君(松平定信)のみ筆也。坂の半、二王門の額は出雲国松江の殿(松平治郷か)のみ筆也。かゝるやごとなき御方おかたのみ筆あれば、仏のひかりもいやまして尊くこそおぼゆれ。堂の前より生麦(なまむぎ)の海づら、見わたしをかし。寺は麓にあり。

山を下り、畑の細道わけつゝゆけば、生麦の大路へいづ。弐丁程近しと云。生麦村、(みぎは)の方に浦嶋の墓有ときゝて尋れば、膝入る(ばかり)の小寺の裏に五輸の塔あり。浦嶋と云文字のみ見えて、年の名は見えず。又弐丁程行て、右の方に、浦嶋寺と云も有。霊亀のことなどしるしたるは、水江(みづのえ)の浦嶋子に似たり。万葉集に、浦嶋子の家の跡を見て読たる長哥あり。其浦嶋は、丹波国余社郡(よさごほり)(与謝郡)墨江(すみのえ)の人なれば、こゝのとは別人なるべけれども、亀のことなど似たれば、しる人にこそとはまほしけれ。

(「江戸温泉紀行」板坂 耀子編 1987年 平凡社東洋文庫472 134〜135ページより、ルビも同書に従う、くの字点はひらがなに展開、以下「玉匣両温泉路記」引用の扱いについても同様)


旧東海道と東福寺・浦島寺の位置関係
旧東海道と東福寺・浦島寺の位置関係
青線が旧東海道、浦島寺は現存しないので「浦島丘」の地を代わりにポイント
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

「五十三次名所図会」より川崎・神奈川
歌川広重「五十三次名所図会」より
川崎(右)・神奈川(左)
川崎で描かれているのは「鶴見川」で
鶴見橋の袂の茶屋が数軒見える
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
この部分は地図を参照して位置関係を確認した方が状況を理解しやすいでしょう。鶴見川を渡ったところで名物の「米饅頭」(「お江戸日本橋」の歌詞にも登場する)を売る茶屋で一服し、そこから「六七丁」つまり600〜700mほど行ったところで、かねてからその御利益を伝え聞いていた「子生山東福寺」へと逸れる右手の路を見つけて、この寺へと向かっています。

正興らが休憩した茶屋がどの辺にあったかは定かではありませんが、基本的には米饅頭を売る茶屋は鶴見橋の周辺にあったとされていますから、鶴見橋からの距離とさほど変わることはないでしょう。そうすると、鶴見橋から旧東海道600〜700mほど進んだ辺りを地図上で計測して探すと、現在の鶴見神社(江戸時代には杉山明神・牛頭天王相殿)の辺りで左に曲がる地点よりもう少し先に進んだ辺りに来ます。ここから山側へと逸れる道筋を進んだことになりそうです。

「子生山東福寺」と「観音堂」について、「新編武蔵風土記稿」では「鶴見村」の項(卷之六十六 橘樹郡之九)の中で次の様に記しています。

天王院 村内海道の右がはにあり、天台宗にて同郡駒林村金藏院末光瑞山正法寺と號す、祐山といひし僧文祿三年當寺を起立し、寛永九年八月二十八日寂すと、… ◯觀音堂村の西の方小高き所あり、是海道より六丁餘も入れり如意輪觀音にて坐像二尺ばかりなり、又腹籠りに一寸八分の觀音あり、是は春日の作と云、堂は五間四方内陣の額に天地感興應とありて、白川少將定信の筆なり、大悲閣の額は備前少將治政の書なり、堂より前には丈餘の石階あり、夫を下りて前に仁王門あり、仁王はたけ一丈許にて運慶の作と云傳へたり、子安山の額あり是は出雲少將治郷書なり、此觀音は江戸より參詣のものもあり信仰の人少なからず、此堂地は古へ生麥村にありしが、その頃鶴見の村内に寺院なきゆへに此へゆつりしよし、故にこの地は今生麥村の内につゝまれて有と土人は傳へたり、緣起一卷あり、其載る所悉く信用すべからざれば此にとらず、 別當東福寺仁王門を入て左の方に木戸門あり、是を入て正面に客殿をたつ三間に八間南向なり子生山と號す、神奈川宿金藏院の末山新義眞言宗なり、開山は醍醐勝覺僧と云、堀川院の御宇寛治年中當寺を草創して、大治四年四月朔日寂せり、鐘の銘には大治年中の草創といへり、その後住持歴代等詳ならず、遙の後賢淳と云僧住せり、此人は慶長五年正月二十一日寂せりと云、是より以來連綿と住僧續けり、此賢淳當寺を中興せしにや、

(以下「新編武蔵風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より、…は中略、なお一部判読の困難な文字を「国立国会図書館デジタルコレクション」にて補充)



現在の東福寺仁王門(ストリートビュー
この記述に従うと、どちらかと言うと「東福寺」よりも「観音堂」の方が江戸からの参拝客を集めていた様です。ただ、扁額や仁王像、石段についての記述は正興の記すところとほぼ合っています。

地形図で確認出来る通り、現在の東福寺は海岸段丘の上にあり、この様な地形であれば確かに正興の記す通り眺望は比較的良好であっただろうと思われます。しかし、現在は周辺にはマンションなどの大規模な建物が建ち並んでおり、更に生麦付近の海は大きく埋め立てられて海岸線が大幅に遠ざかりました。従って現在はこの地からの眺望はほぼ失われたと言って良いでしょう。


さて、気になるのは正興が寺を出て畑の中の小道を経て再び東海道に合流する際に辿った道が、「弐丁程」つまり200mほど近道と言っていることです。正興の一行は果たしてどの辺りの道を進んだのでしょうか。

正興は生麦村の辺りで東海道に復帰し、そこから程なくして「浦島の墓」があったと記しています。しかし、それに近いものを「風土記稿」から探すと恐らく

◯西蓮寺街道の往還にあり、淨土宗にて村内大安寺の末、… 浦島塚境内にあり、昔はよほどの大塚なりしが、此邊は沙地なれば年を追て缺くづれ、今は凡二畝許の塚なり、其上に五輪の石塔を建て浦島塚と題せり、

(卷之六十七 橘樹郡之十 「東子安村 西子安村 新宿村」の項より)

この「西蓮寺」(明治時代初期に廃寺)の「浦島塚」ということになりそうです。実際、塚の上に五輪塔があったとする点は合っていますし、「江戸名所図会」の「浦島塚」の後背に海が描かれている点と、正興が「汀の方に」と書く点も合致します。しかし、この西蓮寺があったのは「風土記稿」の記述では子安の地ということになり、その点は正興の記述と合いません。
江戸名所図会五「浦島塚」
「江戸名所図会」より「浦島塚」の図
塚の後背は海になっている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
江戸名所図会五「観福寿寺」
「江戸名所図会」より「観福寿寺」の図
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

また、その先約200mほど進んだ所から右手に入った所には「浦島寺」があったとしています。これは当時の「観福寺(または観福寿寺)」を指しており、「風土記稿」では

觀福寺 西側なり、大門前數町の間は年貢地なり、淨土宗宿内慶運寺末、歸國山浦島院と號す、昔は眞言宗にて檜尾僧都の開闢なりと云、されどそれはいとふるきことなれば詳なる故を傳へず、後白旗上人中興せしよりこのかた今の宗門に改めしとなり、當寺を浦島寺といひて緣記あり、その文にかの丹波國與佐郡水の江の浦島が子のことを引て、さまざまの奇怪をしるせり、ことに玉手箱など云もの今寺寶とせりいよいようけがたきことなり、

(卷之七十 橘樹郡之十三 「神奈川宿 並木町」の項より)

と、神奈川宿の中の記述になっています。この辺りはその位置関係について、正興の記憶違いの部分もあったのかも知れません。


明治39年測図の地形図より「東福寺」付近
(「今昔マップ on the web」より)
その様な訳で、正興の記述には位置関係の点で多少疑問もあるものの、恐らく一行は生麦村の西端に近い辺りか、更にその先の子安村の域内に入った辺りで東海道に合流したものと考えられます。実際、旧東海道の道筋と東福寺の位置関係からは、鶴見付近から子安にかけてほぼ一直線に進めば多少なりとも短い距離で通り抜けることが可能である様に見えます。しかしながら、「迅速測図」や明治期の地形図を見ても、その様なショートカットになりそうな道筋はこれといって見当たりません。「迅速測図」の頃には既に鉄道が通されていたことを考慮しても、東福寺の乗る丘陵地と東海道の間は引き続き畑になっており、特段の区画整理が行われた様にも見えないことから、道筋が消えてしまう様な要因が特に見えない中で、正興一行が進んだ道筋が果たしてどれなのか、特定するのは難しそうです。

因みに、現在鶴見駅前に広大な境内を擁する総持寺がこの地に移転してくるのは明治44年(1911年)のことですから、江戸時代に正興が東福寺に向かう途上で辿った道筋の一部は、恐らくは現在は総持寺の境内の中であろうと思われます。

なお、往路では浦島寺に立ち寄らなかった正興一行は、復路で改めてこの寺を訪れています。

Keiunji -03.jpg
慶運寺前。「うらしま寺」の字が見える
("Keiunji -03"
by Aimaimyi
- 投稿者自身による作品.
Licensed under
CC 表示-継承 3.0
via ウィキメディア・コモンズ.)

大路は雨のなごり(注:前日に雨が降った)も見えず(かはき)たれば、足もすゝみ、神奈川の駅を過て、生麦(なまむぎ)村にかゝる。「行とき見残したる浦嶋寺を見ん」と、左へ三丁程行。すこし山をのばりて観世音の堂あり。浦嶋のゆゑよし、きかまほしけれども、堂守だに見えざれば、空しく爰をいでゝ鶴見にいたり、もちひうる家にて休み、川崎の駅につきしは入相(いりあひ)近きころ也。

(「江戸温泉紀行」227〜228ページより)


やはり正興はこの「浦島寺」が生麦村のうちにあると認識していた様です。境内に浦島伝説についての案内を頼める人が誰もいなかったというのは、この頃にはあまり賑わっていなかったということなのでしょうか。

この寺は幕末の騒擾の中で焼け落ちてしまい、残った浦島関連の宝物は、本末関係にあったよしみからか慶運寺に引き取られて現在に至ります。慶運寺が現在「浦島寺」と呼ばれているのは、その様な経緯によるものです。




追記(2015/06/16):観福寿寺の跡地ですが、その後明治44年に足柄下郡荻窪村にあった蓮法寺がこの地に移転して現在に至ります。蓮法寺境内には今も浦島父子供養塔が残されています。ただ、観福寿寺の境内が全て蓮法寺に引き継がれたものかは未確認です。
(2016/01/25):ストリートビューを貼り直しました。
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この記事へのコメント

亀の石塔 - 東屋梢風 - 2015年06月14日 06:26:16

以前、博物館などで東海道の道中双六を見て、「神奈川」のコマに名物「亀の甲せんべい」とあるのを不思議に思っていました。
その後、周麿(河鍋暁斎)の「東海道名所之内神奈川浦島古跡(御上洛錦繪)」にて、写真の石塔がかなり大きく誇張され描かれているのを見ました。そこでようやく、このカメを象った土産物が考案されたらしいと合点がいった次第です。
石塔を背負うのはカメに似た「贔屓」という神獣、というケースも多いものの、こちらは浦島伝説にちなんでか、カメそのものに見えますね。
亀の甲せんべいは、現在も地元で販売されているそうですが、江戸期とまったく同じ商品かどうかは存じません。

Re: 東屋梢風 さま - kanageohis1964 - 2015年06月14日 09:40:30

こんにちは。毎度コメントありがとうございます。

確かに慶運寺入口の石碑に贔屓があしらわれているのは、多少なりとも浦島伝説を意識しているのかも知れませんね。
「亀の甲せんべい」は江戸時代の製法を受け継いできた「浦志滿」という店がかつてあったのですが、残念ながら10年ほど前に閉店してしまったので、現在残っているものは直接の関係はない様です。

- 土佐けん - 2015年06月14日 14:52:31

本日はご訪問・コメントを頂き、ありがとうございました。
これからも頑張りますので、よろしくお願いします。

ポチッ全部!

Re: 土佐けん さま - kanageohis1964 - 2015年06月14日 17:32:43

こんにちは。こちらまでお越しいただいてコメントお返しありがとうございます。

こちらこそ、今後ともよろしくおねがいいたします。

こんにちは - ryoi - 2015年06月15日 13:31:52

今日は「日本産蛾類・・・」の情報をいただき有難うございました。
ずっと前ですが、古地図に興味を持ってコピー品ですが何枚かそれなりの値段で購入しました事があります。
文字があまりにも小さすぎて読めないのがほとんどでしたが、しばし昔の風景を想像しながら見たものです。
神奈川情報は様々な分野の人たちが参加しているようなので、私も加わって見ました。

Re: ryoi さま - kanageohis1964 - 2015年06月15日 18:05:07

こんにちは。コメントお返しありがとうございます。

最近「日本産蛾類…」のサイトは御無沙汰していましたが、ブログにお書きになっていたことを見て気になってチェックしたところ、サーバーダウンのツイートを見つけた次第です。

私も「迅速測図」の原図を川崎の地名資料室で見た際に、意外に字が小さく判読に難儀した覚えがあります。今は「歴史的農業環境閲覧システム」で拡大して見ることが出来るので、その点では判読が楽ですね。

今後ともよろしくおねがいいたします。

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