産物の時にも各郡毎の記述レベルの違いが見えていましたが、街道ではその辺りが一層明確に現れたと思います。比較的詳細に郡内の道筋をまとめているのは足柄上郡・足柄下郡・淘綾郡・大住郡ということになるでしょう。特に足柄下郡の記述では、東海道を「海道」または「大路」、熱海往還と甲州道の2本を「脇往還」、それ以外の道を「小往還」と3段階に区別しており、この区分は大住郡も共通しています。足柄上郡には東海道はありませんが、「脇往還」と「小往還」に分けており、その点では足柄上郡の記述と統一感があります。淘綾郡も東海道と「小往還」に分かれていますので、事実上「脇往還」に相当する道がないことを示しています。
これに対し、高座郡と鎌倉郡では事実上「小往還」に値すると思われる道筋が取り上げられておらず、その分郡域の広さの割には挙げられている街道の本数が少なくなっています。愛甲郡も「脇往還」が9本数え上げられていますが、こちらは仔細に見ると道筋の重複があるなどあまり整理されている感じがありません。三浦郡も挙げられている街道の本数が僅かに3本と少なくなっており、津久井県では3本のうち2本目の道筋は一応「津久井道」に該当するとしたものの、志田峠から小淵村に至るには根小屋村から寸沢嵐・勝瀬を経て甲州街道に合流する道筋になると思われ、部分的に「信玄道」と被ってしまいます。
この状況は、首巻に掲げられた各郡の稿の成立順とかなり相関している様に見えます。
足柄上郡と同じ時期に成立した愛甲郡は担当者が充分に体裁を整えられなかったのかも知れませんが、そこを除けば比較的記述が整理されている各郡は後年に成立していることがわかります。一高座郡は、天保三年、三浦郡は、同五年に稿成る、此二編は、事の始にして、體例未定らず、故に十一年、再刪定を加ふ、足柄下郡は,七年に成り、足柄上郡、愛甲郡は、十年、大住郡、淘綾郡は、十一年に稿成る、鎌倉郡は、其前、武州稿編の時、捜索の事ありて、重て其學に及ばざるが故、他郡に比すれば、甚疎なり、抑鎌倉は、古人撰述の書もあれば煩蕪を省て、簡易に從ふのみ、
一津久井縣は、愛甲、高座の二郡より、分割して此唱あり、其地は千人頭、原半左衛門胤廣、別に承はりて撰定し、天保七年呈進す、故に其體例異同あり、
(首巻・凡例より、雄山閣版より引用)
出来ればこれらの道筋を、各村々の記述も引用しつつ地図上にひと通り引いてみればいいのですが、それぞれの道筋を特定するのは膨大な作業になりますので、こちらは追々出来ればと思っています。
郡 巻 街道 「風土記稿」の説明 足柄上郡 十二 甲州道 脇往還二條を通す、一は小田原宿より、甲駿信三國への往來にて甲州道と稱す按ずるに、足柄下郡早川村、海藏寺藏、永祿十一年七月、北條氏より傳馬の事を下知せし文書に、宛所小田原より甲府迄、關本透宿中とあるは、此道の事なり、透の字は卽通の字の義なるべし、足柄下郡北ノ久保村より郡中沼田村に入、矢倉澤村より駿州駿東郡竹下村に達す、道程四里許、幅二間、又千津島村の傳に、往昔は足柄下郡國府津村より西大友村に至り、夫より郡中下大井・金子・金手等の村を經て、十文字を渡り、吉田島・延澤・千津島・怒田・苅野等の村々に掛り、矢倉澤御關所前にて、今の道に合す、是を甲州古道と云、 矢倉澤道 一は矢倉澤道なり、大住郡千村より四十八瀨を越え、郡中松田惣領に達し、四十八瀨水溢の時は、大住郡澁澤村より本郡篠窪村に入、神山村にて本道に合す、此道を富士往來とも云、十文字渡を越え、和田河原村に至て、甲州道に合す、行程一里三十町許、幅九尺より一丈に至る、 谷ヶ村御關所道 小往還十條、一は谷ヶ村御關所道にて、甲州道弘西寺村小名向田より別れ、怒田村に至り、字金堀塚にて岐路となり、西行して御關所に至る、行程三里餘にして、末は駿州駿東郡小山村に達す、幅八九尺、 [川村御關所道] 一は前路怒田村字金堀塚より分れ、北行して川村御關所に達し、是も末は駿州駿東郡生土村に達す、行程四里許、幅四五尺、 仙石原御關所道 一は仙石原御關所道と唱へ、足柄下郡底倉村より、郡中宮城野村に移り、御關開所に至る、行程二里餘、末は駿州駿東郡深澤村に達す、幅四五尺、 曾我道 一は曾我道と云、上大井村小田原道より別れ、上曾我村より足柄下郡曾我岸村に達す、行程二十六町、幅二間、 酒匂道 一は酒匂道なり、下大井村小田原道字前畑より別れて、直に足柄下郡西大友村に達す、 富士道 一は富士道と唱へ、足柄下郡小臺村より郡中岩原・塚原二村の界に達し、岩原村小名坂下にて、直に甲州道に合す、 大山道
1・2・3大山道三條あり。一は足柄下郡曾我別所村より、郡中田中村に入、井ノロ村より大住郡大竹村に達す、行程一里三十町餘、幅二間、是を六本松通大山道と云、文明年間聖護院准后道興、遊歴ありし路次と見ゆ、 一は足柄下郡小竹村より郡中遠藤村に入、久所村にて前路に合す、行程二十一町餘、幅九尺より二間に至る、是を羽根尾通大山道と云、羽根尾は下郡の屬、 一は淘綾郡一色村より郡中井ノロ村に入、直に前路に合す、 小田原道 一は小田原道と唱へ、大住郡澁澤村より郡中篠窪村に入、末は下大井村より[足柄下郡]西大友村に達す、 足柄下郡 二十二 東海道 海道一條、東海道の大路なり、東方淘綾郡河勾村より、郡内羽根尾村に入、海岸を通じ板橋村をすぎ、風祭村より箱根山中に入、西方箱根宿に至り、豆州君澤郡山中新田に達す、道程六里三拾三町四十間四尺郡内を通ずる道程なり、下皆是に倣へ、道幅五間、山間に至ては二間、或は四間、 熱海往還 脇往還二條、一は熱海往還なり、或は伊豆往來とも云、小田原山角町にて、東海道の大路より南に分れ、早川村より海岸を通じ、土肥門川村に至て、豆州加茂郡走湯山領に達す、道程四里四十四町九間、道幅一間より三間に至る、 甲州道 一は甲州道なり、是も小田原宿高梨町にて、東海道より北に分れ、荻窪村に出北行して北ノ久保村に至り、足柄上郡沼田村に達す、道程一里十五町許、道幅二間、或は三間半に至る、 箱根溫泉道 この餘小往還九條あり、一は箱根溫泉道なり、湯本村三枝橋邊にて、東海道より西に分れ、行こと七町にして,湯本溫泉に至り、十四町にして、塔ノ澤溫泉に至る、塔ノ澤より一里十三町の行程を歴て、底倉溫泉に達せり、宮ノ下・堂ヶ島二湯も同村の屬なり、同村の西にて岐路となり、一は木賀溫泉足柄上郡宮城野村の屬、に達す、この道程二十二町、 一は蘆ノ湯に達す、其行程一里六町、蘆ノ湯より元賽河原元筥根の屬、を歴、東海道權現坂へ出づ、箱根宿の屬、其道程二十八町、道幅總て五尺より二間に至る、 大山道
1・2一は大山道なり、此路二條あり、其一條は多古村にて、甲州道より東へ分れ、酒匂川を渡り、飯泉渡と云、東行して曾我別所村に至り、山彦山字六本松と云、を登り、足柄上郡田中村に達す、これ小田原邊より、大住郡大山への道なり、道程一里二十九町半、道幅九尺より二間半に至、 其一條は前川村小名向原にて、東海道より北に入、中村鄕の村々をすぎ、小竹村より足柄上郡遠藤村に達す、道程凡三十町道幅六七尺、 小田原道 一は小田原道なり、足柄上郡下大井村より、郡内西大友村に入、桑原・成田の兩村をすぎ、飯泉村觀音門前に至て、大山道に合す、此道程凡一里道幅九尺、是より大山道を西行して、末は小田原に達す、 酒匂道 一は酒匂道なり、是も上郡下大井村より、郡内西大友村に入酒匂堰涯に添ひ、東海道酒匂村に達す、道程一里八町、幅六尺より二間に至る、 曾我道 一は曾我道なり、東海道國府津村より北に折、末は曾我岸村に至て足柄上郡上曾我村に達す、道程一里十町許、道幅酒匂道に同じ、 富士道 一は富士道なり、是も國府津村西堺にて、東海道より西北に入、桑原村にて酒匂川を渉り、末は小臺村に至り、足柄上郡岩原・塚二村の界に達す、卽上郡關本道了權現に詣する捷徑にして、末は足柄越して富嶽に達す、道程一里二十六町許、道幅同前、 觀音順禮道 一は觀音順禮道なり、國府津村西にて富士道より分れ、末は飯泉村觀首門前に至り、大山道に合す、道程十八町二十間餘、道幅五尺より七尺に至る、 淘綾郡 三十九 東海道 東海道往還、海邊の諸村を歷て通ず、道程二里二十町餘、郡中を通ずる道程なり、下皆是に倣へ、其地域は、高麗寺・大磯・東小磯・西小磯・國府本鄕・國府新宿・二ノ宮・山西・川勾等の村に係れり、道幅三間より五間に至る、[大住郡へ][足柄下郡へ] 波多野道 小往還五條、一は高麗寺村より北に入り、以下の往來、何れも海道より北に分折せり、山下・高根、二村の堺を通じ、萬田村を經、出繩村に入、西折して、大住郡下吉澤村に達す、行程三十二町半餘、幅八九尺、波多野道と唱ふ、 伊勢原道
1・2一は西小磯村よりいり、萬田村を經、出繩村にて前路に合し、北折して大住郡根坂間村に達し、行程三十町餘、幅六尺許、 一は國府新宿より分れ、生澤・寺坂、二村を經、是も大住郡下吉澤村に達す、行程三十町餘、幅八尺許、共に伊勢原道と云、 大山道 一はニノ宮村より分れ、中里・一色、の二村を通じ、足柄上郡、井ノロ村に出、行程一里餘、幅六尺、大山道と云り、或は波多野道とも云ふ、 [土屋道] 一はニノ宮村前路より分れ、虫窪村を歷て、黑岩・西ノ久保、二村の境を通じ、大住郡、土屋村に達す、行程一里許、幅六尺、
此餘小徑岐路等あれど略す、大住郡 四十二 東海道 海道一條係れり、東海道の大路にして、東方高座郡中島村より、相模川を渡り、郡内馬入村に入、平塚宿を経て、淘綾郡大磯宿に達す、道程三十一町五十間、郡中を經る所の道程なり、下皆同じ、道幅三間より五間に至る、 矢倉澤往來 又脇往還一條係る、矢倉澤往來なり、愛甲郡厚木村より郡中に入、上下岡田、酒井の三村を通じ、又愛甲郡愛甲村に達し、再び郡中石田村に入り、夫より十五村を經て、千村にいたり、足柄上郡松田總領に達す、道程六里二十三町餘、幅二間、 大山道 小往還八條あり、其内五は大山道にして、一は高座郡一之宮村より、相模川を渡り、郡内田村に入り、九村を經て、大山に達す、通程三里許、幅二間、是を田村通大山道と云、 一は高座郡門澤橋村より、是も相模川を波りて、郡内戸田村に入、六村を通じ、上糟屋村小名石藏に至て、前の大山道に合す、道程一里三十二町許、幅二間、是を柏尾通大山道と唱ふ、 一は愛甲郡岡津古久村より、郡内西富岡村に入、上槽屋村にて前路に合す、 一は足柄上郡篠窪村より、郡中澁澤村に入、四村を經、蓑毛村より大山に達す、道程三里十九町、幅九尺より二間に至る、此道郡中にては、小田原通行道と呼べり、 一は足柄上郡井ノ口村より、郡中大竹村に入、三村を經、寺山村にて、岐路となり、右折して蓑毛村に係るは、道程二里十町餘、幅九尺より二間、左折して坂本村に係るは、道程三里餘、幅九尺、此道道興准后遊歴ありし道なりと云、 波多野道 一は波多野道なり、淘綾郡出繩・寺坂二村の堺より、本郡下吉澤村に入り、四村を過て、曾屋村に達す、道程二里十二町許、幅九尺、 [厚木八王子道] 一は平塚宿邊より、津久井縣及び甲州への往來なり、東海道の大路、平塚新宿、より北に分れ、八幡村に入、夫より數村を経、上下岡田村境より、愛甲郡厚木村に達す、道程三里餘なり、幅二間、
此餘の小徑岐路等は爰に略せり、愛甲郡 五十四 矢倉沢往來 當郡古より官道に値りし地にあらずと見ゆ、されば【倭名鈔】にも郡中に驛家の名見えず、今も脇往選凡九條を通ず、一は矢倉澤往來と唱へ、郡の東南界に少しく係れり、高座郡河原口村より相模川を渡て厚木村に入、直に大住郡岡田村に達し、洒井村より又郡内愛甲村に入、再び大住郡石田村に通ず、道程合て三十町十七間餘郡内を通ずる道程なり下皆是に倣へ道幅二間 八王子道(1) 一は八王子道東海道平塚邊より武州八王子への道なり、大住郡岡田村より厚木村に入、郡の東端を通じ、上依智村より相模川の對岸高座郡當麻村に達す、道程三里許道幅九尺より二間に及ぶ、 津久井道 一は津久井道なり、八王子道の内中依智村にて岐路となり、三增峠を過て縣内長竹村に達す、道程三里許道幅九尺より二間半に至る、俗に信玄道と呼り、永祿十二年武田信玄小田原より歸陣の時此道に係れり【小田原記】【甲陽軍鑑】等に所見あり、事は厚木村に詳なり、故に此稱呼あり 八王子道(2) 又此道の内、角田村にて艮方に分るゝ一路あり、是も八王子道と唱ふ、直に相模川を渉りて高座郡田名村に達す道程十五町道幅二間 大山道 一は大山道なり武州八王子よりの道なり、上依知村にて八王子道より南に分れ、川入・荻野邊を通じ、岡津古久村より大住西富岡村に達す、道程四里許道幅八尺より二間に至る、 甲州道
1・2一は甲州道なり、或は津久井道とも云、二條あり、其一は東海道平塚邊よりの道なり、大住郡岡田村より厚木村に入、妻田・荻野等を過ぎ、半原村より津久井縣長竹村に達す、道程凡四里半道幅九尺より二間半に至る、(大住郡側の道筋は厚木八王子道と重複していると考えられる) 其一は東海道大磯邊より大住郡伊勢原村に係り、同郡日向村より七澤村に入、郡の中程を通じて、津久井縣鳥屋村に達す、道程四里餘道幅九尺より二間に至る、 ※大住郡側の道筋は該当するものが見当たらない。愛甲郡の国絵図では七澤村から大住郡日向村方面に出て行く道筋が、岡津古久村から西富岡村への大山道の西側に見えているが、大住郡側の国絵図では対応する道筋が確認出来ない
丹澤山道 一は丹澤山道なり、厚木村より飯山等を經て煤ヶ谷村より西方山中に入道程四里餘道幅九尺或は二間 巡見道 一は巡見道國中巡見使通行の道なり、と云、大住郡石田村より愛甲村に入、下荻野村に至て甲州道に合し、田代村に至て又岐路となり、三增村にて津久井道に合す道程凡五里道幅二間(大住郡側の道筋は矢倉沢往来と重複していると考えられる) 高座郡 五十九 東海道 往還東海道の一條、南方鎌倉郡藤澤宿、大鋸町より境川を渡り郡内藤澤宿大久保町に入り、數村を經て中島村に至り相模川を越え大住郡馬入村に達す、 大山道
1・2脇往還六條を通す、一は大山道と唱へ二條を通す、其一は郡中辻堂村、東海道より右折し一之宮村に至り、夫より大住郡田村に達す、 其一は柏尾通り大山道と唱へ鎌倉郡上飯田村より千束村に入り、用田村に通じ夫より門澤橋村に至り大住郡戸田村に達す、 八王子道
1・2一は八王子道或は瀧山道とも唱へ二條あり、其一は郡内藤澤宿より西俣野長後等の十一村を經て橋本村に至り、境川を渡り武州多磨郡八王子へ達す、 其一は同所坂戸町より用田・座間宿・當麻三村の驛郵を経て橋本村に至り、前路に合す、 中原道 一は鎌倉郡瀨谷村より郡内上和田村に入り、福田本蓼川等の数數村を経て一之宮村に至り、大山道に合し大住郡田村へ達す、是を中原道と云ふ、(大住郡側の道筋は田村通大山道と合流している) 矢倉澤道 一は矢倉澤道にて武州多磨郡鶴間村より當郡下鶴間村に入り國分村に至り夫より河原口村より愛甲郡厚木村に達す、 鎌倉郡 六十九 東海道 海道一條、東海道の大路にて、艮方武州橘樹郡保土ヶ谷宿より、當國本郡平戸・品野二村の境に入り數村平戸・品野・前山田・上柏尾・下柏尾・吉田町・矢部町・戸塚宿・汲澤・深谷・原宿・東俣野・山谷新田・西村、を經て、坤方高座郡藤澤宿に達す、道程三里五町許郡内を通ずる道程なり、以下皆是に倣ふ、幅三間より五間に及ぶ、 鎌倉道
1・2
3・4
4脇・5小往還七條あり、五は鎌倉道と唱へ鶴岡八幡宮へ詣ずる巡路を云へり、其一は東海道藤澤大鋸町より東へ分れ、柄澤村に達し、夫より渡内等の村々を經て山之内村に至る、道程一里半餘幅五尺より二間に及ぶ、是を藤澤宿邊よりの鎌倉道と云ふ、 其一は江ノ島道と唱へ、是も大鋸町より東へ折れ、彌勒寺村に達し、川名・片瀨二村を過ぎ江ノ島に至る道程一里半許幅凡三間 其一は武州久良岐郡別所村より、當國本郡永谷上村に入り、飯島・笠間・小袋谷三村を經て臺村に至り、前の鎌倉道に合す、道程二里餘幅二間許 其一は東海道戸塚宿より東へ分れ、上倉田村より下倉田・長沼・飯島三村を過ぎ笠間村に至り、前路に合す此道筋、笠間村より分れ、巽方公田村に達し、鍛冶谷村、上之村等にて岐路となり、末は武州久良岐郡日野・峯・氷取澤・鎌利屋四村に達する小徑あり、 其一は武州久良岐郡大戸村より、當郡峠村に入り、朝比奈切通より、鎌倉に達す、道程二十町許、幅六尺許、武州金澤より鎌倉への道なり、故に金澤道と稱す、 大山道 大山道一條、東海道下柏尾村より南折し、上矢部等の村々を經て、上飯田村より高座郡千束村に達す幅二間、是を柏尾通り、大山道と稱す、柏尾村より大山まで、道程七里と云ふ、 中原道 中原道一條、武州都筑郡川井村より當國に入り、本郡の北隅を斜通し、高座郡上和田村に達す、道程二十八町許幅凡三間許、 三浦郡 百七 [金沢・浦賀・三崎道] 往還二條あり、共に海岸に傍て通ず、東の一條は武州久良岐郡より入り郡の艮方を通じて浦賀に至り、そこより又郡の巽方を過て三崎に至る幅凡一間餘、 [鎌倉・三崎道] 西の一條は當國鎌倉郡より入り海岸を通じ、南方菊名村に至りて前の道に合し是も三崎に達す幅凡一丈(鎌倉郡側に該当する道筋の記述なし) [鎌倉・浦賀道] 其間東に分るゝ岐路あり、郡の北方を横切り浦賀に達す、 津久井縣 百十六 甲州街道 當國縣内甲州街道一條係れり、東方小佛峠嶺上、武相兩國の境千木良村より小原宿・與瀨宿・吉野宿を經て西方關野宿に達し、夫より已西、甲州都留郡上野原境國界に至るまで里程二里廿八町餘なり幅凡廣狭ありて、五六尺より二三間に逮ぶべし、 [津久井道] 又小田原より甲州郡内へ往來の街道係れり、東方愛甲郡境、志田峠より西方都留郡小淵村に達す道幅廣狭ありて、五六尺より二間に餘れり、 ※都留郡に小淵村が存在した記録は見当たらないので、津久井県内の小淵村と取り違えていると思われる。志田峠からの道筋であれば、鼠坂から勝瀬を経て丹田前渡を越えて甲州道に合流する道を指すと考えられるものの、都留郡の方が正で別の村を記すべきところを小淵村の名を記してしまったものとも考えられる。
信玄道 或は信玄道と呼ベる古道あり道幅廣狭ありて、二三尺より八九尺に逮べり、東方愛甲郡三增村より來り、三峠を喩へ、県内長竹村に至り、夫より靑山村・三ケ木村・寸澤嵐村・若柳村・日連村・名倉村にかゝり、相模川を渡り、甲州都留郡上野原に達す、【甲陽軍鑑】に載す、…道筋をさして、今猶信玄道と呼べり、 ※以上、何れも雄山閣版より。街道の本数に若干の齟齬が見られるが、原文ママとしている。津久井縣の「甲陽軍鑑」の引用箇所は大半省略し、「…」に代えた。
※街道の名称は基本的に記述中にあるものをそのまま記した。このため、郡毎に街道名が異なっている箇所がある。なお、名称が複数記されているものについては、基本的に最初に記されているものを採用した。また、名称が記述中に記されていないものについては、[ ]で囲った上で村里部に記されているものを転記した。記述の齟齬が甚だしいものについては()内に注を記した。
※街道名に埋め込んだリンクは、それぞれの街道についての各村の記述の一覧を指している。なお、基本的には一覧表のトップを直接リンクしているが、該当記事が単一の街道を取り上げている場合は記事の先頭にリンクしている。
※記述中の郡名に埋め込んだリンクは、このページ内の相互参照の便宜のために挿入したものである。その際、郡名の明記がない箇所には[ ]で囲った上で郡名を補った。また、技術的な話になるが、idの挿入位置は本ブログ上の表示を考慮して1つ前の行に移している。
追記(2015/10/15):足柄上郡・足柄下郡・淘綾郡の各街道の名称に、各村の記述へのリンクを埋め込みました。
(2016/04/13):三浦郡の各村の記述を一覧化するのに先立ち、街道の名称を改めました。
(2016/04/23):津久井県の「津久井道」に注記を追加しました。