ケンペル「江戸参府旅行日記」より(その2)

先日ケンペルの「江戸参府旅行日記」(以下「旅行日記」)から、私のブログの以前の記事に関連しそうなものを選んで紹介しました。今回は以前の記事に直接リンクはしませんが、こちらの記述を取り上げてみます。品川宿手前の鈴ヶ森付近で、同地の海苔について触れています。

(四)鈴ヶ森。前の村から一里半の所にある小さな漁村で、そこでわれわれは休息のためしばらく足をとめた。神奈川から江戸までの海底は沼のようで、全く深くない。それで干潮時には水はすっかりひいてしまう所がたくさんある。特にこの村の近くでは、潮のひいた後に残った二枚貝や巻貝や海草などが食用として採れるので、この村は潮干狩りで有名である。私は海苔(のり)を作っているのを見た。集めてきた貝には二種類の海草が一面に生えていて、一方は緑色で細く、もう一方は少し赤味を帯びていて幅が広い。両方とも貝殻からはぎ取り、別々に分け、それを水桶に入れ、きれいな水をかけてよく洗う。それから緑の方のものは木の板にのせ、大きな包丁で、タバコを刻むように非常に細かく刻み、もう一度水洗いして二フィート四方の木製の(ふるい)の中に満たし、何度も上から水をかけると、海草は互いにしっかりとくっついてしまう。次にそれをアシで作った(すだれ)すなわち一種の(くし)状をしたものの上にあけ、両手でそっと押え、最後に日にあてて乾かす。あまり多くない赤い方の海草は、細かく刻まずに同じような方法で処理し、菓子のような形に仕上げ、乾いたら包装して売りに出すのである。

(「江戸参府旅行日記」斉藤信訳 1977年 平凡社東洋文庫303 170~171ページより、ルビも同書に従う、強調はブログ主)


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歌川広重「江戸名所百景」より
「南品川鮫洲海岸」
Online Collection of
Brooklyn Museum.
Licensed under Public domain
via ウィキメディア・コモンズ
ケンペル自身が「見た」と書いているので、少なくとも海苔を干している様子は見えたのでしょう。以前も書いた様にこの付近では東海道が海に非常に近い位置を進みますので、ケンペル一行が乗る駕籠の中からでも海苔を干す様子は十分見える位置にあったと思います。

しかし、江戸参府の途上である以上長時間滞在して見学できる状況ではなかったことを考えると、この製造過程をどこまでケンペル自身の目で観察して書けたのかは少々疑問が残ります。この製造方法については通詞経由で聞き書きしているのかも知れないという気もします。また、2フィートというと60cmほどの大きさになりますから、今よりは縦横とも2倍以上の大きさの漉き海苔だったことになります。この一連の製法の記述については裏を取りたいところですが、ケンペルの記述通りなら、元が紙漉きにヒントを得たと言われているだけに、当時の漉き海苔のサイズも紙漉きのサイズと同等だったのかも知れません。もっとも、大きければそれだけ乾燥に時間が掛かったり均質化し難いなど製法上の課題もありそうですし、運搬や調理の際の扱いやすさなどを考えると、早晩このサイズも見直されて縮小されていったのだろうとは思います。

とはいえ、元禄4年(1691年)の江戸行きの途上で同地で海苔を漉いて干しているのをケンペルが目撃しているということは、浅草付近で始まったとされるこの製法が、既にこの頃には品川界隈に伝わっていたことを示していると言えそうです。元禄10年(1697年)刊の「本朝食鑑」(人見必大著)にも「浅草(ノリ)」の項で

苔はあたかも紙を()き帛を(つく)って水中に投じたさまに似て、浪に(うか)び流れに漂っている。浦人は岸から竹竿を投げ、(かけ)()り、これを(おけ)に入れる。それから児女が箸に掛け、葦箔(あしのすだれ)(ひろ)げて晒乾(さらしほ)す。

(島田勇雄訳注 1976年 平凡社東洋文庫296 261ページより、ルビも同書に従う)

と記し、続いて品川付近で製される海苔についても触れていますので、その点は裏付けがあると言えそうです。

もっとも、人見必大の品川の海苔の評価は

生の時は蒼色、乾いた後は紫蒼色のものを上とする。浅草・葛西の苔がこれである。それで、世間ではこの地の苔を賞美している。品川の苔は、生時(なまのとき)乾後(かわいてから)(うす)青黒く、略(あら)くて密でない。それで味もやはり()くない。甘苔は相州・豆州の海浜に多くある。これも同一の物である。(やや)品川苔に似て紫赤色、やはり粗で密ではない。源頼朝公が(つね)京城(みやこ)に献上していたのはこれである。

(上記同書同ページ、ルビも同書に従う、強調はブログ主)

と、あまり芳しいものではありませんでした。品質を上げるだけのノウハウが、元禄の頃の大森ではまだ十分ではなかったのかも知れません。もちろん、「新編武蔵風土記稿」の品川宿」の項に

土產海苔 當所より大森麴谷村邊迄の間海中に生ぜり、其内南品川及獵師町にて採るものを上品とす、味殊に美なり、故に近里の人或は品川海苔と呼で賞翫す、淺草海苔と呼は淺草茶屋町の商四郎左衞門と云ものゝ祖、葛西中川沖の海苔を採淺草にて製せし故なり、其後此邊にて採始めしに、稀なる上品なれば今は淺草にては製せぬ、其地にて鬻けるものも皆當所より出せる物なれど、古名を存して多く淺草海苔と呼り、

(卷之五十四 荏原郡之十六、雄山閣版より、強調はブログ主)

と記している様に、後にはこちらが浅草にとって代わる様になります。その過程では必大が記す様な製法上の課題も、時代が下るにつれて克服されて行ったのでしょう。



ところで、「藤沢市資料集(三十一)」にケンペルの「旅行日記」が採録されなかった理由ですが、あるいはケンペルの鎌倉についての記述をどう扱って良いか判断し切れなかったからなのかも知れません。翻訳者もこの部分を大いに戸惑いながら訳していったことが、間に〔〕で挿入された注から読み取れる様に思います。

四谷(引用者注:藤沢宿西方の、大山道との分岐点)の海から真南に一里離れて鎌倉という悪名の高い盗賊島がある(これは「(まくら)またはクッション(Kissen)という意味である)〔カとマクラと分けてこのような誤解を生じたものか〕〈英訳本ではこれを「海岸」(Küste)とした〉。この島は見たところ小さく、円形で周囲は一里を越えない。そのうえ樹木が生い茂り、平らであるがかなり高いので、ずっと遠くから見える。この島は不興をこうむった大名たちを追放する場所として使われる〔このような事実はない〕。一度このクッションに坐るようになった者は、一生涯その上で過ごさねばならない。島の岸は八丈島のように岩が多く、急勾配になっているので、登ったり下りたりすることはできない。そこへ送られる人々やその他の必需品は小舟に乗せ、起重機を使って巻き上げ、空になった容器はまた下におろされる〔八丈島の記述と混同したものか〕。四谷の先一里にある藤沢で、われわれは昼食をする宿合に立寄ったが、いつもの宿はいっぱいだったので、他の宿に移った。

(「旅行日記」168ページより、ルビ・注もブログ主の1箇所以外同書に従う)


御覧の通り明らかな誤解に終始しており、流刑島として記述されていることから、確かに翻訳者の指摘通り八丈島、あるいは同様に江戸時代に流刑島であった新島(にいじま)などの話と混線した可能性は高そうです。「見たところ小さく、円形で周囲は一里を越えない」というのは江の島のことを言っているのでしょうか。ちょっと混線度合いが酷くてケンペルが本当は何処の話をしたかったのかを特定するのも困難な程です。

「旅行日記」中で鎌倉について具体的に記述しているのはここだけですが、地名として現れるのは次の章で江戸前の海について書いているところで、

幕府直轄の五つの自由商業都市のうち、江戸は第一の都市で、将軍の住居地である。大規模な御殿があり、また諸国の大名の家族が住んでいるので、全国で最大かつ最重要の都市である。この都市は武蔵国の、(私の観測の結果では)北緯三五度五三分〈英訳本では三二分〉の広大で果てしもない平野にある。町に続いている長い海湾には魚介類がたくさんいる。その海湾の右手には鎌倉や伊豆の国が、左手には、上総(かずさ)安房(あわ)があり、海底が沼土のようで非常に浅いから、荷物を運ぶ船は、町から一、二時間も沖で荷を下ろし、錨を入れなければならない。町のくぼんだ海岸線は半月形になっていて、日本人の語るところによると、この湾は長さが七里、幅が五里、周囲は二〇里である。

(上記同書175ページより、ルビも同書に従う、強調はブログ主)

と、東京湾の続きに相模湾岸の地名が出て来るように書いており、やはりこの辺りの情報は正確には伝えられていなかったことが窺えます。

とは言え、藤沢到着前の箱根権現の記述では同社に伝わる宝物を9点も記載しており(同書163~164ページ)、江戸参府の途上でわざわざ参詣に立ち寄ったと思えない同社についてこの様な情報をケンペルが持っているということから考えると、恐らくは通詞を経由して沿道の風物についてかなりの知識を得ていたのではないかと思われます。その同じ「旅行日記」で、それより遥かに多彩な知識が通詞からもたらされ得たであろう鎌倉について、何故この様な混乱した話だけが記されることになってしまったのか、他の箇所の記述の精度をどう評価するかにもかかってくる気掛かりな問題ではあります。

もっとも、ケンペルの記述の中にはこうした情報を提供する側だった通詞との関係が必ずしも良好ではなかったことを窺わせる一節もあります。大坂に数日滞在後、京都に向けて出発する手筈を整える中で、馬の調達でトラブルになったことが記録されています。

江戸旅行に必要な馬が数頭足りなかったので、われわれは休んでいるより仕方なかった。われわれは、たくさんの馬を要求した通詞たちと、そのことで激しい口論をした末に、およそ四〇頭の馬と四一人の人足を雇った。もし自分勝手な通詞たちが、たくさんの品物やそれに類するものをあつらえ、しかも、われわれの名義を使い、またわれわれの費用で持ってゆかなければ、実際、毎年もっと少ない費用で旅行することができたであろう。夕方われわれは年取った通詞を奉行の所へやった。われわれのために別れの挨拶を行なわせたのだが、彼は奉行から道中恙無くという言葉を受けただけでなく、頼んでおいた通行手形をもらってもどって来た。

(上記同書119ページより)


この辺りの事情については、ケンペルは第1章で次の様に記しています。

通詞(つうじ)については、上級および下級の者〔(おお)通詞と()通詞〕のうちから(それについては前巻で述べたように)おのおの一人が、しかも前年に幕府とわれわれの間で仲介者の役を果たし、なお同僚の中で毎年年番(Nimban)を動めた者がわれわれに配属される。今回はこれら二人のほかに、もう一人の見習い〔稽古(けいこ)通詞〕が付けられた。これは見聞や体験を通じて早くから将来の職務に習熟させるためである。彼らはめいめい従僕を連れてゆくが、それは仕事をさせるためであり、また見栄のためでもある。付添検使〔原文では奉行〕と大通詞とは、自分が望むだけの下僕を連れ、他の者は、自分の懐具合や地位に応じて、一人ないし二人〈英訳本では、二人ないし三人〉を伴う。オラングのカピタンは下僕を二人連れてゆくことができたが、他のオランダ人は各自一人だけであった。普通、通詞たちはこの機会に、たとえオランダ語ができなくても、自分の気に入りの若者を推薦する。

長崎奉行や通詞の特別な許可や任命によって、わが社〔オランダ東インド会社〕の費用を使って、何の役にも立たずにこの旅行について来る他の多くの人々については、触れずにおきたい。しかし、これらすべての旅行の同伴者は、出発前のしばらくの間、出島のわれわれを訪ね、少しはわれわれと顔見知りになることが許されている。彼らのうちには、われわれともっと親しく自由に過ごそうという決意を持った勇気のある人々がいたが、各人が他の者の密告者となる倒の誓約があって、一方の者の他方に対する懸念から、彼らはわれわれにもっと親切な態度で接することが許されないのである。

さて次には荷物運搬人と馬匹を手配しなければならない。これは旅行の輜重(しちょう)の世話役で会計係の責任者として、大通詞が行なうが、万事がその手配で非常にうまくいっているので、検使の意にかなえば、旅行は一分も違わずに始められるし、さらに迅速な出発が妨げられることがないように、余分の人足や馬匹も用意してある。

(上記同書6〜7ページより、ルビ、注も同書に従う)

通詞の世代交代なども考えれば見習いを常時付き添わせること自体は必要なことではあったでしょうが、その様な必要業務に直接携わらない随行員の分まで、江戸への往復の必要経費を東インド会社側が負担していたとあれば、不満が募るのは仕方がない面はあったでしょう。この大通詞の指図で一行が停滞したりすることに対して、不満を書いている箇所は他にも幾つか見当たります。

また、こうした状況からは見習いなど通訳としてのスキルが必ずしも十分ではない人間が同行していたことが窺えます。特に通詞の中でも技術の高そうな大通詞は、彼らの江戸参府に際しての宿舎等もろもろの手配まで担当していましたから、四六時中ケンペル一行に道中案内をしているだけの時間的余裕はなかったと思われ、その様な役目がより低位の通詞に振り向けられることになったとしてもおかしくありません。こうした状況が、ケンペルが沿道で直接見たもの以外について、通詞経由で仕入れた情報を混乱させたという可能性はひとつ考えて良さそうです。

もっとも、何をどう伝え損ねれば鎌倉が「悪名高い盗賊島」に化けてしまうのかまではわかりませんが…。「鎌倉」の名が「旅行日記」中に出て来るのはあと1箇所、最初に日本の道中で見られた風俗などについて概略を書いているところで、比丘尼について紹介している箇所です。

さらにわれわれは、街道でその他いろいろな乞食(こじき)、大部分は若くて頭をきれいに()った人たちがいっぱいいるのを見かける。…これらの剃髪(ていはつ)した人々のうちには、比丘尼(びくに)(Bicku-ni)と呼ばれる若い女性の教団がある。これは鎌倉や京都の尼寺の支配下にあって、その庇護(ひご)を受けているので、彼女たちはそれらの寺や伊勢と熊野の寺に所得の中から幾らかを毎年寄進しなければならない。彼女たちは熊野やその近国に最も多くいるので、仏教の方の尼僧と区別するために、熊野比丘尼と呼ばれている。

(上記同書55〜56ページより、ルビも同書に従う、…は中略、強調はブログ主)

ここでケンペルが鎌倉の尼寺の存在について触れている訳ですから、当然これについても何かしらの情報を彼が得ている筈です。こことの整合性に気付けていれば鎌倉について何か誤認があることに目を向けるチャンスもあったと思うのですが、残念ながらそこまでは至らず鎌倉が「盗賊島」のまま据え置かれる結果になってしまった様です。

まぁ、ケンペル一行は2回の江戸参府の帰途で経由している京都では数日間滞在し、智恩院、清水寺、方広寺、三十三間堂などを見物していっているのに対し、鎌倉は東海道の途上にはないためにわざわざ立ち寄ることもなかったため、こうした情報の齟齬を是正する機会がなかったということもあるでしょう。これは以降のオランダ商館の江戸参府でも同様だったと思われ、トゥーンベリの「江戸参府随行記」やシーボルトの「江戸参府紀行」でも、探してみた限りでは鎌倉に関する記述は見当たりません。トゥーンベリは

我々が進んできた道は、ケンペルの時代の使節が通った道とはんの二、三の場所で異なっているだけであった。

(「江戸参府随行記」高橋文訳 1994年 平凡社東洋文庫583 159〜160ページより)

と記していることから、明らかにケンペルの「旅行日記」を読んでおり、この奇妙な「盗賊島」についての記述も目にしていた筈ではありますが…。

通詞とのやり取りの齟齬が原因で生じたと考えられるこの様な誤解は、ケンペルの「旅行日記」には他にも少なからず見られます。例えば、江戸からの帰路途上、箱根では

われわれはこの宿舎から、昼の体みをとる箱根まで駕籠に乗って行った。ここから遠くない所に、元箱根という土地があって、そこで権現神(Kongin kami)が戦いに敗れたということである〔この記述は何をいうのか不明〕。

(「旅行日記」206ページより)

と記しています。翻訳者は意味不明と注釈していますが、想像力を逞しくするならば、これは恐らく、源頼朝が石橋山の戦いに敗れたあと、箱根権現別当が助けたことを記す「吾妻鑑」の記事が、大きく曲がって伝わったのではないかという気がします。

前回の子供たちの「宙返り」の様に自身で目にしたものについての記述であれば、こうした問題は生じ難いでしょうが、こうした事例を見ると、伝聞が混ざってくる箇所については、やはり裏を取りながら使うべき資料ということになりそうです。無論、こうした事例は何もケンペルに限ったことではなく、これによって「旅行日記」自体の価値が下がるというものではないのですが…。



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