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ケンペル「江戸参府旅行日記」より(その1)

江戸時代の旧東海道についてこのブログで取り上げる際、しばしば「藤沢市資料集(三十一)旅人がみた藤沢(1)」(藤沢市文書館編)を参照してきました。この資料集には全部で95編の道中記・旅日記等からの引用が収められているのですが、そこには長崎から江戸に往参するオランダ商館長に随行したふたりの外国人の記事が含まれています。トゥーンベリの「江戸参府随行記」(安永5年・1776年)とシーボルトの「江戸参府紀行」(文政9年・1826年)です。

この本に記されている出典を拠り所にして元を当たったり、その出典元の紀行文集に収録されている他の道中記を参照したりはしていたのですが、トゥーンベリやシーボルトよりも前に来日していたもう一人の著名な外国人の参府紀行には思いが至らず、素通りしてしまっていました。ケンペルの「江戸参府旅行日記」です。この本が何故「藤沢市資料集」に収められなかったのかは不明ですが、今回改めてこの本を手に取ったので、以前私が書いたブログの記事に幾つか補足する形でこれを取り上げてみたいと思います。

旧東海道:箱根のケンペル=バーニー碑
箱根の「ケンペル=バーニー」碑
左の肖像がケンペル
エンゲルベルト・ケンペルEngelbert Kaempferはドイツの医者・博物学者で、元禄3年(1690年)に来日しています。翌元禄4年と更に5年の2度、商館長に随行して江戸に訪れており、「江戸参府旅行日記」はその際の道中を記録した日記です。なお、道中の様子の記述が詳しいのは初回の往路(第11章「浜松から将軍の居城のある江戸までの旅」)ですので、今回は専らそちらを参照しています。


ケンペルはこの日記を西暦(グレゴリオ暦)で記していますので、ここでもそれに従います。これによると、1691年2月13日(和暦では元禄4年正月16日)に出発した一行は1ヶ月近く経った3月10日(同2月11日)に江尻を出発、次の宿泊地である三島へと向かいます。途中吉原を過ぎて元吉原で昼食を摂っていますが、その部分に次の様な記述が見られます。なお、以下引用文中の〔〕は訳者による補注です。

半里に及ぶ砂地に点在している元吉原という貧弱な村は、約三〇〇戸から成り、吉原から半里の所にある。われわれはそこで昼食をとったが、子供たちが、群をなして馬や駕籠に近づいて来て、いつも前方二〇歩か三〇歩の所で、面白いとんぼ返りをしながら、輪を描いて駆け回り、施し物をもらおうとしたので、われわれは子供たちに小銭をたくさん投げてやった。彼らが砂の中でぶつかり合って倒れ、あわてて銭をつかもうとする様子は大へん面白かった。吉原には、小銭を投げてこの貧乏な子供たちを喜ばせるために、いつもたくさん紐に通した銭の束が用意してあった。子供たちは旅行者が幾らかでも小銭を投げてやるまで、時には半里もついて来る。小銭は三グロッシェン貨幣〔昔のドイツの小銀貨で、約三〇分の一ターラー。一ターラーは約二マルク〕の大きさをし、一ヘラー〔昔の銅貨〕に相当する真鍮の平らな硬貨で、真ん中に穴があいていて、そこに紐を通し、馬に結びつけて持って行くことができるのである。

(「江戸参府旅行日記」斉藤信訳 1977年 平凡社東洋文庫303 159ページより、強調はブログ主)


その7 藤沢〜茅ヶ崎の砂丘と東海道に補足」で、砂丘地帯の茅ヶ崎で子供が旅人の前で宙返りを見せて小遣い稼ぎをしている様子を紹介し、その際にトゥーンベリが吉原と三島の間で子どもたちの宙返りを見たことを記していることを付記しました。このケンペルの記述はそのトゥーンベリの記述とほぼ同じですね。但し、ケンペルの江戸行きはトゥーンベリより85年前ですから、その頃から吉原付近の砂丘地帯で子どもたちの宙返りが既に行われていたことがわかります。一行が対応を心得ていることから、こうした小遣い稼ぎが元禄の頃には既に常態化していたこともわかりますね。

東海道分間絵図より牡丹餅茶屋付近
「東海道分間絵図」より牡丹餅茶屋付近
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
他方、茅ヶ崎周辺ではケンペルは

川を渡って一時間半、いわば砂漠のような地帯(町屋・南湖(なんこ)小和田(こわだ)の村々があって、そこの住民たちは街道筋で暮しの道を求めていた)を通って、四谷(よつや)という大きな村に達した。

(上記同書167〜168ページより、ルビも同書に従う)

としか記していませんので、恐らくこちらでは子供たちの宙返りを見ることはなかったのでしょう。ほぼ同時期に出版された「東海道分間絵図」で「子供中がへりいたし/申候」と書かれていたり、その様子を菱川師宣が絵に描いたのも専ら茅ヶ崎・牡丹餅茶屋の付近の方だけで、元吉原付近にはその様な表現は一切見られません。こうなると、何故茅ヶ崎の方でだけこの様な様子を特記したのか、遠近道印(おちこちどういん)らの意図がますます掴み難くなってきます。




翌日、一行は三島から箱根を越えて小田原へと向かいます。トゥーンベリはここで多数の植物標本を採集し、その際に「ハコネサンショウウオ」の標本を入手したことは以前紹介しました。ケンペルの場合はその様な標本採取の目的は持っていませんでしたが、それでも道中で目にした風物を出来るだけ記録しようという意志は持っていた様です。

今日は、小田原の町まで八里の道を箱根の山地を越え、地図に記しておいた幾つかの村村を通って行く。午前中の四里は山の登り道で、そこここにアシやカヤなどが茂った不毛の土地を越えて行った。…山の一番高い所の路傍に境界を示す長い石の標柱が見えた。これは小田原藩領の始まりを示し、同時に伊豆と相模の国境である。ここからわれわれは方向を変えて再び苦労して山を下り、約一〇町すなわち一時間後に峠村(とうげむら)に着いたが、一般には山の名をとって箱根と呼ばれている。われわれは今日の旅程の半ばを終えて、ここで昼食をとった。地形やその他いろいろの状況、特にすぐ近くにある山の湖は、この土地に大へん特色をもたせているので、私はこのことを少し詳しく述べねばならない。村そのものは約二五〇戸の貧しい家々から成り、大部分は長く弓なりに曲った町筋をなしていて、高い山地の上の、いわば空中にあるような上述の湖の東南岸にある。けれどもこの湖は、ほかの険しい山々に取囲まれているので、氾濫(はんらん)することも、流れ出ることもない(山々の間になおひときわ高くそびえ立つ富士の山が、ここからは西北西よりは少し北寄りに見えた)。この湖の広さは東から西まで約半里、南から北まではたっぷり一里はある。私が聞いたところによると、北岸の近くで、金を多量に含んだ鉱石が掘り出されるということである。東岸には先のとがった高い双子(ふたご)山がそびえ、その麓には元箱根の村があり、これと峠村の間に塔ヶ島がある。湖岸は山地で荒れているために、この湖は恐らく周囲を歩くことはできないので、向う岸ヘ行こうと思う者は、小さい舟を使うしかない。湖水でいろいろな種類の魚類がとれるが、そのうちで名前が言えたのは、サケとニシンだけであった〔恐らくヤマメとウグイかと思われる〕。この湖の成因は確かに地震によるもので、そのために昔この土地が陥没したのである。その証拠として、人々は数え切れない杉の木のことを挙げている。深い湖底には珍しいほどの太さの木が生えていて、藩主の指示や意見で潜水して引きあげ運び出される。そのうえ日本ではこの種の木が〔この箱根ほど〕丈が高く、まっすぐで、見事に、そしてこんなにたくさんある所はほかにない。ここにはハエも蚊もいないから、夏は静養していてもこれらに妨げられることはないが、冬ここに滞在するのは全く快適ではない。外気は非常に寒く、重苦しくガスが立ちこめ、体によくないので、外国人は健康をそこなわずに長期間辛抱することは恐らくできない。前のオランダ東インド会社の氏、フォン・カンプホイゼン氏は、自分は、ほかでもないこの土地のせいで体を悪くした、と私にはっきりと言っていた。

(上記同書161〜162ページより、ルビも同書に従う、…は中略、強調はブログ主)


少々長くなりましたが、ここでのケンペルの興味は動植物よりもむしろ地形や地質に向いている様に見えます。金については伝聞としていますので裏がどの程度あるかわかりません(「風土記稿」でも芦ノ湖の項にその様な記載は見えません)が、芦ノ湖底から産出される神代杉の話には地形の成立との関連で注目しているのが目を引きます。

なお、「ヤマメ」を「Google翻訳」で翻訳するとしっかり「Salmon」と表示されます。まぁ、ヤマメは本来サクラマスが海に下らなくなったものを指しますので、確かに類縁ではあるのですが、ケンペルが「サケ」と書いたのはその点ではあながち外れていないというべきなのかも知れません。一方淡水魚の「ウグイ」を海水魚のニシンと見立ててしまったのは、その姿が似て見えたからでしょうか。もっとも、付き添いの通詞がその様に翻訳して伝えた可能性もありそうです。「名前が言えたのも」というのも、地元の漁師がウグイやヤマメ以外の魚についても和名を答えているにも拘らず、通詞がそれをオランダ語に翻訳することが出来なかった事情を指しているのかも知れません。

また、夏場に蚊帳が要らないというのは箱根の夏場の気候を言い表す際に良く言われることですが、これも地元の人から伝え聞いたのでしょう。他方、ケンペル一行の江戸参府も春まだ遠い時期に行われていた訳ですが、箱根の寒さは少々身に沁みていたのかも知れません。前任者からここで酷い目に遭ったとケンペルに言い聞かせているのは、あるいはその時の江戸参府はもっと寒い時期に行われたからだったのかも知れません。

さて、箱根宿を出発して関所を越え、小田原へと下る途上には、ケンペルは次の様なことを書いています。

この土地の草は、医師が特に薬効があると考えて採集するが、これらの中にはアディアントゥム(Adiantum)あるいはヴィーナスの髪という濃い紅色を帯びた黒色の、つやのある(くき)や葉脈のあるものが、たくさん見つかる。他の地方の普通のものより、ずっと効くと思われている。それゆえ家庭薬として貯えておくために、この山を越えて旅する人のうちで、誰一人それを採らないで通り過ぎてしまう者はない。この薬にはほかのものと比べられないすぐれた特性があるので、世間ではハコネグサと呼んでいる。

(上記同書164〜165ページより)

「箱根草」については、「新編相模国風土記稿」の各郡の産物で「石長生」として紹介されていました。ここでは「元祿の頃紅毛人江戸に來れる時、當所にて此草をとり、婦人產前後に用ゐて、殊に効ある由いへり、」と記していますが、当の「元禄の紅毛人」の医師のひとりであるケンペルがこの様に記しているとなると、それ以前から既に薬効が世間に知られていたものということになり、この記述をどの様に解すべきか、難しくなってきます。

他にも取り上げてみたい興味深い記述があるのですが、今回はここまでと致します。



PS(2014/06/04):
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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

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