前回は六郷橋の隣に架けられた鉄道橋である六郷橋梁を引き合いに出しましたが、大正14年(1925年)に六郷橋がようやく安定するまでに、同地には更にもう1本鉄道橋が架かります。六郷橋梁と並行して架けられた、現在の京浜急行、当時の京浜電気鉄道の橋です。
こちらの橋についても、三度前回までと同じ方が良いまとめを作っていらっしゃいますので、今回もそれを参照しながら話を進めます。
そして今回も、改めてこちらのページも併せて見ていきます。
こちらのページに記載されている通り、京浜電気鉄道は当初、六郷架橋組合から六郷橋を購入して併用橋として利用しようと目論んでいます。しかし、結局強度が足りずに自前の橋を架けざるを得なくなり、当初は仮橋を木製で架けたものの、最終的にはトラス橋を明治44年に架けています。
この歴史をもう少し詳しく、順を追って見てみましょう。それぞれの時期に架けられた橋の様子がわかる資料がないか探してみましたが、昭和24年(1949年)に京浜急行電鉄(株)がまとめた社史「京濱電氣鐵道沿革史」(以下「沿革史」)が、参照できた中では辛うじて上記のページを補足するに足る情報を与えてくれましたので、こちらを引用しながら話を進めます。これ以上話を深めるには、恐らく京急本社に乗り込んで社内資料を拝見させて戴くしかなくなると思いますので…。
まず、六郷橋〜川崎大師間で営業を開始した大師電気鉄道が、品川方面への進出を目論んで京浜電気鉄道となった頃から、六郷川を越える必要が出てきたことになります。その際の経緯について、「沿革史」ではこの様に説明しています。
當社と六鄕橋の關係は、當社が川崎、品川間軌道敷設の出願をなした時に始まつた。卽ち明治丗二年六月、品川延長線敷設の爲め、假橋架設の設計をなしたが、後に現在の人道橋を買收して軌道併用にする事とし、當時の架設權所有者であつた石井泰助氏、山田三郎兵衞氏、外六名と交渉の結果、同丗三年七月十九日、買收の手續を完了した。所が工事設計に着手すべく橋梁調査をした處、電車運轉に堪へない事が判明したので、計画を變更し別に鐵橋を架設する案を立てて認可を申請したが、更に研究の結果之亦困難な事がわかつた。そこで『鐵材等取調の結果目下我が國にては間に合ひ難く一切外國に註文を要する處、材料到着をまち架設するには一年半乃至二ケ年を要す。然るに延長線の内、川崎・大森間は本年中に運轉開始可致豫定につき、六鄕橋は已むを得ず現橋の上流に竝列して橋杭を現橋と同一の位置になし單線軌道の假橋を架設一時運轉を致度』との願書を提出して許可を得、買收した人道橋の上流に長さ五十五間の木橋を架設し、翌丗四年二月一日の六鄕橋・大森間開通に間に合はせた。
(同書44ページ)
必ずしも資金に恵まれていない中で色々と試行錯誤する中で、開業予定日に間に合わなくなって止む無く木製の橋で急場をしのいだことがわかります。既設の六郷橋を併用するという案も、最初から併用ありきだったのではなく、一旦自前で架けるつもりでいたものを翻意したことから考えると、仮橋であっても架設費用が予想外に膨らむことが設計段階で明らかになってきて、まずは何とかコストダウンの道を探ろうと考えたのかも知れません。
当時架かっていた六郷橋の写真は、前々回取り上げた通り「六郷橋の歴史」のページで見られる通りですが、あの13径間の木橋と同じ幅で橋脚を打って仮橋を架けたことがこの記述から読み取れます。願書にその旨をわざわざ書くというのは、それでないと鉄道省から認可が下りない可能性を考えたのではないかと思います。ただ、六郷橋では強度不足だったのをどの様な構造で補ったのかまでは、参照できた資料からではわかりませんでした。
何れにせよ、頼りない木の仮橋で何時までも凌げる訳はなく、何とか早く鉄橋へと切り替えたかった様ですが、実際は輸送力強化のための複線化対応で橋の位置が変わり、その対応の際にもう1回仮橋を架けたので、鉄橋化実現に更に時間を要する結果になりました。この経緯は「沿革史」の続きにこの様に表現されています。
而して之を複線として運轉能率を上げる爲めには、鐵橋を架設せねばならなかつたが、神奈川延長線敷設に當り、京濱間直通運轉を敏速にする爲め、六鄕・大森間國道上の軌條を新設軌道に變更敷設する計画を樹てた結果、鐵橋の位置も變更を要するので暫く單線假橋のま丶運轉をなし、明治丗九年五月に鐵橋工事施行許可を受けた。
併し鐵橋の竣功には日時を要し、附近線路變更の完成迄に間に合はないので、一時其の豫定位置に假橋を造り、曩に買收した人道橋は修繕した上、明治丗九年十二月之を政府に献納した。
(同44~45ページ)
この間、明治39年8月には台風による水害で仮設橋の橋桁を1径間分失っていることが、「京急六郷鉄橋の歴史」に引用された「多摩川誌」の記事からわかりますが、これは移設前の初代の仮橋の方の様です。また、後で出てきますが明治43年にも水害で運行が途絶していますから、やはり仮橋の利用期間が伸びればそれだけ水害に恐々としながらの営業にならざるを得なかったでしょう。更に、同時期に輸送力増強のために車両の大型化も進めていますが、これは当然車重を増加させることに繋がり、仮橋への配慮がネックになってしまうという面もありました。
明治三十六年、…同年九月、將来の品川・神奈川間の直通運轉に備へ、五〇馬力電動機四箇附ボギー車一〇輛の建造認可を出願した處、速度制限問題及重量增加に伴ふ六鄕橋梁補强等困難な問題に遭遇し、翌明治三十七年七月、漸く認可を得て九月竣工した。
(同239ページ、…は中略、太字はブログ筆者)
最終的に仮橋での営業は明治44年までの10年に及びましたが、小破による運行途絶はあったものの、何とか流失までには至らずにこの10年を乗り切ったのは、隣の六郷橋もほぼ同期間を乗り切った点と併せて考えると、左内橋よりは幾分強度面では優れていたのか、それとも幸運にもこの期間の水害がそれほど甚大ではなかったのか。俄には判断できませんが、何れにしても営業面では綱渡り状態を続けていたのは確かな様です。
これを解消すべくいよいよ鉄橋架設に取り組む訳ですが、その段の「沿革史」の記述は次の通りです。
斯くて新假橋の竣成に依り、明治四十年十一月初めて複線運轉を行つたが、一方鐵橋の設計に就ては度々變更せられ、同四十二年五月に至り、工事準備に着手、橋臺橋脚及び付屬土木工事(工事區域四十七鎖)は鈴木由三郎氏に請負はしめ、鐵桁は川崎造船所に註文した。此の工事中明治四十三年九月の大洪水のため、假橋の一部破損して、五十六日間渡船連絡を行う等の事となつたが、同四十四年三月、着工以来一年有半にして全部竣功し、同年四月一日に開通した。そして之が開通は輸送力を增大し、恰も花季の乘客輸送に遺憾なからしむるを得た。
(同45ページ)
…花見の書き入れ時にちょうど間に合って良かった、というところでしょうか。
さて、多摩川に架けられた鉄道橋を架橋順に並べると、こうなります。
- 明治5年(1872年) 最初の鉄道橋(初代六郷橋梁)
- 明治10年(1877年) 六郷橋梁鉄橋化
- 明治22年(1889年) 甲武鉄道(立川〜日野間)
- 明治34年(1901年) 京浜電気鉄道(木橋による仮橋)
- 明治39年(1906年) 京浜電気鉄道(複線化に伴う2本めの仮橋)
- 明治44年(1911年) 京浜電気鉄道(鉄橋化)
以下略しますが、まだ東急も小田急も京王も登場する前の時代です。後に中央本線として官営化される甲武鉄道は別として、京浜電気鉄道の取り組みは意外に早いことがわかります。
この甲武鉄道が架けた多摩川橋梁はまだ現役で使用されています。曲がりなりにも民間鉄道が初めて多摩川に橋を架けたことになるのですが、Wikipediaの諸元を良く見ると施主は確かに甲武鉄道ですが、橋梁設計は「官設鉄道」になっています。つまり、甲武鉄道の頃はまだ鉄道用の橋梁の設計は、明治政府が抱えている技術者の力に頼らなければならなかったことになります。鉄道橋の設計を行うに足る技術がそもそも民間には流通していなかったと読むべきか、それとも技術はあったが明治政府が民間の設計技術を信頼していなかったのか、はたまた治水に悪影響を及ぼす様な施工をされるのを恐れて民間に自由にさせなかったのか…理由がどの辺にあったかは、この事実からだけでは俄に判断は出来ません。
ただ何れにせよ、京浜電気鉄道の六郷鉄橋は、多摩川を越える鉄道橋としては最初に純粋に民間が設計から行った事例であったということになります。つまりそれだけ、京浜電気鉄道としては高いリスクを背負っての架橋工事を行ったことになります。請け負った「鈴木由三郎」という人は、ネット上を検索してみたところ「月島の渡し」の由来や東京帝国大学の医科大学教室棟の建設にその名前を見る土木請負業者であった様ですが、それ以上の略歴等は良くわかりません。もっとも、「沿革史」にある通り幾度かの設計変更「せられ」と表現していたり、更に「京浜急行電鉄史資料所在目録」(1981年)から該当しそうな鉄道省の特許を拾うと
明43.217 監158 多摩川橋梁設計変更ノ件
明43.712 監897 仮橋使用延期ノ件
明43.712 監898 橋梁設計一部変更ノ件
明43.822 監1063 多摩川鉄橋橋脚一部変更ノ件
明44.331 監397 多摩川鉄橋上及其ノ前後電柱建設ノ件
これらは表題だけが並んでいるので内容までは不明ですが、少なくとも鉄道省側も民間の鉄橋架設に関して手放しで任せていた訳ではなさそうです。恐らくはかなりの「指導」が行われたのでしょう。東海道本線よりも電化では先行した京浜電気鉄道の六郷鉄橋の電柱について、鉄道省が何を示唆したのかも不明ですが…。
その結果出来上がった六郷鉄橋は、低水路上はトラス6連、高水敷上は上路プレートガーダー24連の鉄橋という構成になりました。官設鉄道の六郷橋梁の低水路上のトラスが3連と長めのものになっていたのに比べ、蒸気機関車が走らない分若干軽めの荷重想定で済む筈の京浜電気鉄道がそれより短いトラス6連となったのは、やはり上記の様に色々とリスクがある中で技術的に無理は出来ないという判断になったからなのでしょう。
それでも、大師電気鉄道として開業してから順調に路線を伸ばす京浜電気鉄道、恐らくはその営業成績に事業全体としては前途を高く評価する出資者が多かったのでしょう。リスクがあっても事業が安定すれば営業収入から架橋コストを返済できる目処があって、結果としてそれだけの投資を集めることができた、ということなのでしょう。
さて、六郷橋の方は上記の通り明治39年に献納されて晴れて「国営」となった筈ですが、しかしその後も相変わらず仮橋が架けられては流失を繰り返す有様でした。スポンサーシップとしてはひとまず周辺住民に負担が行く事はなくなったものの、利用者の側から見ると引き続き流失によって多摩川を越えるルートが途絶する危険に怯えながら六郷橋を利用し続けていたことになります。鉄道の方は近隣に2本も橋が架かって水害に耐えているのに比べると、その扱いには随分と隔たりがあったことがわかります。
今は国道以下市町村道に至るまで、道路や橋梁の普請を国や地方公共団体が行うのが当たり前になっているので、当時の実情が見え難くなっている嫌いはあると思います。この頃はまだ、国費が特定の道路や人馬などが渡る橋梁のために支出されるケースは極めて限られていたため、既に通行量が多くなっていた六郷橋といえども、仮橋での運営が長く続かざるを得なかったのです。
現在の様に積極的に公費を投じて道路整備を行う様に政策が変わった契機は、関東大震災でした。その復興事業の中で抬頭する自動車交通への対応が見直され、官費による道路・橋梁の積極的な整備が進められるようになったことで、初めて多額の資金を必要とする道路用の橋梁工事にも費用が回ってくるようになった、という訳です。実際、六郷橋がタイドアーチを伴った立派な姿になった大正14年(1925年)には、多摩川では他に二子橋が竣工し、翌年に日野橋が架橋されるなど次第に江戸時代からの渡し場が橋へと切り替えられていくことになります。
裏を返せばそれだけ、長大な橋を架けるには高度な技術とそれに伴う高コストが必要で、それらを揃えるには鉄道の様に運賃収入から賄うスキーマを確保するか、あるいは国などの政治的な裏付けの大きいスポンサーシップがなければ難しかったということになるのでしょう。地元の一名主や、有志の共同出資では、到底それらを賄い続けることは出来なかった…これが、六郷橋の歴史を紐解くと明らかになって来る事実だったと思います。
何だか江戸時代の話から随分話が時代を下ってしまいましたが、こうした後の時代の変遷を見極めた上で、改めて時代を遡って当時の様子を検証し直してみるのも、技術の変遷を見極めるには有効ではないかと思ったので、こんな話にまとめてみました。如何だったでしょうか。
追記:
- (2017/09/14):リンク切れを修正しました。