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相模川の「鰷」続き:「新編相模国風土記稿」津久井県の編纂の経緯

先日津久井県について書き、更に「新編相模国風土記稿」の同県の産物に記された「鰷」の表記について触れました。その際に愛甲郡の表記では「年魚」「鮎」といった表記が使われていて統一が図られていないことを指摘しましたが、その経緯について「風土記稿」冒頭の「凡例」にしっかり一文触れられているのを見落としていました。読みが浅いですねぇ…。凡例を後から読んでいることがバレバレです。

一津久井縣は、愛甲、高座の二郡より、分割して此唱あり、其地は千人頭、原半左衛門胤廣、別に承はりて撰定し、天保七年呈進す、故に其體例異同あり、

(首卷・凡例、雄山閣版より、強調はブログ主)


津久井県の部の編集については昌平坂学問所ではなく、八王子千人同心が命を受けてこれに当たったために、体裁に異同があることをはっきり書いていました。他の部に見られない独自の表記が見られるのはそのためだった訳ですね。


この八王子千人同心による「風土記稿」編纂については、以下の書物がわかりやすく紹介しています。これは平成17年(2005年)に八王子市郷土資料館が開催した特別展の図録です。

八王子千人同心の地域調査―武蔵・相模の地誌編さん―(2005年 八王子市郷土資料館編)



この特別展については図録の冒頭で次の様に紹介されています。

東京都有形文化財(古文書)に指定され、郷土資料館に寄託されている『桑都日記』(極楽寺蔵)は、平成十四年度に東京都八王子市の補助による修復がなされた結果、表紙の芯紙から『新編相模国風土記稿』津久井県之部の草稿の一部が発見されました。草稿の存在はこれまで知られていないため、貴重な発見として注目されています。

『新編相模国風土記稿』の編さんには、『桑都日記』の著者でもある千人同心組頭の塩野適斎がたずさわっていました。千人頭の原胤敦をはじめとする千人同心らは、幕府から「地誌捜索」を命じられ、『新編武蔵風土記稿』の多摩・高麗・秩父の各郡の編さんも手がけています。今回の展示では新発見資料を初公開するとともに、その後の研究成果や新たに発見された資料から、千人同心の文化的業績ともいえる地誌捜索の全体像を再検討したいと考えます。

(上記書「開催にあたって」より、ページ番号なし)


八王子千人同心が武蔵国西部や津久井県といった地域の編纂に参加した理由について、同書では次の様に考察しています。

多摩郡の地誌捜索を千人頭に分担させるメリットは、単に「最寄」の地であるだけではなく、江戸から出役させるよりも経費も少なくて済むこと、なによりも郡内に山岳地帯を含んでいて、調所のスタッフが廻村するよりも作業効率が高いと期待されたからであろう。以後、高麗郡・秩父郡の捜索を担当することになるのも同じ理由である。その後、天保四年(一八三三)十二月、原半左衛門胤禄は、『新編相模国風土記稿』の編さん事業のうち、相州津久井県の地誌御用を命じられることになる。今度は志願したもののようであるが(史料2)、許された理由はやはり同様に考えてよい。

(同書3ページ)


天保六年津久井県地誌捜索廻村経路
天保6年の千人同心の
津久井県地誌捜索経路
(「八王子千人同心の地域調査」所収)
同書には天保6年に千人同心一行が津久井県内を地誌探索のために巡回したルート図も掲げられています。これを見ると、山間の道筋乏しい地域を、一筆書きとまでは行かないまでも効率良い道順を組み立てて巡回していることが窺えます。

こうした記録によって、「新編相模国風土記稿」の中でも担当した人・団体が異なっていたことはわかります。これが表記の不統一に影響したのであろうということまでは言えるでしょう。しかし、それでは昌平坂学問所と八王子千人同心の双方で、「アユ」の表記についてそれぞれが依拠したものが何処にあったのか、またそうした知識の齟齬がそれぞれで生じてきた時にどの様に統一を図ったのか、といったことまではわかりませんでした。

因みに、「新編相模国風土記稿」の他の郡の編集がどの様な順番で進んだかについては、首巻の「凡例」に次の様に記されています。

高座郡は、天保三年、三浦郡は、同五年に稿成る、此二編は、事の始にして、體例未定らず、故に十一年、再刪定を加ふ、足柄下郡は,七年に成り、足柄上郡、愛甲郡は、十年、大住郡、淘綾郡は、十一年に稿成る、鎌倉郡は、其前、武州稿編の時、捜索の事ありて、重て其學に及ばざるが故、他郡に比すれば、甚疎なり、抑鎌倉は、古人撰述の書もあれば煩蕪を省て、簡易に從ふのみ、

(雄山閣版より)


従って、天保6年に調査が行われ、同7年には仕上がった津久井県はこれらの他の郡の項の成立より、事情のやや異なる鎌倉郡を除いてほぼ先んじていたことになり、昌平坂学問所でも他郡の執筆に取り掛かるよりも前に津久井県の稿を見ていると思われます。それであれば、愛甲郡の「年魚」「鮎」の表記を「鰷」に揃えるか、或いは逆に納入された津久井県の表記の方を修正することも出来た筈ですが、結局どちらも採用されずに凡例に表記の差が出ていることだけ記すに留まったことになります。「鰷」の方は貝原益軒の著作に典拠がありそうという点については以前指摘しましたが、その点に対して昌平坂学問所側がどの様に判断したのかが気になります。


新編相模国風土記稿津久井県図説の「ヤマメ」
「新編相模国風土記稿」
津久井縣図説の「ヤマメ」
雄山閣版の印字を拡大
また、「風土記稿」の津久井県の記述では、「ヤマメ」について「魚へんに衆」という、これまた見慣れない、そしてUnicodeの体系にも現時点では見当たらない文字が使われています。大修館書店の「大漢和辞典」では、この字を「(やもめ)」の俗字としており(修訂版12巻773ページ、文字番号46515)、「鰥」については「大魚の名。又、鯤に作る。」(同763ページ、46382)等としています。日中辞典を引いても「ヤマメ」の訳語としてこの字が出てくるものが見当たらない点と考え合わせると、この字が果たして「ヤマメ」に宛てられるべき字であったかは頗る疑問です。しかし、前回の一覧に見られる通り、この字は「山川」編の「物産」でもそのまま用いられた上で足柄上郡でも産出されることが付記されています。現在ではヤマメは一般的には「山女」と書かれることが多いのですが、探してみた限りでは村里部にはヤマメに関する記事がなく、他の記述例を見つけることが出来ませんでした。これも八王子千人同心が何処からこの字を持って来たのか、そしてそれを何故昌平坂学問所がそのまま採用したのか、という疑問が残ります。

ただ、「アユ」では出典を求める事ができる「鰷」の字を採用しなかった昌平坂学問所が、ヤマメでは千人同心の記述をそのまま受け入れているところを見ると、千人同心に武蔵国の山岳部や津久井県の地誌調査が依頼された理由のうちには、ヤマメの様な山岳部独自の動植物や風習については、彼らの方が事情に明るいという側面もあったのかも知れないとも思えてきます。昌平坂学問所もその観点で千人同心の記述を尊重したのかも知れません。

以前「ハコネサンショウウオ」のことを紹介した際に、西洋でもトゥーンベリの頃にはまだ近代的な分類学の黎明期にあり、日本から持ち帰った標本などを手掛かりに分類を行っている段階だったということを指摘しました。「新編相模国風土記稿」はそれよりはやや時代の降った、シーボルトの来日した頃に当たりますので、蘭学が大分日本に浸透しつつあったとは言え、まだ在来の和名と漢名による動植物の分類が基本にあった筈です。「風土記稿」のこうした表記の「乱れ」からは、むしろそうした中で当時の人々が依って立つ動植物の知識がどの様なものであったかを考える、ひとつの端緒になるのかも知れないという気がしています。

敢えて細かい表記の問題に拘っているのはそういう側面からではあるのですが、現状の私の知識レベルではまだそこを掘り進めるには到底不十分ですので、その点をもう少し深められた頃に改めてこの問題に戻って来られれれば良いかなと思っています。




追記(2018/03/10):八王子市郷土資料館のページへのリンクが切れていたため、新しいURLへ修正しました。
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