
序でですので、ここまでの記事の一覧を掲げておきます。
- その1:「小田原大海嘯」について
- その2:小田原大海嘯をもたらした台風と、防潮堤について
- その3:小田原宿と小田原城の成立過程の概要
- その4:小田原宿の当初の成立地に関する「小田原市史」の記述への疑問点
- その5:小田原宿の成立当初の立地に関する個人的な見解
「(その3)」の回に、「新編相模国風土記稿」に収録された「北条五代記」からの引用を紹介しました。松原大明神(現:松原神社)に小田原の浜に上がってきた大亀を運び込んで俄に宴になったというエピソードの部分ですが、その引用をここに再掲します。
同年(注:天文十四年)三月廿日の日中、大龜一つ小田原浦眞砂地へはひあがる、町人是を怪み捕へ、持來て松原大明神の池の邊に置、八人が力にて持煩ふ程なり、氏康聞召大龜陸地へあがること、目出度瑞相なりとて、卽刻宮寺へ出御有て龜を見給ひ、仰に曰、天下泰平なるべき前表には、鳥獣甲出現する、往古の吉例多し、是偏に當家平安の奇瑞、兼て神明の示す所の幸なりと、御鏡を取寄せ龜の甲の上に是を置しめ給ひ、夫龜鏡と云事は、さし顯して隱れなき目出度いはれありと、御感悦斜ならず、竹葉宴醉をすゝめ、一家一門悉く參集列候し、盃酒數順に及ぶ、萬歳の祝詞を述給ひて後、件の龜を大海へ放つべしと有しかば、海へぞ放ちける、此龜小田原の浦を離れず浮びて見ゆる、…
(卷之二十四 小田原宿・宮前町中「松原明神社」の項 雄山閣版より引用 原文小字)
小田原市が編纂した「小田原市史」には「別編 自然」という巻があり(2001年刊)、この巻には海の生物もまとめられています。相模湾まで多少範囲を広げて記述されているのですが、生憎と海亀の仲間はその中に含まれていません。戦国時代に小田原の浜に漂着してお祭りされたというこの亀は、どんな種類なのでしょうか。勿論、「北条五代記」のこの記述だけでは具体的な種の特定など出来る訳もありませんが、無理を承知でちょっと気楽に検討してみたいと思います。

「北条五代記」の記すところでは、大人8人掛かりでもこの亀を運ぶのに難儀したとあります。「五代記」のことですから少々誇張した表現になっている可能性が少なくありませんが、例えば大人ひとり当たり30kg程度の荷重を分担して運んでいたなら、この亀は240kg程度はあったということになります。これだけ重いと何か輦台の様なものに載せて運んでいるでしょうから、その分の重さも考慮すべきでしょうが、それにしてもこれ程までに重いアカウミガメがいたのでしょうか。
WikipediaやWWFによれば、アカウミガメの体重は最大で180kgぐらいですから、それに近い体重なら確かに大人数名では持ち上げるのはなかなか大変でしょうが、「8人掛かりでも…」は少々誇張して表現されているということになりそうです。但し、ナショナル・ジオグラフィックのサイトには「
これまでに450キロを超える大きな個体も発見されている。」などととんでもない記録が載っていますので、ひょっとしたら本当に200kgを大きく超えるほどに大きかったのかも知れません。もっとも、これだけ大きくなるためには相当に餌に恵まれていないと難しいでしょうから、日本近海でその様な個体が生息していたと考えるよりは、より条件の良い南の海で長い時期を過ごした個体が潮に乗って北上してきた、ということになるでしょう。
それとも、アカウミガメよりも大型になるアオウミガメなど、日本近海でもごくたまに見られる種が、たまたま漂着した可能性も考えられるでしょうか。ただ、過去の気候変動という点では、戦国時代の頃はむしろ今よりも冷涼であったとする説が有力なので、温暖な地域を回遊するアオウミガメなどが今よりも北上してくる可能性は、あまり高そうには見えませんね。なお、大正3年(1914年)5月22日に、小田原の沖合でオサガメが漁網に掛かった記録があり、「
總量九十貫目(337.5 kg)左右翼八尺五寸(257.6cm)長サ七尺九寸(239.4cm)胴廻リ八尺七寸(263.6cm)」と大きさが記されています(「一枚の古い写真」小田原市立図書館 1990年 192ページ)。オサガメは基本的に南の温暖な海域に棲む海亀で日本近海では滅多に見られるものではなく、この時もたまたま黒潮に乗ってきたのであろうと推測されていますが、この大きさと重さなら、確かに8人がかりでも運ぶのは大変そうです。
さて、「五代記」では天文14年(1545年)の3月20日(新暦に直すと5月1日)の日中のことであったとしています。アカウミガメの産卵期は5〜8月頃なので、ぎりぎり掛かっているとは言えるものの、アカウミガメのメスが産卵のために浜に上がるのは夜で、それ以外では基本上陸することはありません。戦国時代の頃の小田原の漁師が、海亀が産卵のために上陸してくることをどの程度知っていたのかは良くわかりません。が、少なくとも昼に海亀が上がって来るのは滅多にないことですから、浜の人が奇妙に思ったのも無理からぬことではあったでしょう。
通常の生態に反して上陸している状況を考えると、この亀は上陸時点で既にかなり弱っていたのではないかとも思うのですが、宴が済んだ後で海に無事帰ったと記すのが事実なら、適宜水を掛けてやったり食べものを与えてやったりして、「介抱」はしていたのかも知れません。何しろ鏡を甲羅に載せて祀り上げられてしまった位ですから、亀にも何かしらの「お供え」があっても良さそうなものではあります。但し、アカウミガメは何かと目の前のものに「噛み付く」習性があるそうなのので、下手にお供え物を食べさせようと手を出して噛まれたりしなかったかは少々心配ではあります。

石碑の下の亀似の像も「贔屓」で指がある
("Keiunji -03" by Aimaimyi
- 投稿者自身による作品.
Licensed under CC 表示-継承 3.0
via ウィキメディア・コモンズ.)
繰り返しになりますが、「北条五代記」の記述を信憑性のあるものとして読むのは危険な面もあります。しかし、いわゆる「浦島伝説」(神奈川宿では慶雲寺が「浦島寺」として知られる)や、川崎・大師河原に伝わる「霊亀石」の伝説などと比べると、竜宮城へ連れて行かれたとか亀が石を運ぶのを手伝ったといった、超常性や非日常性は「五代記」の海亀の記述にはありません。強いて言えば亀のサイズがやや誇張気味である様に見える程度で、他はアカウミガメの生態と照らしてもさほど隔たったものにはなっていないことが、ここまで見てきたことでわかると思います。その点から判断すると、江戸時代には小田原の浜に海亀が上がるという話には十分リアリティがあったのでしょう。当時の小田原の人達に海亀についての具体的な知識がどの程度であったかは不明とは言いつつも、やはり実物を目にする機会はそこそこあったのではないかと思います。つまり、その頃にはアカウミガメが小田原の浜で産卵していた可能性を考えて良いのではないでしょうか。
ところで、その大亀が上がった小田原の浦は「北条五代記」では「眞砂地」と表現されていました。ここは「新編相模国風土記稿」が記す様に
と、宝永大噴火までは塩田が営まれる程の砂浜がありました。こうした景観は明治時代から大正時代にかけて撮影された小田原周辺の海岸の写真でも確認出来ます。古は三角町の屬新久に鹽田ありしに元祿圖にも鹽濱と題す、寳永中富士山焚燒の後、屢怒浪に嚙れて廢せりと云、
(卷之二十四 足柄下郡卷之三 小田原宿・海の項、雄山閣版より、なお同書で欠落している文字については国立国会図書館デジタルコレクションより鳥跡蟹行社版を参照して補充)
海亀が産卵に訪れるのは砂浜ですから、上陸したのがオス亀であったとしても、砂浜がなければメスを追って浜に近づくこともないでしょう(死骸や衰弱した個体の漂着は別ですが)。その当時はウミガメが産卵に使えるだけの充分な砂が堆積していたのでしょう。
地図同士の誤差は多少あるが(東海道のズレなどで確認可能)
それを差し引いても特に山王川付近から東側で海岸が後退しているのがわかる
(「今昔マップon the web」より)
しかし、今の小田原の海岸はかなり砂浜が痩せ細っています。特に酷いのは上の地図にも見られる通り山王川河口付近から東側で、特に酒匂川から東側の西湘海岸では最近になって養浜工事を国の直轄事業として実施することになりました(神奈川新聞 2014年3月18日付「西湘海岸の砂浜復元、国が直轄事業化へ」)。一方、山王川より西側では
とされているものの、御幸の浜の西側は完全に礫海岸と化しており、ここを伝って早川河口まで歩くのは相当に難儀です。東側は養浜工事の効果もあって砂浜のこれ以上の減少を食い止めることは出来ている様ですが、それでも最盛期に比べれば砂浜が痩せてしまっていることには変わりがない様です。酒匂川からの供給土砂の激減により侵食しましたが、近年は安定/堆積にあります。
(「神奈川県県土整備局資料(PDF)より)
こうした状況下で、数年前には小田原付近でもアカウミガメの孵化を数十年ぶりに確認出来たとの報道(「アカウミガメのふ化確認、市内では数十年ぶり/小田原」神奈川新聞 2010年9月8日)が示す通り、現在は小田原の海岸でアカウミガメの産卵のために上陸する機会が激減してしまったのは確かな様です。
戦国時代には大亀が浜に上がったと伝わるにも拘らず、今の地元の自然史にはウミガメの仲間が記されない理由の一端は、やはりこの砂浜の後退にあるのでしょう。
追記:
- (2014/04/11):小田原近海でのオサガメの捕獲事例ですが、2010年7月にもあったことが分かりました。
小田原から伊豆半島沿岸に南下した辺りにある米神沖の定置網にかかっていたものとのことです。但し、この時の個体は「目測体重/80~90kg」と大正3年の巨大な個体に比べると遥かに小振りで、より若い個体であった様です。
その点では、オサガメの様に南洋に棲息する海亀であっても、条件次第では北上してくる可能性はあると考えておくべきなのでしょうね。
- (2014/07/07):ストリートビューの表示がおかしくなっていたので修正しました。また、「新編相模国風土記稿」の引用で文字の欠落していた箇所を改めました。
- (2015/06/13):やはりストリートビューが更新の度に表示がずれてしまうため、Wikimedia Commonsの写真と差し替えました。
- (2016/02/10):神奈川新聞の記事へのリンクが切れていたため、改めて張り直しました。なお、将来リンク先が別の記事に変わってしまう事例が他の記事で確認されたため、念のために記事の見出しと日付を追記しました。
- (2018/03/07):ナショナルジオグラフィックと神奈川新聞の記事へのリンク切れを修正しました。その際、神奈川新聞の記事については見出しと日付を追記しました。
- (2021/04/17):再び神奈川新聞の記事へのリンクが切れていたため、張り直しました。また、神奈川県県土整備局資料もリンクが切れていたため、こちらも張り直しました。
- (2021/11/11):「今昔マップ on the web」へのリンクを修正しました。その際、地図同士の誤差についてキャプションに追記しました。