六郷橋だけを見ると、明治以降の歴史は落橋と復興の連続です。明治7年(1874年)に鈴木左内が通行料を徴収する橋を架けたものの、4年後に早くも流失して渡しに戻ってしまい、その後も流失しては渡しに戻ってしばらくすると再び架橋、ということを繰り返し、大正14年(1925年)に架橋された橋になってようやく、昭和59年(1984年)に拡幅のために架け替えられるまで60年近く京浜地帯の大動脈としての使用に耐えました。その間50年の間、両岸の町は橋に泣かされ続けたと言って良いでしょう。
鈴木左内は川崎宿の対岸、多摩川の左岸にあった八幡塚村の名主でしたが、八幡塚村では六郷の渡しの渡船権を川崎宿に一手に握られている現状に不満を抱き、幾度も幕府に改善の願書を送っています。川崎宿にとっては宿場の財政を支える重要な収入源であった渡船業ですが、主要な街道の渡船に一方の岸の村だけが関与して利権を吸い上げるというのは、対岸から見れば不公平の謗りを免れないものではあります。結局徳川幕府が倒れるまで八幡塚村の願いが叶うことはありませんでしたが、新たな政府になって川崎宿の独占権も確固たるものではなくなったので、八幡塚村側にも「今度こそ」という思いは当然あったでしょう。
この新たな六郷橋についても、前回同様こちらのページが良くまとめられています。
このページに「多摩川仮橋麁図」という、左内橋の大まかな様子が描かれた図が載せられています。これだけだと川の中に橋脚を何本立てたのかがわかりませんが、両岸の描き方などから見て恐らく江戸時代からの伝統的な工法での架橋であったと判断して差し支えないでしょう。当時の技術では径間長(≒橋桁の長さ)はおよそ3間(約5.4m)が限界でしたから、60mの川幅を渡り切るには最低でも11径間が必要ということになります。実際、「多摩川仮橋麁図」の下に明治30年撮影の六郷橋(明治16年に再架橋された後翌々年に破損して修繕した後の姿)の写真がありますが、径間長が川岸付近で短くなっている分本数が増え、全部で13径間で構成されていることが窺えます。
さて、何故そんな技術的な話を始めたのか、それは同じ時期にもう1本、隣に架けられた橋との比較をしたいからです。明治5年の鉄道開業と同時に供用開始となった、日本初の鉄道橋の1つである六郷橋梁です。
この橋についても、同じ方が詳しくまとめたページがありますので、そちらも併せて参照しながら論を進めます。
こちらの橋の姿は同ページに写真と錦絵が掲載されています。写真の方は、モデルらしき人間が土手の上に座ってポーズを決めている所から(こういう写真が当時流行ったのです)、恐らくは絵葉書か写真集のために撮影されたと思われますが、高水敷の位置を現在と照らして考えると恐らく上流側右岸、つまり川崎側から撮ったものと思います。上記「JR六郷橋梁の歴史」から諸元に関する箇所を引用しますと
「六郷川の鉄道木橋」(「史誌第13号」)によれば、流水部(川崎側)を渡る本橋は明治3年10月に着工、全長115メートル、檜(ひのき)製のラチス形(菱格子状)のトラス橋7連からなり、橋台には石材が使われたものの橋脚は木造(松丸太)であった。屈撓(くっとう)防止のため、橋脚からトラスに斜材を掛けた、独特の対束補強構造が採られていた。(クィンポストの支柱は振動が甚だしいため後で追加されたものという説もある。)
開業時の汽車の重量はWikipediaによれば約23トン(改造後の重量ということで開業時の重量は不明ですが、実際の営業時の値に一番近そうな「機関車運転整備重量」を見ています)、客車の重量が不明ですが当時の木製の車体でも乗客を載せれば1両当たり10トン前後の重量は確実にあったでしょう。何れにしてもこんな重たいものを橋で渡すなど、そしてそんな重たいものが時速30km以上(開業当初の平均速度)で走るなど、言うまでもなく当時の日本にとっては全く未知の領域でした。ましてやその様な日本にとって前代未聞の橋を、江戸初期以降200年近くもの間架橋を断念していた川に架けようというのですから、短期間で竣工させるには既にその技術を持っていた所から買ってくるしかなかったのは当然のことでしょう。
果たしてイギリス人技師が設計して出来上がった橋は、当時の日本人がそれまで見たこともない姿をしていました。今でこそトラス橋など珍しくも何ともありませんが、当時は明治2年(1869年)に関内に架けられた吉田橋など数えるほどしか例がありませんでした。そして、この吉田橋がその物珍しさから新たな観光名所化したのと同様、この六郷橋梁も新名所となったのでしょう。川崎大師へ参拝する途上、もしくはその帰途に、六郷の渡しの土手の上からその姿が一望に出来た筈ですから。だからこそ、絵葉書や錦絵の格好の題材となり、今でもこうしてその姿を偲ぶことが出来る訳です。「JR六郷橋梁の歴史」に掲載されている錦絵は、まさにそういう位置からの姿が描かれていますよね。
そして、この六郷橋梁の姿を、鈴木左内も当然目の当たりにしている筈です。そして恐らく、「六郷川にも橋は架けられる」という思いを抱いたのではないか。僅か2年後には周囲を説得して架橋に着手し、更にその翌年には竣工させたのは、そんな思いが強く左内を支配したからだという気がします。
しかし、左内が江戸時代の道役・善兵衛の「六郷川ハ砂川ニテ杭之根掘レ、保チ申サズ」を果たして知っていたかどうか、知っていても大丈夫だと判断したのか。また、如何にも重そうな汽車が客車を引いて六郷橋梁を渡っていくのを見ながら、その見慣れない橋の姿の中に洪水による被害を最小化する工夫が盛り込まれていることに気付けていたかどうか。実際、六郷橋梁は5年後に鉄橋に架け替えられていますが、それは決して水害で流失したからではなく、トラスを組んだ檜の腐朽が予想以上に速く進んだからでした。
日本の在来の架橋技術では、橋桁にはそれだけの長さを持った太い丸太や木材を、継ぎを作ることなく用いるしかありませんでした。径間長がせいぜい3間しか取れなかったのは、要するにそれ以上長くすると橋桁に使った丸太や木材が荷重に耐えられないからですが、トラス橋はそうした制約を木材などの部材を巧みに組むことによって荷重を分散させ、1つ1つの部材の耐力以上の荷重に耐えさせるための仕組みです。初代の六郷橋梁の「全長115メートル、檜製のラチス形のトラス橋7連」から計算すると、1径間が約16m、木製でも在来型の橋梁の3倍の径間長で重い汽車を渡すことが出来たことになります。
そして、径間長を長くすることが出来る結果、洪水時の弱点になりやすい水中の橋脚の本数を減らすことに繋げられる訳です。洪水時の過大な水圧や上流からの流下物との衝突による橋脚の破損を極力食い止めるには、何よりその本数を削減することが一番で、トラスはその可能性を飛躍的に高めた点で日本にとって画期的な技術でした。先ほど名前を挙げた関内の吉田橋も、水中に1本も橋脚を打つことなく両岸を渡すことが出来た点が、当時の日本の社会にとって驚異的なことであった訳です。
また、橋脚の本数が減ればそれだけ1本1本の橋脚に掛かる荷重が増えてきますが、こちらも丸太を従来工法とは異なる形に組み、部材の本数を増やして荷重を分散させる工夫がなされています。更に、写真に見られる様に上流側には「舟形」を組んで上流からの流下物による橋脚の破損を防ぐ仕組みが念入りに仕組まれています。
これらの傾向は、5年後の架替に際して、再び「JR六郷橋梁の歴史」から引用すると、
全長は500メートル、流水部は径間100フィートの錬鉄製のポニー・ワーレントラス(筋交の傾斜方向が交互に変わるタイプで、トラスが上面まで覆っていないもの)6連(182メートル)、避溢橋は上路鈑桁24連から成り、石とコンクリートまたは鋳鉄製円筒を基礎とした煉瓦積みの橋脚が作られた。木橋の時期は単線だったが、鉄橋に改架された際同時に複線化が図られた。
と全面的に強化され、複線化によって更に列車通過時の荷重が増えているにも拘わらず、橋脚の本数を更に減らすことに成功しています。橋脚自体も煉瓦を使って耐力を更に上げると同時に、杭打ちを鋳鉄に変えることで根掘れへの対策を強化しています。そして、この強化された橋も増水によって落橋することなく、新たな橋に役目を譲るまで35年の使用に耐え続け、架け替え後もトラス部分が他所へと送られて更に使用され続けるほどの耐久性を見せたのです。
こうした新しい橋の姿を左内も観察していると思うのですが、「ここにも橋は架けられる」という思いだけで自費を注ぎ込んでしまったのか、それとも私費だけでは到底手の届かない工費を前に「まずは在来型の橋で蓄財してから」とそろばんを弾いたのか、何れにしてもその思いは江戸時代初期の六郷橋と同様、度重なる流失という現実の前に潰れていく結果に終わってしまったのだと思います。
但し、六郷橋梁の檜のトラスが僅か5年で朽ちたという件は、確かに防腐剤の塗布の問題もあったかも知れませんが、在来型の工法で造られた橋がもっと長保ちをした点と突き合わせて考えると余りにも短く、この点は前回引用した「江戸の橋」の記述を思い起こしてみる必要があると思います。前回の引用でも当時の六郷橋が「槇一式」によって架けられていることが記されていますが、その耐食性能の良さは些か誇張されているのではないのかと思えるほどの言葉で明治初期の人が表現しています。
府下千住大橋の橋杭ハ 槇の木にて二百年の久しきを経て尚朽腐せず。
…
琉球人富川親方に唔す 談たまたま木材のことに及べり 彼人の話に「チアギ」(即槇の木の方言)ハ 二三百年を経るも尚 朽腐せざる故に「ヲキナワ」にてハ 甚だ此木を貴重すと
(「江戸の橋」44ページ、明治10年『工業新報』投稿の引用)
「槇」とは「真木」で、必ずしも樹種を指す言葉ではなく「最上の建築材を」指すと、この本の別の箇所で説明されていますが、何れにしても部材の質を最良にすることで、橋の寿命を飛躍的に伸ばすことが出来る、というのが在来工法の考え方です。そういう視点からは、5年で腐らせた檜の橋を見て、当時の職人なら「何故そんな木を使ったのか」と考えたかも知れません。
これに対して部材を大量に必要とする西洋型の技術では「部材に橋梁用としては最良とは言えないものであっても、防腐処理によって寿命を伸ばすことが可能ならば、その分安価で豊富な部材を用いやすい」という考えに立っていたことが窺えます。そして、5年で朽ちた木製のトラスの代わりが鉄であったということは、石炭の大量投入によって豊富に得られる鉄骨の方が、こうした橋梁の部材としては向いているという判断へと切り替わっていったことを意味しており、こうした技術コンセプトが日本に浸透していく歴史が窺える様に思えるのです。
次回もう1回、もう少し時代が下った頃の話を続けます。
追記:
- (2017/09/13):リンク切れを修正しました。