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滝山道(八王子道)の3つの継立場(その2)

旧滝山道(交差する街道付き).
滝山道のルート(再掲)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ:別ページで表示
前回は滝山道の、藤沢市内の2つの継立場を中心に取り上げました。今回はもう少し北に進んで大和市内の下鶴間宿を中心に取り上げます。

前回も亀井野村の辺りで滝山道の古道が存在していたことを見ましたが、長後宿から北へ向かった先、上和田村の辺りでも古道が存在していたことを、「新編相摸国風土記稿」が上和田村の項で紹介しています。

瀧山道村の西界にかゝる、又古道と呼あり瀧山道の古道なり

(卷之六十三 高座郡卷之五、雄山閣版より)

上和田村の滝山古道(推定)
上和田村の滝山古道(推定)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ:別ページで表示
この道が現在も残っているのか、「大和市の地名」(大和市教育委員会編 2005年)では該当するものを見出すことが出来ませんでした。ただ、「鎌倉街道」「鎌倉古道」と称されている道筋が数本、滝山道の東方、境川に近い台地の縁付近にあったとしており、その他に「巡礼街道」や「中道」として記されている道筋が知られているので、あるいはこれらの中に「古道」と重なる道筋があるのかも知れません。右の図では、仮に「中道」と「巡礼街道」として記されている道筋を繋いでみたものです。「鎌倉古道」とされている方の道筋は現在はかなりの部分が失われていますが、この道筋よりももう少し北側で滝山道と合流する道筋になりそうです。この道筋を経由するとやや遠回りになる上に、浅い谷筋を横切ることになるので多少のアップダウンが生じるのですが、「久田(くでん)」という古い集落を経由することになる点が、古道の道筋を考える上でひとつのヒントになるのではないかという気がしています。


滝山道の古道の存在については、「風土記稿」の下鶴間村の項にも記述が見られます。

當村矢倉澤道、八王子道の驛郵にて、人馬の繼立をなせり矢倉澤道は幅四間、東の方人夫は武州鶴間村、道程五町、傳馬は同國長津田村、道程一里餘、二所繼立のことを司れり、西の方は人馬共に郡中國分村、道程二里に達す、八王子道は幅二間、南方長後村、道程二里一町四十八間、北方は武州多磨郡原町田村に繼送れり、道程一里四十八間、又八王子道、村内にて二條となり、隴間一條を古道と唱へ土人横山道とも唱ふ、北の方上鶴間村界にて前路に合す

(卷之六十七 高座郡卷之九、雄山閣版より)

相州下鶴間村:文久二年戌年改メ村方図
相州下鶴間村:文久二年戌年改メ村方図
(「大和市の地名」より引用)

滝山道と矢倉沢往還の辻(ストリートビュー
左脇の日枝神社がかつての山王社
かつての下鶴間村に伝わる、幕末に作成された「文久二年戌年改メ村方図」という絵図があります。かつての村域の土地利用や主要な道筋を絵図に表したものですが、図の下部中央の「藤沢道」と上部の「八王子道」の間が滝山道ということになります。この間の道筋が確かに2通り存在することが窺えます。図中央下部の「霍(鶴)林寺」の周囲に広がる集落が、かつての下鶴間宿に当たります。その集落のほぼ中央近くに向かう直線的な道筋と、やや西端を経由する道の2通りが描かれている訳ですが、現在「滝山道」として伝えられているのは宿の西端を経由する方の道です。

江戸時代の下鶴間宿は矢倉沢往還沿いに展開する宿場でした。中程を境川の支流である目黒川が流れ、その辺りを中心に東西に矢倉沢往還が走っていて、西の滝山道との辻に向かって上り坂になっていました。つまり滝山道は引き続き台地の上を走っていて、宿場に用が無ければ坂を降りなくて済む様な道筋を辿っていた訳です。滝山道と矢倉沢往還の辻にはかつては山王社があり、このため一帯は「山王原」と呼ばれていました。今は「日枝神社」となったその鳥居の傍らには、2つの街道の交点であることを説明する石碑のガイドが、大和市によって立てられています。

しかし、「風土記稿」に記されている通り、下鶴間宿は継立場であったため、長後からの人馬は宿場まで降りる必要があります。宿場の中央に向かって降りていく道筋は、従ってこの人馬が使う道筋となっており、むしろ交通量はこちらの方が多かった様です。後に「迅速測図」にこれらの道が描かれた際にも、主要道として描かれたのはこの宿中心に向かう道の方で、実は当初ルートラボに引いたルートもこちらを進んでしまっていました。

下鶴間ふるさと館と高札場
下鶴間ふるさと館と高札場(復元)
宿場の旧小倉家住宅の母屋と土蔵が復元されている
これらの道筋が、滝山道や矢倉沢往還、更には下鶴間宿の発展過程でどの様に変遷してきたのか、今のところこれらを明らかにすることは出来ませんが、宿場の様な集落が発展するためには利水面で有利な場所が優先されるのに対し、往来の足元を確保する観点からはむしろ台地の上の様な冠水し難い場所が選ばれるという、2つの相反する要素が折り合いながら、街道の交通量の増減に従って移ろっていったのではないか、と想像しています。幕末期には江戸から大山に詣でる人の他に、きな臭くなった東海道を避けて厚木を経由して矢倉沢往還を迂回する人馬が増えたこともあって、下鶴間宿はかなり賑わった様ですが、宿場が大きくなるには目黒川周辺の土地だけでは足りなくなり、次第に滝山道への上り坂の周りにも宿が建てられたりする様になっていったのではないか、という気がしています。


ところで、「風土記稿」では長後宿と下鶴間宿間の継立の距離を「二里一町四十八間(以前のGoogleの計算では約8050m)」と、何故か「間」の単位まで記しています。次の町田までの距離も「一里四十八間(同じく約4014m)」としていますが、「風土記稿」内でここまで細かい単位まで継立の距離を記した例は珍しく、主要な街道では基本的に「町」の単位止まりです。何故ここまで細かい単位で記す必要があったのかを説明できる様な史料は、今のところ見当たらない様です。ただ、上記の様に複数の道筋があったとなると、当然どの道を行くかによって距離が変わる訳ですから、継立の運用上は駄賃に影響することになります。こうした中で継立場と荷主などの間で争議になったとしても不思議ではなく、「風土記稿」に残る細かい距離の取り決めは、あるいはその争議の解決に当たって綿密に測量された結果ではないのだろうかという仮説を持っています。無論、この説の通りなら裁許状の様な取り決めの証書が残っている筈ですが。

なお、滝山道の道筋が残っているのは、現在のイオンつきみ野店の西側辺りまでで、その先は高度成長期の大規模な区画整理の際に道筋が失われてしまいました。大筋では目黒川と並行する様に北へと向かい、上鶴間村(現在の相模原市南区上鶴間)との村境付近で目黒川を越えて隣村に入る道筋であったことが、「文久二年戌年改メ村方図」から窺えます。この道筋は「迅速測図」上でも確認することが出来ます。

少々ラフな推定を含んだ話になってしまいましたが、次回もう少し下鶴間宿について、渡辺崋山の「游相日記」を中心に見てみたいと思います。



P.S. おかげさまでブログ村のトーナメントは準決勝戦まで進出出来ました。応援戴きました皆様ありがとうございます。現在(投稿日時点で)引き続き投票受付中です。

追記:
  • (2016/01/13):ストリートビューを貼り直しました。
  • (2017/12/31):以前は日本の尺貫法で表記された長さをメートルに変換する機能がGoogle検索にあったのですが、何時の間にか廃止されてしまった様です。取り敢えずGoogleへのリンクは撤去(コメントアウト)しましたが、計算結果の根拠を示す意味で記述はそのまま維持します。なお、尺貫法の変換に主に使われているのは明治初期に政府が定めた単位である場合が多く、その意味では江戸時代当時の精確な距離を算出する際に用いるのは適切ではない面もあります。ここで示している変換結果は飽くまでも目安とお考え下さい。
  • (2019/10/19):本文中にも記載しましたが、「ルートラボ」終了に備え、「地理院地図」上で作図したものと差し替えました。
  • (2022/10/30):「歴史的農業環境閲覧システム」のURLが変更されていたため、リンクを張り直しました。また、ブログ村のトーナメントは廃止されたため、リンクを撤去しました。

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