【旧東海道】その2 六郷橋(1)


六郷橋の位置
旧東海道の話、今回から数回、六郷橋を取り上げます。「橋」の話をする手前、江戸時代以降の話も織り交ぜる予定です。

江戸から旧東海道を歩いてきて、川崎宿に入る直前に渡るのが六郷の渡し。江戸初期には徳川家康が慶長5年(1600年)に架橋させた六郷橋があったものの、洪水で度々流される橋の修繕費に音を上げて貞享5年(1688年)渡しに切り替え、川崎宿の名主田中丘隅が六郷の渡しの永代渡船権を握ってから宿場の経営が安定した…という辺りまでは、街道歩きをする人には割と良く知られた話だと思います。元禄3年(1690年)に成立した「東海道分間絵図」にはまだ六郷橋が描かれていますが、これは版木の準備の都合上更新が間に合わなかったのでしょう。

この六郷橋、家康が架ける前にも一時期存在したという説があります。「新編武蔵風土記稿」でもこの説が採用されて、両岸の村の項で解説されています。(以下引用は雄山閣版より、…は中略、太字はブログ筆者)

卷之四十 荏原郡之二 六鄕領

◯八幡塚村

多磨川 …或人の考に、永祿の頃は此川川崎大師河原筋の村々より南を流れしと、されども永祿十二年信玄亂入の時、當所の橋を切おとせしこと【小田原記】に見えたれば、此説もうけがたし、
◯六鄕渡 附橋迹、東海道の往還にあり、川を渡て橘樹郡川崎宿へ達す、此所に昔は橋あり、其はしめて造りし年代はしらざれと、永祿十二年信玄當國へ亂入のとき、北條家の侍行方彈正六鄕橋をやきおとして、甲州勢を止めしことあり、この後三十餘年たへたりしを、慶長五年の夏東照宮ふたゝひ橋を造らしめたまひしこと、當所八幡宮への御願文に見えたり、…


卷之七十二 橘樹郡之十五 川崎領
◯川崎宿

◯六鄕渡 大橋跡附東海道往還の内多磨川の渡なり、南の方久根崎堤外の地より荏原郡八幡塚町へ達す、こゝはよほど古き往來にて、昔は橋ありしが、永祿十二年武田信玄當國へ慟の時、六鄕の住人行方彈正が橋をきり落せしこと【小田原記】に見ゆ、其後久しく再造に及ばざりしを、慶長五年命ありて造らしめられ、其後數御修造もありしかど、元祿五年七月廿一日の洪水に橋落てより永く癈せられて今の如く船渡となれり、…


しかし、この説は色々と調べてみると、どうやら異論が多く、信憑性に乏しい様です。「川崎誌考」をベースに「小田原記」の記述の信憑性について紹介した記事については、こちらのページが良くまとまっていますので該当ページヘのリンクのみ置いておきます。

ref-7 六郷橋の歴史


「小田原記」の記載が真説であれば、何故家康がここに橋を架けさせたかは、表向きはわかりやすくなります。後北条氏が破壊してしまった橋を「復興する」と宣言すれば、これは新しい領主にとっては既存の利便性を復旧する行為ですから、こういう事業は周辺の領民にも歓迎されやすくなります。

しかし、それならば何故この位置に元から橋があったのか、当時の街道がより上流の「丸子の渡し」や「平間の渡し」などを渡るルート(中原街道や池上道)であったことを考えると、それらの主要な渡しを差し置いて敢えて六郷に優先的に架橋したことになり、小田原を本拠とする後北条氏、もしくはそれ以前に六郷や川崎を所領した大名等が何故六郷にそこまで肩入れしたのか、理由を探らなければならなくなります。その点では確かに、六郷に橋が元々あったと考えるのはかなり難しそうです。六郷橋架橋が家康の江戸入からかなり時間が経っていて、殆ど五街道制定の時期に近いことも、六郷橋を「復旧」したという説明よりは、新たな街道の交通を円滑化する目的で架橋を命じた、という説明の方がしっくり来そうです。

もっとも、その後の歴史と照らし合わせた時に、家康が(東海道を担当していた彦坂元正あたりの家臣が見立てたのかも知れませんが)六郷橋を「架けられる」と見立てた「勝算」がどこにあったのかも気になります。鈴木理生氏の「江戸の橋」(2006年)によれば

寛保二(一七四二)年に、当時の道役の一人だった善兵衛に、幕府の担当者がつぎのような諮問をした文書が残っている。

この道役・善兵衛の父親は前に見た貞享五(一六八八)年に流失した多摩川河口の六郷橋の、流れ残った橋材と金物一切で、日本橋浜町の対岸にあたる「小名木川西河口」に万年橋(始めは「本番所の橋」と呼ばれた)を架けた技術者だった。 この先代善兵衛によると、六郷川は「虫付き」を防ぐために「槇一式」で架けたのだが、「六郷川ハ砂川ニテ杭之根掘レ、保チ申サズ」、つまり橋杭を支持する地盤が柔らかいために洪水に耐えられなかったことが、橋を廃止したことの技術的条件だったことを明らかにしている

これまでは、六郷橋を復興させずに船渡しにした理由を、江戸城防備のためだとする見方や説明が一般的だが、真相は案外このような理由であって、多摩川河口の沖積砂層の厚さが大きかったためだとわかる。つまり橋の規模の大小とは別の問題として、その端の橋脚の重量を受ける地盤(地層のあり方)が、橋の有無を決定していたのである。

(34〜35ページ、…は省略箇所で、千住大橋の虫食いについての諮問の内容が記されている。太字は同じくブログ筆者)


「江戸の三大橋」と言われた両国橋、千住大橋が江戸時代を通じて維持されたのに対して、六郷橋の方は90年足らずしか維持できず、その間も幾度も架け替えを余儀なくされたのは、この説に従えば立地場所の川底の差が物を言ったことになります。架橋技術の面で無理があることは、恐らく廃止を決断した幕府の耳にも届いていただろうと思われ、それが再架橋断念に繋がった可能性も確かに少なくないと思います。

他方、ならば慶長5年の架橋当時に技術上の難しさに気づくことはなかったのだろうか、という点が疑問として浮かびます。家康の江戸入りから相応に年月も経ち、大規模な架橋を行うに当たっては当然それに通じた職人を呼び集めたと思われる中、六郷川に杭打ちをした際の感触で川底の様子に気づくことがなかったのか、それとも気付いたものの無理を圧して架橋を続行したのか、八幡宮(現在の六郷神社)の家康の祈願文は架橋難航を悟った家康が何とか竣工せんことを願ってのことだったのか…などと妄想を膨らませてみたくなります。

そして、この実情にも拘わらず架橋が行われたことから考えても、そんな「難所」に家康以前に後北条氏(や、それ以前に架橋されたのであれば当時の領主)が六郷橋を大金を投じて技術的難題を乗り越えて維持していたとは到底思えず、やはり「小田原記」を六郷橋の証拠として考えるのはますます難しい気がしてくるのです。






追記:2013/01/15
六郷橋の位置を示す地図を追加しました。


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